第4話

 馨は家に帰ると、母親に頼んで借りたジャージをすぐに洗ってもらった。ジャージは化繊で翌日にはすぐ乾いたが、馨は聖也に返すタイミングを図りかねていた。騒ぎのほとぼりが過ぎてから、こっそり彼に渡して、お礼を言いたいと思っていた。けれど、思いの外、そのチャンスは巡ってこなかった。いつも、聖也は誰かに囲まれていて、一人きりということがない。

 数日が過ぎると、なんとなく渡しそびれて渡しづらくなってきた。鞄の中のジャージが気になり、気が重い。そのまま、一週間が過ぎた。

 けれど、チャンスは思わぬ時にやってきた。

 春の球技大会の日。出番が終わり、タオルを取りに教室へ戻った時、ふと覗いた隣の教室に聖也が一人でいたのだ。馨はすぐに、教室へ行って彼に借りたジャージを入れた袋を鞄から取り出し、隣の教室へと向かった。

 入り口から中を覗くと、聖也が教室の真ん中で一人椅子に座っていた。

「聖也」

 馨の呼びかけに反応して、聖也がこちらに顔を向ける。その表情(かお)がちょっと虚ろな気がして、馨は彼に尋ねた。

「…具合、悪いの?」

 聖也が笑みを見せる。彼は頬を上げて微笑み、首を振った。

 馨はちょっと遠慮がちに教室に入り、聖也のそばまで行った。そして、その表情を窺った。

「どうしたの、一人で?」

「うん、ちょっと。気分が落ち着かなくて…。馨は?」

 聖也は彼女の持っている包みを見ながら言った。馨は包みを持ち上げ、

「うん、これを返そうと思って」

と彼に手渡すように差し出した。聖也が不思議そうに包みを見下ろす。

「この前借りたジャージ。返すの、遅くなったけど」

 ああ、と合点がいったように聖也は肯き、馨から包みを受け取った。袋を開けて、中身を確かめ、

「洗ったの?」

と訊く。馨が肯くと、

「わざわざ洗わなくてもよかったのに」

と首を傾げ、彼女の顔を見上げた。

「うん、でも、借りた方の礼儀だし…」

 ごにょごにょと口ごもるように馨が言うと、聖也はおかしそうに笑い出す。そして、袋からジャージを取り出すと、ジャージを顔に当てた。

「…馨の匂いがする…」

 その言い方に、馨は赤面してしまう。ぱっと、馨の頬が明るんだのが、聖也には面白かったらしい。また、クスクスと笑いながら、馨を上目遣いに見上げた。

「石けんの匂いでしょ。変な言い方しないでよ」

 馨が怒って横を向くと、聖也は覗き込むようにして彼女にささやいた。

「ごめん。でも、やっぱり、馨の匂いがするよ」

 馨は横目で聖也を見やり、きっぱりとした口調で彼を遮った。

「とにかく!ありがとう。助かった。言いたいのはそれだけっ」

 そのまま、聖也を残して、つかつかと教室を出て行こうとする。けれど、入り口を出ようとして、思いとどまった。聖也を振り返って、

「あのさ、女子に誤解されたくなかっただけだから。女たらしの巻き添え食いたくなかったって言うか」

それだけ言うと、また足早に教室を後にした。

(別に、聖也から服借りたくない訳じゃないって、ちゃんと伝わったかな)

 自分の教室に戻った馨は、タオルを鞄から取り出しながら、思った。

(それにしても、何なの、あいつ。何か、女の扱いうまいって言うか。あんなんじゃなかったのに)

と、独りごちる。ほてった頬を冷ますようにタオルで抑えながら、馨は聖也の教室の前を通らないように、来た時とは反対の方から、球技会場へと戻っていった。

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