第2話
三階建ての校舎の表廊下に、濃紺のジャージを着た学生たちが溢れていた。屋根のない、コンクリートを打っただけの廊下は水飲み場にそのまま通じている。休み時間なのか、水飲み場にも、表廊下にも学生たちの姿がある。そのざわめきに、校舎全体が活気に満ちていた。
ここは、とある市立の中学校。校舎の三階から一年、二年、三年と下がってきて、階下の廊下に溢れているのは、三年生のようだ。それぞれが思い思いのことをして、笑ったり、話し込んだりしている。
その中を、立花(たちばな)馨は職員室に向かって歩いていた。クラス委員の仕事で、担任に呼ばれたのだ。
馨が急ぎ足で、水飲み場でたむろしている数人の学生たちの目の前を通り過ぎようとした時、ビシャーッと勢いよく、水道の水が彼女めがけて飛んできた。
「あー、わりぃ!」
声と同時に、水道の蛇口を抑える男子の姿が馨の目に入る。馨は、濡れた髪の水滴を飛ばしながら、その男子に応えるように手を振った。
「いいけどさ、悪ふざけもいい加減にしなよね」
そう言って、立ち去ろうとする。男子たちは揃って謝りながら、お互いにつつき合った。その無邪気さに、ため息をついて、馨はまた歩き出す。
「馨」
ふいに呼ばれて振り返ると、そこに背の高い細身の体格の少年が立って、馨を見下ろしていた。隣のクラスの鏑木聖也(かぶらきせいや)だ。
「なあに?」
ちょっと素っ気なく言って、自分を呼び止めた少年を見上げる。少年は少し肩をすくめて見せた。
「いや。春だからって、濡れたままはどうかな、と思って」
「…後で、制服に着替えるよ。用事はそれだけ?」
「馨が嫌じゃなかったら、俺のジャージ、貸そうか?」
ジャージ、と言われて、馨は顔をしかめた。
「いや、ならいいけど…」
それを見て、聖也の言い方が、引き下がるような遠慮がちな言い方に変わる。そのもの言いに、馨はすぐに首を振った。
「違う。鏑木って、名前が入ってるジャージを着るのは抵抗あるってだけ。それに、聖也はどうするのよ?」
聖也は安堵したように笑って、背負っていたナップサックから黄色と白のラインの入った紺色のジャージを取り出した。
「これなら、名前入りじゃないよ」
それは、彼が所属する陸上部のジャージだった。それを素直に受け取って、馨は礼を言う。そのまま、濡れた自分のジャージを脱いで、彼が渡してくれたジャージに手を通した。
「洗って返すね」
馨がそう言うと、聖也は笑って首を振った。
「洗わなくていいよ。どうせ、汚すんだし」
もう一度聖也にお礼を言って、歩き出す。
(そう言えば、話すの、久しぶりかも)
歩きながら、馨は思った。聖也とは、小学校からの幼なじみで、小さい頃はわりとよく遊んでいた。家も近くて、お互いの家の中間にある小さな公園で、よく集まっては遊んでいた仲間の一人だった。けれど、中学校に上がって、クラスも違い、何となく疎遠になっていた。
その一つの理由は、聖也が小学校の頃とは違って、モテ始めたことだ。そして、もう一つは、誰にも言えない二人の秘密のせいだった。
「失礼します」
馨は考えを中断し、職員室に続くドアをノックして、開けた。それに応えるように、一人の教師が振り返る。
「おお、立花。すまんな。こっちに来てくれ」
馨は言われるままに職員室を横切って、担任のそばに立った。
「あれ?お前、陸上部に入ったのか?」
下らないことを訊くな、と思いながら、馨はことの経緯を簡単に説明した。担任の山本は、納得したように肯きながら、彼女を呼び出した用事を言いつけ、自分はたばこを吸いに、外に出て行った。
馨は山本に頼まれた、進路調査用紙の束を手に自分の教室へと歩き出す。
つん、と夜気のような匂いが鼻孔をついた。くん、と匂いの元を辿ると、それは聖也に借りたジャージからだった。
(夜の匂いがする…、)
と大きめのジャージの裾に指で触れてみる。
(名前付きでなくて良かった)
馨が聖也のジャージを借りたと他の生徒に知れたら、何を言われるか分からない。特に、女子に知られるのは、馨の望むところではなかった。そのことを、聖也は分かってくれただろうか、とちょっと気になる。こちらの反応を見るようにジャージを貸してくれた聖也の態度を思い、馨は少しだけ気が咎めた。
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