第5話

 あの日以来、劉天には会わなかった。連絡も取らなかった。といっても、連絡先は学校に登録されている電話番号とメールアドレスしか知らなかったけれど…。彼も私の連絡先は、学校で知らせている公開アドレスしか知らないだろう。

 劉天は、後期から上のクラスに決まった。そのことに少なからずホッとしている自分がいた。これ以上、彼の近くにいたら、自分を抑え続ける自信がない。全く接点がなくなるわけではなかったが、それでも気持ちが軽かった。彼に見つめられながら、冷静に授業ができるとは思えない。軽くとは言え、キスを受けてしまったのだから。

 私は成績処理の仕事を終え、学校のデータベースに成績データを保存すると、紙面化したデータをファイルに収めた。それを持って立ち上がる。

 前山先生に離籍することを言い渡して、自分の席を立った。そして、四階にある資料室に向かう。廊下を歩いても、やはり学生はまばらで、ほとんどいなかった。学期中の学校と違って、がらんとしていて静かだ。エレベーターは使わずに、二階にある教員室から四階まで歩いた。四階にある図書室とPCルームを通り過ぎ、資料室の前に立つ。教員室から持ってきた鍵を取り出し、資料室のドアを開けた。

 ぷうん、と閉め切られた部屋の匂いがした。中には、総務と教務の棚のあと、各教科ごとに棚が並んでいる。日本語の棚を見つけて、資料のボックスを取り出し、その中に持ってきたファイルを入れた。それを棚に戻してから、教師用の資料を取り出し、目を通す。

 かたん、と音がして、振り返った。そこに人の姿を認めて、小さな声を上げてしまう。  

 窓から入る陽光の影になってすぐには誰だか分からなかった。それが劉天だと知って、更に驚いた。

「…なんで」

 彼は何も答えずに、つかつかと足早に近づいてくると、おもむろに私を抱きしめた。びっくりして、彼を押し戻そうとしても、全く動かない。その力強さに驚きながら、今更ながら彼が男の人であることを実感した。普段の行動の控えめさと彼の線の細さからは想像もできない力だ。

「劉さん、は、なして…」

 彼が何か言った。母語(生まれ育った場所の言葉)で言ったのか、聞き取れない。え、と顔を上げると、彼の唇が当たった。額、目蓋、頬そして唇に唇が触れる。そのまま顎、首筋へと下りていき、フレンチ袖のブラウスの上から肩にもキスを浴びせてきた。

「…先生、会いたかった」

 もう一度、頬にキスをしてから自分の頬をすりつけ、彼はため息をつくように言った。その仕草に、きゅんと胸が高鳴る。愛おしさがこみ上げ、思わず彼の背中と頭に手を回した。驚いたように、劉天が一瞬顔を上げ、私の目を見た。そして抱きしめる両腕に力を込めた。しばらく黙ったまま抱き合ってから、劉天が気持ちを言葉にし始めた。

「…先生は、会いたい、思いませんでしたか?」

 答えられずに、彼の肩に顔を寄せたままでいた。彼が続けた。

「僕は、会いたいから、フェイスブックで先生を捜しました。でも、できない。…僕は、手段がないから、心の中が、とてもうるさい。…ナングオ、何と言う、すごく…苦しかった」

「…ごめんなさい」

「先生は、いつも家族と一緒、僕は一人です。本当は、先生は僕の一人だけの人、なってほしい。…僕は、僕の恋人になってほしいです。…ダメですか?」

 込み上げるものがあった。彼への気持ちなのか、切望される喜びなのか、分からない。胸の奥の方から込み上げてきて、目頭が熱くなる。ここで泣くのは、逃げるようで嫌だった。涙を堪えながら、

「ごめんなさい。私はあなたの先生で、結婚もしています」

と、本心が伝わるように、懸命に彼を見つめた。

「…今、夫と別れたいとは思わない。その気持ちは本当です。でも、劉さんのことが好きなのも本当です。…本当です。連絡しなかったのは、」

 続けようとする私の唇を彼が塞いだ。柔らかく触れる、彼の唇。ちゅ、ちゅと何度も小鳥のようなキスを繰り返し、最後に下唇を吸って離れた。

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