第7話

「馨、風邪引くわよ」

「うん、大丈夫」

 母にそう答えて、馨は濡れた髪のまま、タオルを肩に垂らして玄関に向かい、素足にサンダルを履いた。

「ちょっとプラプラしてくるね」

 廊下の向こうの、ダイニングにいる母親に向かって告げ、馨は玄関のドアを開けた。ふわっと夜気が顔に当たる。春の風が心地いい。

 外は、ぼんやりとしたおぼろ月に照らされ、薄明るかった。胸一杯に夜気を吸い込む。ほの暖かい風が馨の頬を撫でていく。濡れた髪を風にさらしながら、馨は家の周りを回って、裏庭へと歩いて行った。

 花々が植えられた小さな裏庭に出ると、暗がりからふわりと花の香りが立ち上り、馨の鼻孔をくすぐった。そこかしこから花木の香りが風に乗って運ばれてくる。遠くの空に木霊する、しゃんしゃんという蛙の声が耳に届いた。

 馨は目を瞑り、春の息吹を全身で感じた。

 音、香り、風、空気の質感。夜気の運ぶ匂いすら、春めいている。この空気を吸うと、馨はいつもワクワクした。それでいて、どこか人淋しい心地もする。

 その時、虚空で何かの気配を感じた。はっとなって目を開け、気配のした方へと目を向ける。ぼんやりと霞む春の夜空を、銀色の閃きと共に大きな体躯の生き物が横切っていく。

(聖也だ)

 その姿を目で追いながら、馨は思った。

 聖也。馨の小学校からの幼馴染。そして、人間ではない、馨の友達。彼が霞んだ月に照らされた仄明るい空を飛んでいく。その銀色のトカゲのような姿を見ても、不思議と以前のような重い気持ちにならないことに、その時馨は気が付いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る