第6話

 放課後の校庭。

 野球部とテニス部の、練習している掛け声が校庭に響いている。校庭のトラックでは、陸上部が個々の持ち場で練習をしていた。

 馨は、教室の窓からその練習風景をじっと見つめていた。トラックの真ん中で、数人の男子学生が棒高跳びの練習をしている。その中の、背の高い細身の男子が、飛んだ。その姿を目で追いながら、馨はさっきの聖也の台詞を思い出していた。

『人ならぬ魅力に見とれちゃった?』

 思い出すだけで、とくんと心臓が妙なリズムで鳴った。馨は目を閉じ、息を吐いて近くの椅子に座る。

 目を開けると、さっき飛んだ男子が、じっと教室の方を見ているのが分かった。教室と校庭を挟んだ木々の新緑の間を通り抜けて、その男の子の視線が馨のそれと絡み合う。―――聖也だった。思わず、馨は目を逸らす。

(あんなに遠いのに、よく気付くな。やっぱり、人とは違うのかな?)

 馨は、目を伏せたまま、椅子から立ち上がった。鞄を手に取り、教室の出口へと向かう。

 歩きながら、馨は考えていた。

 聖也と話さなくなった、もう一つの理由。

 それは、彼が人ではないことだった。そのことを知ったのは、馨が小学校の時だった。あれは、小三くらいの頃だ。放課後、忘れ物を取りに小学校に行った時のこと。

 誰もいない廊下。夕焼けに染まる空。オレンジ色の光が校舎の中を照らし出していた。窓から朱に染まる空が見え、廊下をその光が照らす。光に照らされていないところには、暗い影が広がっている。茜色の光と濃い影が落ちた廊下を、馨は一人歩いていた。ちょっと心細くて、知らず歩の進みが早くなる。やがて、その言いようのない恐怖に、自分でも気が付かないうちに走り始めていた。やっと校舎の出口に出ようとしたところで、馨は自分でも分からない、異様な気配にたじろいだ。

 足を止め、その気配に息を潜める。

 ズルリ。

 それは、下駄箱の暗がりから姿を現した。実体のない、黒い煙のような影。馨は後ずさりをして、それからはじかれたように元来た道を駆け出した。

 はあ、はあと息が切れるのも構わず走り続ける。それが追ってきていることを、馨は感じていた。校舎を抜け、校舎と校舎をつなぐ渡り廊下をガタガタと音を立てながら走り抜ける。廊下に敷かれた戸板の繋ぎ目に足が引っかかりバランスを崩したその時だった。さっと目の前を銀色の影が横切り、後方で声なき声が上がった。

 馨は振り返り、そのまま凍り付いた。

 銀色をした生き物が立っていた。トカゲのようなその生き物は長い尻尾を振りながら、黒い影を喰らっていた。煙のようなそれを、小さな前足で切り裂き、綿菓子を食べるかのように口に運んでいる。最後のそれを飲み下し、その生き物が馨を振り返った。

 馨は、既に逃げる気力を失っていた。恐怖に凍り付いて、もう体を動かせない。じっとその銀色の化け物を見つめながら、馨は恐ろしさに震えていた。

 は虫類を思わせるその生き物は、長い尾を振りながら馨にゆっくりと近付いた。それが一足ごとに人の形に変わっていく。

 あと一メートル、というところでそれは立ち止まった。そして、動けないでいる馨を見下ろす。それは、同級生の鏑木聖也だった。

「―――みんなにバラす?」

と挑戦的な目つきで訊いてくる。

「バラさない」

 とっさに馨は言った。

「きっと誰も信じないと思うから」

 恐怖で震える体を押さえるように立ち上がって、馨はじっと彼の目を見つめ返した。

 馨はその時の言葉通り、そのことを誰にも話してはいない。けれど、その秘密を聖也と共有するのも、気が重かった。どうやって彼を扱えばいいのか、正直分からない。そのせいで、中学生になり、クラスも変わって聖也と離れたことをきっかけに、何となく距離を置くようになった。

 それは向こうも同じように見えた。彼の秘密を知る馨は何となく彼にとっても疎ましい存在なのだと思った。

 けれど―――。

「馨」

 校舎を出たところで、馨は呼び止められた。振り向く前から、それが誰だか分かっていた。

「何?」

 ランニング姿の聖也がやってきて、彼女の脇に立つ。

「…さっき、見てたろ。何か、用?」

 馨は何も言わず、彼女を見下ろしている聖也を見上げた。

 彼の頭上で、明るんだ萌葱色の葉が風に揺れている。その緑の美しさに目を細めながら、馨は呟くように言った。

「…どういうスタンスを望んでいるの?」

「?」

 意味を掴みかねたように、聖也が馨を見つめ返す。

「なんで、ああいうこと、言うの?」

 ちょっと責めるような口調になって、馨は気まずそうに下を向く。

「…気にし過ぎ」

 馨の頭のすぐ近くで、聖也の声が答えた。彼を見ることなく、その声だけを聞く。

「馨以外の連中は、あんな風に言ったからって、気にしないよ。馨もいちいち反応しなくていいから」

 それは無理だ、と馨は思った。他の人は彼の正体を知らない。正体を知る馨と比べることはできない。

「馨?」

 うん、と彼の方を向く。聖也が言った。

「こんな風に、俺と話すのはいや?…俺が、怖い?」

 ほんの少しだけ、その顔を見つめてから、馨は首を振った。

「じゃあ、昔馴染みのよしみで、共犯者でいてよ」

 馨を見つめる聖也の目が穏やかな笑みを含んでいる。馨は肯き、その目を見つめ返した。

「分かった。共犯者、ね」

 夕焼けに染まり始めた校舎の影で、明るいオレンジ色の光が二人の顔を照らし出している。しばらく見つめ合った後で、部活に戻る、と聖也が言った。

 馨は彼に別れを告げ、校舎を後にして家路に向かって歩き始めた。

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