第18話

 どこかで蝉が鳴いている。

 白い光となって、太陽の光が燦々と大地に降り注いでいた。青い空には、梅雨の名残とも言える真っ白い綿雲が切れ切れに浮かんでいる。

馨は、校舎を背に空を見上げた。

「夏が来たなぁ」

 うーん、と大きく伸びをして、目を細める。室内の明るさに慣れた目に、夏の日差しが眩しい。

「馨、特講、終わった?」

 声のした方に馨が振り向くと、そこには部活姿の加藤がいた。馨は笑顔で彼に答えた。

「うん。そっちは部活?」

「そ、もうじき最後の試合だからな。俺の受験はそれからさ」

 加藤は明るく言って馨に手を振ると、校庭に駆けだした。その姿を見送ってから馨は歩き出す。もう一度空を見上げ、馨は目を細めた。

 夏休みの特別講習を受けて、馨は既に受験態勢に入っている。けれど、彼女の通っている中学は公立中だけに、運動系の部活をしている生徒の中には、加藤のように中学最後の試合を控え、まだ部活に励んでいる者もいた。

 数日前に雨は止んだ。それまで、はっきりしない天気が続いていたのが嘘のように、ここ数日晴れ間が続いている。空には切れ切れの白い雲。ここが前線の境目だと語っているようだ、と馨は思った。

 あまりの気持ちよさに、馨は遠回りして帰ることに決めた。

 歩けば十五分くらいの道を、川に沿って迂回するように歩いて行く。川の両脇に広がる緑が濃かった。春の色合いとは全く異なっている。燦々と降り注ぐ太陽光を反射して、白く光っている。梅雨の間たっぷりと注がれた水に木々が生き生きと輝いていた。

 緑から立ち上る生命力の力強さと、これから始まるであろう暑気の兆しを感じながら、馨はコンビニ回りで帰るルートを頭に描いた。明るい太陽に日差しに、冷たいものがほしかった。この川沿いの道を少し行くと、ちょうどコンビニに出る道と出くわす。その道へ折れて、小学校と反対の方の道を行けばすぐに自分の家だ。

 川沿いの道を左方向に折れ、森が深くなる方へと進んでいく。竹と落葉樹が混生したその森を抜けると、唐突に大きな道が現れ、その境にコンビニがあった。反対の車道側から見ると、ちょうど森をバックにしているような立地だ。

 馨は喜々としてコンビニに入ろうとして、足を止めた。

 店と森との境目に、誰か人がいる。制服姿の女の子と、夏服のズボンを穿いた、馨の中学の男子生徒だ。女の子が店の裏手の壁を背にして立っている。そのすぐ前に男の子がいた。森を抜けてすぐに気が付いたお陰で、ちょうど二人からは馨がまだ見えない位置にいる。

 怪しい雰囲気の二人に、馨は遠回りしたことを少しだけ後悔した。他人の、しかも同じ学校の生徒の逢い引きの現場ほど避けたいものない。ましてや知り合いだったら、なおさらばつが悪い思いをしてしまう。しばらく迷った挙げ句、気が付かない振りで行こうと決めた。

 くすくすくす。

馨が一歩足を踏み出そうとしたとき、女の子の柔らかな押し殺したような笑い声が聞こえてきた。はっとして、つい声のした方を見てしまう。男の子が彼女に覆い被さるように立っていた。くすぐったがるように相手の女の子が声を潜めて笑っている。その声に、誘うような響きを感じ取って、馨は思わず赤面した。

「…じっとしてて」

 ぐぐもったような男の子の声も聞こえる。その声に、馨は聞き覚えがあることに気付いた。

(うそ…)

 その立ち姿にも見覚えがある。柔らかそうな、少し癖のある髪。すっと伸びた、やや痩せたその背中。

(聖也だ)

 馨は驚いてその後ろ姿を見つめた。聖也が女の子と、紛れもなくいちゃいちゃしている。しかも、制服からすると相手は高校生だ。その制服に馨は見覚えがあった。女の子のクスクス笑いが途切れ、聖也がさらに彼女に身を寄せる。

(キス、してる)

 馨は顔を背け、.元来た道を引き返した。足早にその場を去る。頭の中は混乱していた。

(どうゆうこと、一体、何なの?…彼女とは、そういう関係だったわけ?)

 聖也は女の子のことをいい匂いがするだけだと言っていた。自分に感じるのはそれだけだと。あの時、聖也は嘘を言っていたのだろうか。

(匂いを嗅いでいるようには見えなかったけど…)

 混乱した頭で歩き続けているうちに、馨は次第に自分の中の興奮が冷めていくのを感じた。河原に佇み、冷えてきた頭で、冷静に考えてみる。

(聖也でも、人間のように発情するって事なのかな?)

 人ではない聖也が何を言おうと、本当ではない気がした。人の感覚に合わせた表現でしかないのだ。本当のところは、オブラートで包んで隠しているのかもしれない。自分の正体を、爽やかで人当たりのいい外見で隠しているように。人の皮を被って、隠しているように。

 けれど、自分は彼の正体を知っている。彼が銀色の異形の生き物だと言うことを、知っている。あるいは、そういう自分に対してなら、彼の言っていることも、いくらかは本音なのではないのか。そう思うと、馨は悲しい気がした。キスしている、あの女子高生に彼は自分の正体を明かすのだろうか。あの、銀色の化け物のような姿を曝(さら)すのだろうか。そうして、二人はどうなるのだろう。

(聖也も、恋する相手くらいほしいのかも)

 何度となく見せた、不安定な聖也を思い出す。あの林で、自分を抱きしめた聖也。雨の降り続く中、図書館にも、自分の家にも帰ってこられなかった聖也。彼の不安定さは、その存在の不確かさだ。人とは違う存在。確かに存在してるのに、正体を隠し、人に潜り込んで生活している危うさだ。

(…ああ、悲しい恋でなければいい)

 馨は、ふっとそう思い、ぎゅっと目を瞑った。心を、透明な悲しみにも似た切ない気持ちが満たしていく。馨は何となく泣きそうになる自分を堪えながら、川沿いの道を再び歩き出した。

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