第15話
雨が降り続いていた。
たまの日曜日でも、受験生には出かける暇もなく、またこの陽気にそんな気力も出なかった。
馨は、降り止まぬ雨にけぶる窓の外を見ながら、机の上の本に手をやった。強い湿気に参考書の紙が波打っている。それをそっと撫でながら、ふっと息をつく。
「馨、入るわよ」
そう断って、母のはる子が入ってきた。はる子の手には大きな籠が抱えられ、中には洗濯物の山が見えている。
「悪いんだけど、ここが一番風通しが良いから、乾させてもらうわよ」
「うん、いいよ」
はる子は手際よくロープを掛けたところに、洗濯物を乾していく。それを目で追いながら、馨は再び窓の向こうへと目を向けた。雨が入ってこないように少しだけ開けたガラス戸の向こうに、白っぽく色づいた緑の木々が見えている。
馨はふいに参考書を閉じると、母に言った。
「お母さん、何かやる気でないから、気分転換に図書館に行ってくる」
「え?この雨の中?」
馨が肯くと、はる子は渋々承諾した。洗濯物を掛けながら、
「濡れないようにカッパ着なさいよ。これ以上洗濯物が増えるのは嫌だからね‥」
言い聞かせるように言った。
「分かった」
馨は笑いながら請け負って、適当な鞄に教科書や参考書を詰め、出かける支度をする。上着を羽織り、階段を下りて玄関までやって来ると、母親に言われた通り靴箱の横の棚から赤いカッパを取り出して身につけた。それから靴箱から薄いピンク色の長靴を取り出して足を入れる。
「じゃあ、行ってくるね」
二階にいる母に声を掛け、馨は傘を手に玄関の戸を開けた。
ざあ―
途端に雨音が耳に入ってきた。傘を差して、その中を歩き出す。白い細かい水玉の入った赤いレインコート、薄ピンク色の傘と長靴。勉強道具の入った白いエナメル製の鞄。憂鬱な雨だったが、こうして歩いていると、少しだけ気分も晴れてくる気がする。
市立図書館は、川向こうにあった。馨の家からは歩いて十五分ほどの距離だ。一旦川へ向かって歩いて行き、そこにかかっている橋を渡り、それから川沿いに少し歩く。やがて生い茂る木々が開けて、古いコンクリート造りの低い建物が見えてくる。それが馨の目指す図書館だった。
石造りの門を通り過ぎ、図書館へ入る入り口で馨は足を止めた。図書館の中からやって来た人物に目を留める。薄青いダンガリーシャツにストレートジーンズを穿いた背の高いその姿には見覚えがあった。自動ドアが開いて、少年がこちらにやってくる。
「聖也」
馨が声を掛けると、呼ばれた少年がこちらを見た。
「馨」
向こうも驚いたような顔を馨に向けた。
馨は手にしていた傘の雨を払い、細く畳んでから傘立てに入れた。馨の傍らに聖也がやって来た。
「何、ここで勉強?」
聖也に訊ねられて、馨は肯いた。
「うん、あんたも?」
ちょっと答えを躊躇するような間があって、聖也は肯いた。
その時ふいに自動ドアが開いて、二人の脇を、隣町にある女子校の制服を着た高校生が通り過ぎて行った。ロングの緩やかにカールした髪を揺らしながら、通り過ぎる瞬間、彼女はちらりと聖也に視線を送った。それに気が付いて、聖也も彼女に視線を向ける。二人の視線が絡み合い、彼女が微笑みながら小さく手を振った。それに対して聖也も肯いてみせる。馨は一連のやりとりを見送って、女子高生が白く煙る雨の中に消えていくのを確認してから、訝るように聖也を見上げた。
「今の人、聖也の知り合い?」
「え?まあ、うん」
歯切れの悪い返事を返して、聖也は中に戻ろうとした。
「馨も、入るだろ?」
ちらりと馨を見やってから、先に立つようにして歩き始める。馨は少しばかり不審に思いながらも後に続こうとした。
と、ゾクリと背筋に悪寒が走り、首筋の毛が泡立つような気配を感じて後ろを振り向く。その隣で聖也が同じように緊張した面持ちで振り返った。
上から線のように降り注ぐ雨の中、煙のような、靄のような黒いものが地面の上を漂っている。それはだんだん周りから集まってきて、実体のない影のようにそこに浮かんでいた。
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