第16話

 (…影だ)

 馨は思わず聖也を見上げた。聖也も馨に視線を向ける。その瞳には、躊躇するような色が浮かんでいた。馨が何も言わずに見つめていると、聖也は視線を黒く漂う浮遊物に戻し、それから門の向こうを気遣わしげに見やった。

「聖也?」

 馨の声に反応して、聖也が彼女に視線を戻す。

「変身する?」

 聖也の瞳が迷うように揺らいだ。顔を馨に向けたまま、瞬時に扉の向こうと門の前の通りに目を向け、何かを確認する。彼らの数メートル先で黒い影は、するするするとまるで腕を伸ばすように、門の向こう側へと触手めいたものを伸ばし始めた。

 弾かれたように聖也は影に目をやり、馨にもう一度目を向けた。その目に強い迷いが浮かんで消えた。その瞬間、人の形を破るように銀色の化け物の姿が現れ、馨が声を上げる間もなく、驚くべき跳躍力で雨の中に消えていった。

 馨は、悲鳴を押し殺すので精一杯だった。

 目の前で見知った聖也の形が、銀色のトカゲのような化け物に変わっていく。その変化は、聖也を構成しているすべてが、あのトカゲの化け物になっていくような感じだった。

 聖也があの化け物だと言うことは知っていた。けれど、初めて彼を見た瞬間のように、恐怖が馨を支配した。頭では理解していても、実際にそれを目の当たりにすると、込み上げる恐怖を馨は抑えることはできなかった。

 馨は、がくがくする膝を何とか立たせ、図書館の自動ドアをくぐって、入り口に設置された長いすに腰を下ろした。細かい震えが全身に広がる。馨は息を詰めて、浅い呼吸を繰り返しながら、恐怖が体から去るのを待った。

 ようやく立てるようになってから、馨は入り口の近くに設置された自販機で熱いコーヒーを買い求め、もう一度椅子に座り直してそれを啜った。静かに啜りながら、その熱が固まった体を緩めていくのを感じていた。

 馨は聖也の躊躇の訳をやっと理解した気がした。さっき自分に見せた、聖也の迷い。そして、オリエンテーションで影が現れた時に彼が彼女に見せた、あの気遣い。

『馨が怖がるから』

 聖也の行動は言下にそう言っていた。

 聖也の思いは知っても、それでも「怖い」と馨は思う。人外の存在である彼を、目の当たりにした彼の異形の姿を受け入れるのは容易ではない。(それでも…)と、馨は思い直す。

 変身した聖也は恐ろしい。それでも、彼は馨の友人だった。

 熱い飲み物が全身を満たした後で、平静を取り戻した馨は、図書館内の広く設置された作業スペースを一回りして、聖也の席を見つけ出した。その隣に席を構え、勉強道具を鞄から取り出す。そして、自分の部屋で中断した勉強を再開した。

 窓の向こうでは、相変わらず雨が降り続いている。

 雨に閉ざされた空間で、読んだものをまとめてノートを作る作業は、馨にとってとても心が落ち着くものだった。心臓が縮むような思いをしたことなど、もうすっかり抜けていた。もう、聖也に会っても平静が保てるだろう。

 けれど、馨の思いとは裏腹に、閉館時間になっても聖也は現れなかった。自分の置いた道具もそのままに、図書館には戻ってこなかったのだ。5時の閉館を迎え、自分の道具を鞄にしまって帰り支度をした馨は、そのまま聖也のものも放っておくことができず、雨の中遠回りして彼の家へとそれらを届けた。

 聖也はけれど、自宅にも帰っていなかった。彼の勉強道具を、玄関先に出た聖也の妹に託し、馨は彼の家を後にした。

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