第4話
期末試験の時期が来た。これが終われば、夏休みに突入だ。
専門学校なので夏休みも短かったが、それでも学生たちは楽しみで仕方ないらしい。夏が終われば、後期の授業が始まる。二期制を採っているので、期末は学生のレベル測定も兼ねていた。他の教員と協力して、次の学期にどの学生をどのレベルに配置するか決めるのだ。
この期末は、口述試験と決めていた。学生に課題を与え、一人一人、教室とは別の部屋に呼んで面接する。劉天は、出席番号順でいちばん最後だった。時間を過ぎて彼の番になった。外で待つ彼に声を掛け、中に入るように促す。部屋に入ってきた彼に、手で座るように合図すると、彼は私の真正面に椅子を引いて座った。目が合わないように録音機を押して、彼に話すように促した。
彼の声が空間を満たす。二人きりだと言うことを意識しないようにした。なのに、体温が上がり、自分の匂いが増した気がする。
彼は質問を少ない語彙の中で、そつなくこなした。面接しながら、これは、上のクラス行きだなと思った。彼の担任になれないのは残念だけど、後期のクラスでは上のクラスに推薦せざるを得ない。そう思い、そのことをメモしていると、
「先生」
と、劉天が声をかけてきた。
「何ですか?」思わず顔を上げ、彼を見る。
「次のクラス、また先生のクラスですか?」
「…うーん、それは分からない、な」
鋭い、と思いながらも続ける。「残念だけど、ここで答えることはできません。前山(さきやま)先生と相談して、それから決めるので」
「そうですか」
劉天は残念そうに下を向いた。そんな彼を愛おしく想いながらも、
「はい、終了です。お疲れ様」
と、終わりを告げる。
「はい」
そう返事をしたまま、彼は帰ろうとしなかった。
「どうかしましたか?」
私の問いかけに、彼が私の目を見た。その途端、体感温度がぐっと上がった。頬が上気してくる。自分の動揺を隠すようにICレコーダーを指先で触った。劉天は膝に置いていた手をテーブルに置き、そのまま私の手に重ねてきた。こちらの反応を見るように、ゆっくりと指の間に自分の指を滑らせ、指と指が組むように重ね合わせる。
「…劉天、さん」
「先生。先生と一緒に勉強するのが好きです。先生のクラスがいいです」
辛うじて、私は理性を保った。彼の手をゆっくりと外して席を立つ。ドアを開け、彼に出るように促した。
「劉さん、上手でしたよ」
彼は何か言いたげに私を見たが、気持ちを断ち切るように彼の前でドアを閉めた。
その日の午後は採点をしていても、成績の記録をつけていても、劉天の手の感触が甦った。彼の声とゆっくりと自分の手に絡みつく手の感触。何度振り払おうとしても、その光景が脳裏に浮かび上がる。
ふう、と吐息をつき、席を立ち上がった。近くのコーヒーショップに行って、濃いコーヒーか何かを買おう。そう思い立って、お財布を手に歩き出した。席を外すことを同僚に告げて、教員室を出た。
コーヒーショップで少し時間をつぶそうかとも考えたが、結局、一番近場のコンビニでコンビニコーヒーを買った。アメリカンではなく、ヨーロピアンテイストのものにした。気持ちを切り替えたかった。それを持って、エレベーターを避け階段を登る。いつも自分が教えている教室の階で自然と足が止まった。ためらいながらも、教室に向かった。
ドアを開け、がらんとした教室を見回す。劉天のいつも座っている席に目がとまり、どくんと心臓が鳴る。ぎゅっと胸の奥が縮む気がした。踵を返して、教員室に戻ろうとすると、「先生」と、呼び止める声がした。驚いて振り返ったその先に、劉天がいた。嬉しそうに近付いてくる。
「どうしたの?帰ったんじゃなかったの?」
「はい。柏木先生のクラスの課題をPCルームでしていました」
「そう」
じゃあ、と言って足早に離れようとした。
「待って。先生に質問がありました」
彼の横を通り過ぎようとした私の腕を取って、劉天が言った。
「ネイガネイガ、ええと、次のクラス、いつ分かりますか?」
「それは、次の学期の履修のお知らせのメールで分かると思うけど…」
「そうですか。…あの、先生、今、忙しいですか」
「どうして?」
彼はためらうように視線をさ迷わせた。それから、私に視線を戻し、
「先生ともっと、話したい」
声を落として囁いた。その声を聞いた途端、体の奥で何かが縮み、血液が全身を駆け巡り始める。耳のそばで、どくどくと血流の音がした。
「少し、いいですか?」
遠慮がちに劉天が聞いた。即答できない私に、彼は探るような視線を向けてきた。
「…少し、なら」
声が詰まって、上手く答えられなかった。劉天はほっとしたように、教室に入っていった。その後ろ姿を見つめながら、私も続く。教卓のそばまで行って、急に彼が立ち止まった。対応できずに、軽くぶつかってしまう。彼は振り返って、私の目を覗いた。
「ごめんなさい。先生、大丈夫?」
「ああ、うん。大丈夫」
「ホントに?」
私が肯こうとすると、彼の唇が私の唇に触れた。少し離れて、私の目を覗いてくる。私の中に答えを見つけようと、彼の視線が揺れた。探るように瞳を見つめられ、目が離せなかった。見つめ合いながら、お互いが近付いていくのを、止められない。再び彼の唇が触れ、離すときにちう、と私の唇を吸った。
「…私」
「先生、好きです」
彼はそう言って、私を抱きしめた。抱きしめられながら、その腕の中で、私は頭が真っ白になり、何も考えることができなくなった。これは―――危険。ダメ。そうは思うけれど、それをどこか遠くに感じていた。
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