第3話

 春から彼らに教え始めて夏になった。

 電車やビルの中はエアコンが効いているけれど、その前後の通勤で汗をかく。教室に入る前は、年齢を重ねてきた自分の匂いが気になって、何度も汗をふいたり、制汗剤を吹き付けたりした。それでも、教えていると熱が入るのか、汗をかき始める。クラス巡回したり、学生に近付いて話したりするときには、知らず距離を取っていた。

 その日は、授業が終わってから、残っていた学生と少し雑談になった。一人の学生が持っていたカメラが話題となって、日本のカメラのいいところ等を彼らに講釈してもらっていた。

「…そういうことで、私はやはりソニーがお薦めですよ」

「そんなことない、オリンパスのカメラ、ええと、一眼…」

「一眼レフカメラ?」

 学生の話に助け船を出す。内容には入れないが、日本語の助けならできる。

「そうそう、一眼レフカメラ、このカメラはオリンパスが一番」

「そうなの?」

 それまで黙っていた劉天に話を振る。

「…僕は分からない。僕はデジタル好きじゃない」

「この時代に、デジタルが好きじゃないは、変わっていますよね?」

 他の学生が、彼の肩を抱いて、私に同意を求めた。

「うーん、どうかなぁ。でも、アナログにはアナログのいいところがあるかもしれない」

「アナログ?」

 言葉の意味が分からなかったのだろう。その場にいた学生の視線が私に集まる。

「ええと、カメラの場合、デジタルは機械が色々します、アナログは人間が自分でします、分かる?」

 ああ、とみんな肯いた。安心して、少し学生との距離を取ってから、

「アナログカメラは、撮るときに自分で暗さや明るさを調節したり、現像するときも、現像、分かる?…現像のときも自分で好きな感じにできるでしょう?劉天さんは、それが好きなんじゃない?」

身振り手振りを交え、自分の話に補足する。

「そうです、そうです」

 私の話に、彼は嬉しそうに笑った。

「じゃ、次の準備があるから、ここまでにしましょう。また、来週ね」

 私が話を切り上げ、教卓に向かうと、学生たちはそれぞれに挨拶をして教室を出て行った。このクラス用に用意していた教材をまとめ、ばらばらになっているプリントなどを次のクラス用に整理して、よいしょ、と持ち上げた。

「先生」

 いきなり耳元で誰かの声がして、びっくりして振り返る。すぐそばに劉天がいた。

「ど、どうしたの?」

「さっきの話、ありがとう。すごく嬉しかった」

 ああ、と面食らってただ肯いてみせる。

「持ちましょうか?」

 彼は近い距離のまま、荷物に手を添えた。急な出来事に鼓動が早くなり、体温が上がり始める。緊張から汗をかき始め、無意識に彼から距離を取った。彼が不思議そうに私を見る。恥ずかしくなって、顔を背けた。

「…先生、怒りましたか?日本人は、人と近い、嫌いですか?」

 彼の心配そうな声に、私は思わず言った。

「…いや、そうじゃなくて。そうじゃなくて、夏は、私、汗臭いから、それが気になって」

 一瞬、きょとんとして、それから劉天は大きく破顔した。笑いながら彼が何か言った。聞き取れなくて、え、と聞き返すと、彼は荷物に置いていた手を私の腕に伸ばし、ノースリーブの素肌にすうっと手の平を滑らせた。

「先生はくさくない。くさくないです、安心して」

 ゆっくりと腕を下りた彼の指が手の甲を伝った。そのまま、薬指の銀色の指輪に止まって、指先で弄り始める。その仕草に、顔中が火照るのを感じた。

「先生は、いつもいい匂いです。今も、いい匂い…」

「ありがとう」

 そう言うのが精一杯だった。その場から離れなくては、と思いながら体が動かない。

 劉天の視線は、指輪を触る自分の手に注がれていた。しばらくそうしてから、劉天は手を放して荷物を私から取り上げ、踵を返した。その背を追いかけながら、後ろめたさと同時に奇妙な熱を感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る