第13話

 嵐のようにやってきた劉天の母親は嵐のように去っていった。一陣去って、放心したように私と前山先生は応接室のソファに座り込んだ。中国語のスタッフが彼女を送っていってくれた。

「劉さんとは、全く違うタイプの母親だったわね」

 彼女の言葉に力なく頷く。

「まあ、たまにはこういう対応もあるわ。慣れておいて、高宮先生も」

 帰りましょ、と肩を叩かれ、彼女の後について応接室を出た。教員室に戻る途中で、

「透子先生!」と呼び止められる。振り返ると、息を切らしてこちらにやってくる劉天の姿が目に入った。

「劉さん!」

 驚いたように、前山先生も彼の名を呼ぶ。

「前山先生、すみませんでした」

 彼は私たちの前に来るなり、深々と頭を下げた。その様子に、思わず、その肩に手を添えてしまう。

「劉天…さん、顔を上げて」

 そう言っても、彼はなかなか顔を上げなかった。前山先生も励ますように、彼に手を添える。

「劉天さんが問題ないことは、ちゃんとお母さんに伝えたから」

 前山先生の言葉に彼はやっと顔を上げた。

「有り難うございます」

 前山先生を見、私を見てから、もう一度頭を下げる。

「お母さん、とても強い人なので、何を言ってもダメで、学校へ行かないでって言ったんだけど…」

 彼の言葉に前山先生は笑って「確かに、劉さんとは違うね」と私を見る。私も曖昧に笑い返した。

「劉天さん、お母さん、一応納得して帰ったから。これからも頑張って、お母さんに心配掛けないようにね」

 前山先生は諭すように彼に言って、ぽんぽんと彼の肩を叩いた。はい、と劉天も大きく頷く。そして、ちらりと私に視線を寄こした。

「…先生、私、劉さんを送っていきます」

 私は前山先生にそう言って、彼を促して歩き始めた。前山先生と離れてから、劉天が小声で謝ってきた。それに首を振って二人で階段を下り、玄関まで歩いて行く。

「怒ってる?」

 不安そうに彼が言った。

「ううん。そうじゃなくて、責任を感じてる」

 玄関の重たいガラス戸を開け、彼を促した。

「ごめんね。また、ね」

 帰りづらそうにしている彼の前で、ドアを押さえていた右手を外した。ゆっくりとドアが閉まっていく。何か言いたそうにこちらを見ている劉天に手を振って、踵を返した。

「先生」

 事務室の前で、さっきのスタッフに声を掛けられる。

「ああ、時田(ときだ)さん。先ほどは有り難うございました」

 いいえ、と彼女も手を横に振る。

「さっき、劉さんに見せられたスマホの写真のことなんですけど」

 彼女の言葉に、心臓がどくんと高鳴った。平静を装って、彼女に話を促す。

「息子さんのスマホの写真らしくて…そこに映ってる女性が、この学校の先生の誰かじゃないかって、お母さんは思っているようです。写真を見ても、画像が暗くて誰かは判別できませんでしたけど。…確かに、クラスの子ではないような気がします」

「…そう、そうですか」

 返事をするのがやっとだった。ショックを受けているように思われやしないか、気を回す余裕もない。

「まあ、こういうのはプライベートなことなので、とりあえずは先生にだけ報告しておきますね」

「…も、問題にしなくて大丈夫ですか…?」

「うーん、お母さんが息子の動向を心配してきた、と言うことは前山先生が上に報告なさるでしょうし、誰とつき合っているかまでは、学校で問題にする必要は、今のところないと思いますけど」

 そうですか、と力なく頷いて、私はそこを後にした。

 何をどう考えればいいのか、思考が止まっていた。ただ、冷たい感情が胸の奥に溜まっていく。形にしたくない、もの。分かるのは、二人の関係が続けられないかもしれない、ということだけ。

 その夜、長いメールが劉天から届いた。何度も、推敲したように思われる文面。その文を見て、こんなに長い日本語の文が書けるようになったのだ、ととっさにそんな感想が思い浮かぶ。そのことに苦笑してから、彼の文を読み始めた。

 内容は、今日のことを詫びる文と、このことで二人の関係を止めないでほしいというものだった。母親は確かに学校の先生を疑っているが、それがばれることはない、とも書いてあった。バイト先の先輩の紹介だと言ってあるから、と。

 あの母親が、それを確かめないでいられるかは怪しかった。日本人の感覚では彼らは計れない。二人のことが、確実に二人の将来に影を落としている。私は彼の才能を愛している。私は、根っからの日本語教師だ。彼が、学校を止め日本を去る選択肢は、絶対に避けたい。

 ふいに、そばにいる夫に目が向いた。

 彼は私がメールを確認しているソファの横で、床に座ってテレビを見ていた。ビールを片手に、芸能人のバカ話に笑い声を上げている。

 この人と、別れることになるかも。

 唐突に沸き上がった考えに、目頭が熱くなった。夫は何も知らない。そして、彼は何も悪くない。

 夫とも、劉天とも終わるかもしれない。急に現実が見えてきた。二兎を追う者一兎も得ず、という言葉が下りてくる。私は夫に悟られないように席を立って、洗面所に逃げ込んだ。


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