第10話

(何かがいる。この感じは―――)

 馨の脳裏を黒い影がよぎった。この感触は覚えている。黒い煙のような影が姿を現す前触れの感覚によく似ている。聖也もその存在を感知して、あんな風に狩りをする前の獣のような顔をしているのだ。

 そう思ってから、馨は自分の手が微かに震えているのを意識した。聖也から自分の指先に視線を移す。

「どうした、馨?」

 馨の様子に気が付いて声を掛けた加藤に、曖昧な笑みで答える。視線を感じて見上げると、聖也が何か言いたげな目つきで馨を見ていた。

「何でもない。ええと、私と聖也で、ちょっと見てくるから、加藤たちはこの辺を確認してくれない?」

「え?」

 馨は加藤が反論するまもなく、聖也の手を引いて足早に歩き出した。聖也も抗うことなくついてくる。しばらく二人で歩いた後で、馨は後ろを振り返って言った。

「聖也、どうしたい?」

「え?」

「アレがいるよね?」

 聖也は馨の言葉に、少し驚いたように彼女を見た。

「気付いてた?」

 その言葉に、こくん、と肯く。「この泡立つような嫌な感じ、前にも感じたことがあるから」

 そう、とだけ言って、聖也は辺りを見回した。

「…近くにいる。板波たちから見えないところまで、一緒に行ってくれない?あとは、俺ひとりで行くから…」

 馨は肯いて、聖也と歩き始めた。時折、ハンターのような聖也の横顔を見上げた。影の気配に寒気を感じる。知らず自分の右手で反対の肩を抱いていた。それを見留めたように、

「大丈夫?」と聖也が訊いてきた。馨は肩をすくめて、頭(かぶり)を振った。

「あんまり」

 聖也が労るように、馨の肩に手を置いてきた。馨は振り払う気にもなれなくて、そのままにした。

 と、その時、林から伸びた木の枝がゆらりと揺れて、ふいに二人の上に影が差したように見えた。その途端、弾かれたように、聖也が馨を自分の方に引き寄せた。その腕ににきつく抱かれながら、馨はその鼓動を聞いた。どくどくと早鐘を打つ、聖也の心臓。アドレナリンが体を駆け巡っているような音だ。

「じっとして!」

 有無を言わさぬ声音に、馨はじっとしていた。聖也は片手で馨を抱き、片手で何かを薙ぎ払うような仕草をした。そうして、しばらく様子を探るように馨を抱いたまま佇んでいた。

「…ちゃんと追い払えてない。…また、来る」

 聖也が独り言のように言う。その声を聞きながら、馨は恐怖でぎゅっと彼のジャージを握りしめ続けていた。

「走るよ!」

 と、突然、馨の手を取り、聖也が走り出す。公道を逸れて、聖也は林の中へと入っていった。彼に連れられて、馨も一緒に走っていく。けれど、下草が絡んで、上手く走れなかった。それを察したように、聖也が足を止めて振り返る。

「馨、離れても大丈夫?」

 馨は息を切らしたまま、頭(かぶり)を振った。聖也が自分を見ているのは感じたけれど、怖くて顔を上げられない。

 頭の上で、彼のため息が聞こえた。

「とりあえず、もう少し移動しよう」

 聖也は馨を抱えるようにして、歩き始める。馨は聖也のジャージの裾を再び握りしめた。

「ちょっと歩きにくいかも知れないけど…」

 そう言いながら、聖也は更に林の中に入っていく。二人の足下を、勢いよく伸びた下草が阻んで思うように動けない。それでも、聖也は根気よく藪の中を掻き分けて進み、ぽっかりと空いた空間を見つけてようやく足を止めた。

「馨、ここで待ってて」

「どこへ行くの?」

 聖也は馨の質問にちょっと躊躇してから、答えた。

「変身する。馨はここにいて」

 馨は聖也の顔を見上げながら、思わずその手を掴んでいた。

「待って。聖也は大丈夫なの?」

 馨の必死な表情に、聖也が苦笑する。

「…俺は、捕食者(ハンター)だよ?」

 馨の脳裏に、影を喰らう銀色の化け物の姿が浮かんで消えた。馨は彼の言う意味をゆっくりと理解して、その手を離した。

 聖也は、顎で馨に向こうを向くように指示して、馨が従うのを待った。馨が彼から背を向けると、人の姿を破るように、銀色の姿が現れた。二本の足で立ち上がったトカゲのような姿をしたそれは、俊敏な動作で大きく跳ね上がり、林の暗がりへと姿を消した。

