第13話

 どんよりと垂れ込めた雲が空を覆っている。雲が厚い所為で日差しは届かず、何となく肌寒かった。

 馨は担任の山下にまた頼まれものをして、特別棟の準備室に向かっていた。そこにある、社会科の教室用の資料を取ってくるように言われているのだ。何となく体が重いことで、馨は気圧の変わり目を感じていた。こういう日は、とにかく眠い。

 馨が廊下の窓の外に目をやると、微かな稲光が目に入った。それから、一呼吸以上おいて、ゴロゴロという雷特有の音も聞こえてくる。

(いよいよ、梅雨入りが近いのかな)

 そんなことを思いながら、馨は本棟の廊下を抜けて準備室へと向かった。特別棟だけあって、行き交う学生も少ない。いくつかの教室を通り越して、奥の準備室のドアの前に立つ。馨は中に人がいないのを確認しながら、古くて堅い引き戸を開けようと手を掛けた。

 途端に、雷鳴がとどろき、きゃっと言う短い悲鳴が隣の教室から聞こえてくる。びっくりして、馨は思わず、隣の教室のドアの小窓から中を覗いた。

 背の高い男子と、それに寄り添うようにして立つ女子の姿が見える。男の子の後ろ姿が見覚えがあるような気がして、馨は首を傾げた。けれど、それが誰だか思い当たる前に、更なる稲光と間髪をおかずに鳴り響く雷鳴に、馨は驚いて首をすくめ、「ひゃっ」と小さな声を上げてしまう。

 その声に、中にいた女の子が反応した。

 急いで一緒にいた男子から離れると、教室の別の出入り口からそそくさと逃げるように立ち去っていく。その後ろ姿を見送って、馨は残された男子の方へと顔を向けた。

 馨の視線の先に、こちらに目を向ける少年の姿が映る。一瞬、その目が赤く光った気がして、馨は目を瞬かせた。そして、その視線を受けながら、それが聖也だと理解する。馨は今更ながらに、ばつの悪さを感じ、視線を落とした。

(変なところ、見ちゃったな)

 そのまま、何も言わずに隣の準備室に行こうとして、聖也の声に引き留められる。

「馨だろ?」

 馨が返事を迷っていると、がらりと戸が開いて、聖也が顔を出した。

「何してるの?」

(それはこっちの台詞)と思いつつ、

「山ちゃんに頼まれた資料、取りに来ただけ」と答える。

 ふうん、と聖也は肯いただけだった。そのまま、意味ありげな視線を彼女に落とす。

「何?」

 たまらず、馨の方が訊いてしまった。聖也はニヤニヤしながら、馨を見下ろしている。

「何で、声も掛けずに行こうとしたの?」

「え?…あの、何でって…」

 さっきの二人の様子を思い出して、馨は口ごもった。いくら鈍感な馨でも、察するところはある。

「何か、誤解した?」

 聖也は言った。え、とその目を覗き込む。その瞬間、空気がびりびりするほどの雷鳴が轟き、我知らず馨は聖也に寄り添っていた。そして、聖也の息づかいを感じながら、振動が収まるまでの一時、そのそばを離れられずにいた。

 そんな馨の姿を見て、くすりと聖也が笑いを漏らす。

「佐藤さんも、そうやって怖がってたな」

 佐藤さん、と言うのがさっきの女の子だと言うことは、馨にもすぐに分かった。「誤解」というのは、そういうことなのだ。

「弁解する必要はないよ」

 馨は冷たく言い放ち、聖也から離れて、準備室のドアに手を掛けた。それより先に、聖也の手が伸びてきて、重い戸を開けてくれる。

 馨は礼を言いながら、資料室に入った。そのあとを聖也もついてくる。

「何で、あんたも来るの?」

「だって、俺は騎士(ナイト)だから。また、馨が怖がったら、抱きしめてあげなくちゃ」

 聖也は面白そうに言って、適当にその辺を見て回った。それを横目で見ながら、馨はお目当ての資料を探し始める。

「馨。馨は、田芝のどこが好きなの?」

 唐突に、聖也が訊いてきた。面食らって馨は、答えられずにただ彼を見ただけだった。

「どんな風に好きなの?」

 なおも聖也は訊いてくる。

「…ただ、いいなって思ってるだけ」

 馨は言った。自分の答えに対する聖也の反応を見ながら、ちょっとずつ言葉を選んでいく。

「田芝を見てると、気持ちいいって言うか、気分がいいって言うか。……田芝は、性格もきちんとしているから。もちろん、すっとした感じの目元とか、きりりとした眉毛とか、広い額とか、そういう見た目も好みではあるんだけど…」

 馨は、剣道部の部長である、彼の面差しを思い浮かべながら言った。

「ふうん。好きって、そういうこと?」

「…聖也は、誰かをいいなって思ったことないの?」

 馨の質問に、聖也はぐるりと視線を回した。それから、

「どうかな」聖也はそう答えたきり、窓の方に視線を走らせた。いつの間にか、外ではバケツをひっくり返したような雨が降り始めている。

 馨もそれ以上は続けず、先生に頼まれたものを見つけ出して、資料室をあとにした。聖也もあとを追ってきて、並んで歩き始める。

「…俺は、女の子をいい匂いだと、思うだけだな」

 ぽつりと、聖也が呟いた。その意味を計りかねて、馨はただ黙ってその横を歩いていた。

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