第12話
いつまでも二人の時間が続けばいいと思っていた。
行き先はないけれど、この時間はとても穏やかで優しい。
学校では、クラスも違ったせいか、前期の時ほどの接触はなかった。それでも日本語クラスの学生は、廊下で会えば挨拶をする。劉天とも、会えば挨拶をしたし、話もした。学校で困ったことがあれば、留学生が日本語の先生に相談するのは普通のことなので、私たちが話をしていても怪しむ者はいなかった。
誰にも悟られることなく、疑われることもなく、日々は過ぎていくと思われた。
そんなある日、劉天のお母さんが突然、学校へやって来た。
とても憤った様子で、事務局にやってきて、中国語で何かをまくし立てた。勢いに押された事務局員がすぐに教員室にやってきて、担当の前山先生を呼んだ。事務室での騒ぎを知っていた前山先生は、早々に彼女を中国語ができるスタッフと一緒に応接室に通すと、上の先生に指示を仰ぐために、教員室に戻ってきた。内線で理事長か、校長に指示を仰いでいるようだ。
私はその様子をじっと目で追っていた。心臓が胸骨の中で早鐘のように打っている。
こんな風にやってくる、中国系の親は時々いる。けれど、それが劉天の母親だと言うことが、不安を煽る。二人の関係が、母親に知られてしまったのだろうか。それを抗議するために、ここへ来たのか。――デスクの下に置いた手が震えた。
「高宮先生」
私の不安をよそに、前山先生が私を呼んだ。
「え、はい?」
「悪いけど、一緒に来てくれない?」
頷きながら、立ち上がる。その足が震えた。私の動揺を勘違いした前山先生は、
「日本語を担当している先生が、多い方がいいと思って」
と、私の肩を叩く。私はゆっくりと首肯して、彼女の後に従った。
応接室に入り、挨拶をして前山先生の隣に腰を下ろす。劉天の母親の視線が怖くて、まともに目を向けることが難しかった。気のせいか、彼女に見られている気がする。
「…………、ハイヨウマ?」
彼女が中国語で話し、中国語スタッフがそれを通訳した。
「ええと、若い先生はもっといるか、ということです」
それに前山先生が答える。
「デザイン系の先生なら、いらっしゃいます。今日はどうされました?」
相手の勢いに流されないよう、前山先生は努めて平静を装った。
その質問に、彼女がまた中国語で早口に言い始めた。通訳の話では、息子の劉天がおかしい、ということだった。アルバイトは禁止していたのに、それを始め、窘めても止めることがない。親への連絡も怠りがちで、勉強にも身が入らない様子だというのだ。
それを聞きながら、私は生きた心地がしなかった。劉天の母親は、彼が言うように豪気で厳しい感じの女性だった。高圧的と言ってもいいもの言いで、学校の対応を求めてくる。
中国の女性政治家にいそうな感じがする。ブランドもののスーツに身を固め、その横にはコーチのトートバックが置かれている。いわゆる中国の富裕層だった。そう言えば、劉天から南の方で会社を経営していると聞いたことがある。
「日本語に限って言うと、彼はとても頑張っていますよ。クラスも上がったし、日本語も上達しています。専門の先生からも特に問題があるという話はありません」
前山先生は取りなすように言った。
それに対して、また劉天の母親が何か言った。
「劉さんには、つき合っている女性があるようです。それが原因で勉強に身が入らないのでは、とお母さんは心配しています」
通訳された言葉を聞いて、心臓が飛び出すかと思った。冷たい汗が背中を伝わっていく。
「お母さんと連絡をするために、スマホを持ったそうですが、そこに写真があった、と言っています」
思わず、彼女を見上げてしまった。私の視線に気がついて、彼女もこちらを見る。
「劉さん。息子さんは、もう大人です。学校に迷惑をかけなければ、私たちには彼に言うことはありませんよ」
前山先生が私の横で言った。その声に、劉天の母親も視線を戻す。
「しばらく、学校の方でも彼の動向について様子を見ることにします。問題があるようなら、すぐに連絡しますから、ご安心ください」
前山先生の対応は見事だった。激高する彼女に始終合わせることなく、劉天に問題がないことを彼女に示した。学校で問題がなければ、流石の彼女も引かざるを得ない。渋々というように彼女も頷いた。
それから、通訳のスタッフに中国語で何かを聞いていた。自分のスマホを見せて、少し強い語気で聞いている。スタッフはスマホを覗いてから、首を振り、それだけでは足りないかのように手も振って彼女に返していた。少し、がっかりしたように彼女はそれをブランドのバックに戻した。そして、舌打ちをしながら「那个厚脸皮的女人」と中国語で吐き捨てるように言った。意味は分からなかったが、何となく彼女と目が合った。そのまま逸らせずに、しばらく見つめ合った後、私から目礼した。
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