 それを気配で察した馨は聖也がいた方へと振り返り、そして腰を落とした。その場に座り込み、枯れた草地の上にへたり込む。そのまま気絶してしまいたい、と思ったが、馨の気丈さがそれをさせなかった。

 馨は体を抱え込むようにして座り、聖也が再び現れるのを待った。

(あんまり時間がかかると、変に思われるかも)

 けれども、そんな心配はいらなかった。すぐに聖也は人の姿で現れ、馨のそばに来た。

「良かった‥」

 馨から安堵の息がこぼれた。安心したように聖也を見上げる。けれど、馨を見下ろす聖也の表情(かお)を見て、馨は不安に駆られた。

「どうしたの、聖也?なんか、変だよ?」

 その目は馨を映していないように思えたのだ。虚ろに、馨のいる原を見つめている。

 馨は立ち上がろうとして、腰が立たないことを気が付いた。仕方なく、膝でにじり寄る。彼女が近付くと、聖也ははっとして、それを避けるように後ずさった。

「何、どうしたの?」

 怪訝そうに見上げる馨に、聖也が首を振った。

「ごめん。変なんだ。モヤモヤする…ちょっと、近付かないで」

 その姿は、球技大会の時の聖也を思い起こさせた。憂鬱そうな顔で、教室にひとりいた聖也。

 馨は心配になって、聖也を見上げていた。しばらく聖也は立ち尽くした後、頭(かぶり)を振って、頭をはっきりさせるかのように何度も叩いた。それから、ようやく立ち上がれない馨を気遣って、

「立てる?」

と、手を差し出す。馨が彼に手伝ってもらって立ち上がると、彼はそっと馨に触れた。

「何?」

 そのまま馨を抱き寄せ、その香りを嗅ぐような仕草をする。

「少しだけ、このままでいて。こうしていると、楽になる」

 苦しそうな彼を見ていただけに、馨は突き放せなかった。近付こうとにじり寄った時に後ずさったことを考えると、今の状態は何だかおかしい気もしたけれど、それでも聖也の好きなようにさせた。 

「行こう」

 しばらくすると、落ち着きを取り戻した声で、聖也が言った。彼が正気に戻ったことを理解して、聖也から離れる。

「さっき、アレを追った時にポイントを見つけた。知らせに帰ろう。」

 聖也は馨を促すと、馨の先に立って枯れた蔓や下草を払いながら、馨が通りやすいようにしてくれた。

「ありがとう。…もう、大丈夫?」

 馨は自分の前を歩くその背に向かって訊いた。振り向かずに、聖也が肯く。

「アレを食べてきたの?」

 続けて馨は訊いた。一瞬、聖也は馨に顔を向け、それからまた背を向ける。

「そう」

「変身して?」

「そう」

 聖也は馨の質問に簡潔に答えた。

「どうして、私に後ろを向くように言ったの?」

 その質問に、聖也が立ち止まった。困ったような顔をして、馨を振り返る。馨は、してはいけない質問だったか、と少し後悔した。

「馨が怖いんじゃないかと思って…」

「…そっか」

 今度は馨が簡潔に答える番だった。再び歩き始めた聖也に、馨は安心して後を追う。

「…考えたんだけど、加藤たちには、犬に追いかけられて遅くなったことにしない?」

 馨の提案に、聖也も肯いた。

 二人はやっと公道に出ると、加藤たちのいる方角に向かって、歩き始めた。もう、あの嫌な気配はみじんもない。「食べた」という聖也の台詞を、馨は思い返して納得した。

(ハンター、というのは本当なんだ)

 しばらく歩いて行くと、加藤たちの姿が見え、加藤がこちらに気付いて手を振ってきた。馨もその姿に安堵して、手を振り返す。

 加藤は無駄に走って、馨たちのそばにやって来た。そして、二人の間に割り込むように陣取る。

「ポイント、見つけたよ。悪いんだけど、私、戻って綾子たちに知らせるから、加藤は聖也と一緒に行って、ハンコ押してきてよ」

「ええー?俺も馨と行きたいなぁ…」

 馨は、加藤の台詞を聞かなかったことにして、追いついてきた板波たちにも同じ内容を告げた。板波たちは聖也にハイタッチをしてから、お互いにげんこつを付き合わせ、馨の提案を快諾した。ぶつぶつ言う加藤を連れて、聖也と馨たちの来た方向へと向かっていく。聖也もそれに続き、ちらっと振り返って、馨に笑いかける。馨はちょっと眉を上げて答えただけだった。

 そして、馨は綾子たちの待つ、待ち合わせ場所に向かって歩き始めた。

 


 

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