見えないはかりごとと不安

「ローザベル。ちょっとこっちへ来なさい」


 背後から聞こえた酷く冷たいラフカ夫人の声を聞き、一瞬怯えたように小さく震えた彼女にレイは驚きを隠せなかった。

 そのまま一礼して離れようとする彼女の手を、レイは気がついたら咄嗟に掴んで引き止めていた。

「えっと、ねえローザベル。見事な水の精霊魔法でしたね。もう少しお話をさせていただいてもよろしいですか」

 自分の背後から近寄って来ていたラフカ夫人には気付かない振りをして、レイはそう言って強引に彼女の腕を引いて近くのお菓子が並んだ机に向かう。

「お菓子は食べても大丈夫?」

 ごく小さな声でそう尋ねると、彼女は息を飲んだ後に小さく頷いた。

「机に並んでいるものは大丈夫かと。執事から直接は受け取らないでください」

 これもごく小さな声でそう言われてレイは内心で安堵しつつ、いくつか綺麗に並んでいるうちの一番手前ではなく列の途中のプディングのお皿を二つ取って、一つを彼女に渡した。

「はいどうぞ。僕、これが好きなんだ」

「あ、ありがとうございます」

 受け取って小さな声で返事をした彼女は、素直に食べ始める。

 周りから無言の注目を集めている事にレイは気付いていたが、気付かない振りをして笑顔で彼女と一緒にプディングを頬張っていた。

 そのまま次々にお菓子を勧めては一緒に食べていたが、二人の周囲から人が少し離れてしまった為にお菓子の机の周りだけがぽっかりと空間が空いたようになってしまった。



「ねえ、この後僕は竪琴の演奏があって席を外さなきゃならないんだけど、大丈夫?」

 ビスケットを食べながら魔法談義に花を咲かせていたが、そろそろ頼まれた演奏の時間になるのに気付いてレイは困ったように彼女に小さな声で尋ねた。

「ご心配をおかけして申し訳ございません。大丈夫ですので、どうぞ行ってください」

 これも小さな声でそう言われて、しかしレイは、はいそうですかとこの場を離れるのを躊躇した。

 先ほど、ニコスのシルフ達はこう言ったのだ。今は彼女から離れないで、と。

 しかも、さっきから必死で呼びかけているのだが、ニコスのシルフ達も、ブルーのシルフも全く返事をくれない。

 どうしたら良いのか分からず戸惑っていると、また誰かが近寄ってくる気配を感じた。

 平然と次のお菓子を手に取りながら、なんとか振り返らずに相手を確認する方法を頭の中で必死になって探し、レイはケーキのトレーに置かれていたピカピカに磨かれたケーキサーバを持って、その鏡のような面で背後を移して確認した。

「ミレー夫人!」

 見覚えのある、ここにいる人達の中では信頼出来る人物が見えて、レイは笑顔で振り返った。

「まあまあ、驚きました事。レイルズ様は背中にも目がおありですの?」

 いきなり振り返ると同時に名前を呼ばれて、ミレー夫人が驚いたように目を見開きつつ近寄ってくる。

「さっきからいくつもお菓子を召し上がっていらっしゃるから、からかおうと思ってこっそり近寄りましたのに」

 苦笑いしながらそう言われて、焦ったレイは誤魔化すように夫人の頭上を見た。

「えっと、シルフ達が教えてくれました」

 隣にいたローザベルは、無言で空になったお菓子のお皿を握りしめている。

 ミレー夫人に彼女を預けるにはどうしたら良いか必死になって考えていると、にっこり笑ったミレー夫人はローザベルを見て、レイの耳元でごく小さな声でこう言ったのだ。



「ここは私にお任せを。彼女は私が責任を持ってお預かりしますわ」



 レイだけでなく、ローザベルまでが驚いてミレー夫人を見つめる。

「おしゃべり好きで有名な私ですが、言いふらして良い事といけない事くらいは弁えております。どうぞここはお任せを」

 真顔のミレー夫人にそう言われて、レイは戸惑いつつローザベルを振り返った。

 小さく頷く彼女を見て、不安に思いつつもレイはミレー夫人に彼女を預けた。少なくともラフカ夫人よりはミレー夫人の方が信頼出来るだろう。

 まるでそれを見計らっていたかのように、一人の執事が近寄ってきてレイにそっと耳打ちした。

「レイルズ様、そろそろお時間でございますので、演奏のご準備をお願い致します」

「はい。今行きます」

「よろしければ、こちらのワインをどうぞ」

 差し出されたワインは、グラスに入った赤のワインで、間違いなくレイの好きな貴腐ワインだ。

「ああ、お菓子を沢山頂いちゃったので、ちょっとお腹が一杯なのでワインは結構です。えっと、そこの空のグラスを一つお借りしますね」

 ワゴンに綺麗に並べられた未使用のグラスを、レイはそう言って自分で一つ手に取った。

「えっと、ウィンディーネ。良き水をお願い」

 レイが目の前でそう言うなり、グラスの真ん中辺りまであっという間に水が湧き出すのを執事は目を見開いて見つめていた。

「ふう、美味しかった。ありがとう、これは片付けておいてください」

 水を飲み干したレイは、執事に空になったグラスを渡すと、自分を見つめているミレー夫人とローザベルに笑顔で一礼してから舞台袖にある衝立の向こうへ向かった。

 こういったそれほど広くは無い会場の場合は、出演者はそのまま舞台袖で待つ事になっているのだ。

 置かれていた竪琴を取り出して、念の為もう一台の竪琴も取り出しておく。

 舞台では、やや年配の女性達による歌が披露されていたのだが、低音部分の音程にやや難がありあまり上手とは言えない。しかし最後のコーラスだけは見事で、密かに苦笑いしつつもレイは笑顔で拍手を送った。



 その右肩には、いつの間にかニコスのシルフ達とブルーのシルフが戻っていて、レイと一緒になって揃ってこれ以上ない笑顔で手を叩いていたのだった。

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