第20話

 うっすらと目を開けると、目の前に黄金の巨体が目に入り、素早く遠ざかって行った。隣にいた聖也が、弾かれたように走り出す。

「聖也っ」

 屋上に設置された給水塔に向かって迷いなく走っていく。後を追う暇もなく、あっという間にその急なはしごを登り切り、そこに立ち上がった。

「危ないよ!落ちちゃうっ」

「馨、あれを見てっ」

 聖也が指さす方を見ると、そこには金色をした、人よりも大きな、翼を持つ生き物が宙を飛んでいた。屋上の上をゆっくりと旋回し、こちらを伺うように、空中でホバリングし始める。どのくらい、時間が経ったのかは分からない。

 それは観察するようにゆっくりと馨たちの頭上を飛び、そして、来たときと同じくらい唐突に姿を消した。

「待て、おいっ!」

 馨が見たこともない必死さで、聖也はその姿を追いかけた。半ば飛び降りるような形で給水塔を降り、そのまま走って行って屋上のフェンスの上に飛び乗った。今にもそこから飛び降りそうで、馨は必死になってそばへと駆けつける。

「何?今のは、何だったの?」

「仲間だ。きっと、仲間だ」

 興奮した声で、聖也が言った。このまま、あれを追って聖也もここから飛び降りるような気がして、馨はひしとその足を両腕で抱え込んだ。聖也の足にぐっと力がこもるのを感じた。

 その時、再び強い風が聖也を巻き込んだ。聖也がバランスを崩し、フェンスの向こう側にグラリと体が傾いた。まるで、ドラマのスローモーションのように聖也の体が、馨の目の前を落ちてゆく。ゆっくりと頭が下になって行き、足下のズボンが馨の腕をすり抜けてゆく。馨は無我夢中で手を伸ばし、その足を逃すまいと必死に手に残った物を掴み続けた。

「馨、手を離せ!」

「離、せないっ」

「落ちるぞ!」

「なら、上がってきてっ」

 馨の必死の訴えも届かないのか、無情にも掴んだ彼の足が馨の手から滑り落ち始める。どんなに強く掴んだつもりでも、所詮は女の子の力だった。滲む汗とぶるぶると震える馨の体。馨の目から知らず涙がこぼれ落ちた。目の前の友達の姿が歪む。聖也が叫んだ。

「くそっ!…目を閉じてろ!」

 涙でかすむ目を言われたままに閉じる。ふっと手元が軽くなり、スルリと掴んでいた物が抜けた。え、と目を開ける馨の目の前から、聖也の姿が消えていた。びっくりして、身を乗り出すようにフェンスの下を覗き込む。

「危ない!」

 力強い手が彼女を引き上げるように抱え込み、そのままその手の主と一緒に後ろ向きに転がった。

「バカっ、お前が落ちるだろっ」

 自分のお腹に手を回すその人を見て、馨は声を失った。それが聖也だと分かった途端、その首にしがみついた。

「おい?」

 声を上げずに泣き始める馨に、聖也の方が戸惑った声を上げる。

「馨?」

 しばらくすると、しゃくり上げ、体を離して、馨が聖也を見た。

「…びっくりした。聖也が落ちたかと思った…」

「俺は、お前が落ちるかと思ったよ」

 馨はその台詞は耳に入らないかのように、彼を見つめ、もう一度彼に身を寄せた。

「…よかった。こんな肝心なときに、死んだら洒落にならないもん」

 聖也は口を開きかけて止めた。そのまま、馨を抱きしめる。しばらく彼女が落ち着くまで、そうしていた。

 やがて、泣き止んだ馨は、聖也の隣に放心したように座り込んだ。

「大丈夫か?」

 気遣う聖也にうん、と肯く。

「…あれは、仲間なの?」

 独り言のような声で言い、馨は顔も上げなかった。

「多分」

「…良かったね。これで寂しくないね」

 俯いた馨の顔を見下ろして、聖也は訊いた。

「…馨、どうしてお前は、そうやって無理すんだよ?俺は人じゃないのに、自分でどうにかできるって思わなかった?」

 馨はゆっくりと頭を振った。

「…聖也が人じゃないなんて、どこかに飛んでたよ。いくら聖也だって、ここから落ちたら死ぬでしょ。友達に死んでほしい人はいないよ?」

「…そっか。馨らしいな…昔から、そういう奴だったよな」

 馨を見つめる聖也の目が潤むように銀色に輝いて、光を反射した。聖也は目を閉じてしばらくじっとしていた。それから無言で立ち上がると、金色の翼を持ったトカゲのような生き物が消えていった方へと目を向けた。 

「…金色のドラゴンみたいだったね」

 馨は眩しげに聖也を見上げた。空を見たまま、彼はただ肯いただけだった。

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