第14話

 (聖也には、誰かを好きって感覚がないのかな)

 数日前に交わした、準備室での彼との会話を思い浮かべながら、馨は思った。

 放課後の教室。馨は窓辺に立ち、濡れそぼった校庭の木々を見るとはなしに見つめていた。雨が絶え間なく降っている。いよいよ梅雨も本番なのだ。

 校庭の端に植えられた、紫陽花の花が色とりどりに咲きそろっている。

 何となく、馨は雨の中を帰るのが億劫で、校庭の花や木が雨に濡れている様を見続けていた。そのうちに、大勢の足音が聞こえ始め、部活動の校内練習で廊下を走っていく学生のざわめきが教室いっぱいに響いてから、遠ざかっていった。

(雨で練習できない代わりに走ってるのか)

 そう思ってから、さすがに帰ろうと踵を返した時だった。教室のドアががらりと開いて、聖也が顔を出した。

「何、まだ残ってんの?委員会か、何か?」

「ううん、もう、帰るところ」

 ふうん、と肯きながら、聖也が教室に入ってくる。特に用がある風でもなく、馨のそばまで来ると、馨の見ていた校庭へと視線を向けた。 

「紫陽花が、もうあんなに咲いてる」

「うん」

 しばらく聖也はじっと窓の外を見ていた。

「紫陽花、好きなの?」

「…あの花の匂いって、馨の匂いに似ているよ」

 馨は自分の頬がかっと上気するのを感じた。紫陽花から視線を移して、聖也が馨を見下ろす。

「ばっ、ばかなことを言わないでよ!紫陽花って、あんまり匂いしないじゃん」

 恥ずかしさも手伝って、強い語調で言い返してしまう。聖也は気に留める風もなく、また、紫陽花の方を見た。

「俺の嗅覚は、人間と違うのかも。特に、ああいう濃い、蒼い紫陽花が雨に香る匂いが、馨を思い起こさせる」

 馨は面映ゆさを感じながら、聖也の横顔を見つめた。聖也は特に深い意味があって、言っているのではないのかもしれない。

「そういうこと、さらっと言える、聖也が信じられない」

 馨は正視し続けられなくて、彼から視線を外した。

「…誰にでも、そういう事、言う訳?」

「……どうかな?」

 はぐらかし、とも取れる返事を聖也は返した。余計に腹が立って、馨は窓に視線を向けた。雨に煙って聖也のいう蒼い紫陽花が咲いているのが目に入る。

 しばらくの沈黙のあとで、聖也が言った。

「…女の子はさ、大抵いい匂いがするんだ。まあ、中にはガーベラみたいに見てくれだけの子もいるけど、普通はいい匂いがする」そこまで言って、覗き込むようにして馨を見る。「もちろん、馨も」

 思わず、最後の一言は余計だったと、馨は思った。その気持ちを隠すこともせずに、ゲンナリした表情で聖也を見上げる。

「分かったから。もう、いいよ。そういうのは、他の子に言って」

 その台詞に、聖也は一瞬驚いたような顔を馨に向けてから、ぱっと破顔した。彼は笑いながら、「オッケー」と言った。

「お望み通り、他の子に言うことにするよ」

 喉の奥を鳴らしながら、聖也はなおも笑っている。つられて馨も笑ってしまった。二人でひとしきり笑い合った後、聖也はちょっとまじめな顔で、

「でも、本音が言えるのは、馨くらいかもな」

と馨を見た。

 一瞬、馨は言葉に詰まった。聖也を見つめてから、返す言葉を見つけようと視線を巡らす。その言葉の示す寂しさに、馨は胸が詰まる思いがした。

「…また、真面目に受け取る」

 そう言って、聖也は馨に微笑んで見せ、ポンと彼女の肩に手を置くと、そのまま彼女をあとにして、教室を出て行った。

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