恐怖心

「大丈夫か? ほら起きろって」

 駆け寄ったルークに手を引かれて起き上がり、レイはまたハン先生の診察を受けた。

 三度目はさらに本格的になり、左手に初めて盾を持って右手にもう少し長い槍を持って行われた。

 この場合、左手で手綱を持ちつつ盾もしっかり構えなければならない為、難易度は更に上がる。

 これも一度目はロベリオに擦りもせずに弾き飛ばされ、二度目も同じ。三度目の挑戦で、辛うじてレイの突き出した槍がロベリオの盾に当たったのだ。しかし直後に落とされたところでハン先生から、今日はここまでとの指示が入った。

「ええ、まだ大丈夫なのに」

 拗ねて口を尖らせるレイの額を、ハン先生が苦笑いして叩く。

「言っておきますが、身体は思っている以上に衝撃を受けています。今でももう、明日は恐らくベッドから起き上がれないくらいですからね。花祭りの期間中、ずっと寝込んでも良いと仰るのならもう止めませんが?」

 驚きに目を瞬くレイを見て、ハン先生はもう一度大きく頷いた。

 その後ろではハン先生だけで無く、ロベリオとユージン、ルークにまでもが、同じ様に頷いている。もうやめておけと真顔で言われてしまい、大人しく頷いてその日のレイの訓練は終了になった。

 ただその後、一度だけだがルークとユージンの二人が、実戦さながらのラプトルの本気の全力疾走からの打ち合いを実践して見せてくれたのだ。

 結果は相討ちで二人揃って落ちてしまったが、ルークの方が早く起き上がったので、その場はルークの勝ちで終わった。

 生まれて初めて間近で見た本気のぶつかり合いに、レイは言葉も無く驚きと恐怖に固まって見ていたのだった。




「いやあ、久し振りの実戦方式は怖いな」

 苦笑いするルークに、ユージンも頷いている。

 実は彼らは、ノーム達に落ちた際にしっかり受け止めて貰える様に頼んでいる。まだ見習いのレイと違い、彼らは訓練でそう簡単に怪我をする訳にはいかないからだ。

「まあ、突っ立ってるだけの目標を突くのと違って、交差する際の勢いや衝撃も分かっただろう? 今度、ヴィゴに相手してもらえ、あれは本気で怖い。俺でも逃げたくなったからな」

 苦笑いするルークに、レイは驚いて顔を上げた。

「だって、あの図体で来られてみろ。はっきり言って岩の塊が突撃してくるみたいなもんだぞ。ぶち当たった時の衝撃たるやもう……」

 顔をしかめて肩を竦める彼を見て、レイは振り返ってロベリオとユージンを見た。

「ねえ、ロベリオとユージンは? ヴィゴと槍の突撃で手合わせした事ある?」

 すると、二人もルークと同じ様に顔をしかめて空を振り仰いだ。

「はっきり言って、恐怖しか無かった。手合わせする前から、負けるって分かるって、もう完全にやる気全部持っていかれたよ。本当に」

「確かにあれは怖い。全く勝てる気がしなかったものね」

 揃ってうんうんと頷き合っている三人を見て、本気で怖くなったレイだった。




 更衣室で、また第二部隊の兵士達に手伝ってもらって鎧を全て脱ぎ、更衣室に設けられた簡易の水場で、とにかく全身びっしょりだった汗を流した。

 それからいつもの竜騎士見習いの制服に着替えて、本部へ戻った。

 何故か、ハン先生も一緒に休憩室へ来てくれる。

「少し休んでろよ」

 ルークにそう言われて、まずラスティが入れてくれたお茶を飲もうとした時、本気で慌てた。



 腕に全く力が入らない。



 カップを持ち上げた瞬間、止める間も無く取り落としてしまい、せっかく入れてくれたお茶は、一口も飲まないうちに全部テーブルクロスに吸い込まれてしまった。

「ご、ごめんなさ……あ、違う。申し訳ありません!」

 慌てて言い直して叫んだ瞬間、ルーク達が吹き出し、ラスティが駆け寄って来て手早く片付けてくれた。

「ハン先生、お願いします」

 苦笑いしたルークが、レイの背中を叩いて立ち上がらせてソファーへ連れて行く。

「えっと……」

 有無を言わさず剣帯を外され、上着も脱がされてしまった。

 そして気がついた。自分の指先が震えている事に。

「大丈夫ですよ。突撃訓練を初めて対人でやった方は、ほぼ全員がこうなります。少しお休みになれば落ち着きますから心配はいりませんよ」

 慰める様に言われて、眉を寄せる。

「それって、どういう意味ですか?」

「貴方が思っている以上に、貴方の身体は今日の訓練に恐怖を持った、と言うところですかね」

 目を見開くレイに、ハン先生は大きく頷きレイの小さく震える手を取った。

「これは本能、つまり生まれつき持っているものです。恐怖心とも言いますね」

「僕、怖く無かったよ!」

 慌ててそう言い返すレイだったが、ロベリオ達が笑って背中や腕を叩いたり撫でたりしてくれた。

「これは、生き物としての本能の部分だから、感情とは別だよ」

 意味が分からなくて首を傾げる。

『つまり、生きている人間である其方は、初めて人を相手に本気で打ち合った。その際に、自分が思っている以上の自覚の無い恐怖心を抱いた。と言う事だよ』

 目の前にブルーのシルフが現れてレイにも解る言葉で教えてくれた。

「……怖く無かったよ。僕……」

 口を尖らせるレイを見て、ルークが大きなため息を吐いてすぐ隣の席に座る。

「あのなレイルズ。大事な事を教えてやるよ。しっかり聞け」

 真顔でそう言われて、レイは慌てて居住まいを正した。



「良いか、恐怖心を抱く事は恥なんかじゃ無い」



 まさに、そう思っていたレイは、驚きに目を瞬いた。ロベリオとユージンを見ると、彼らも真剣な顔で頷いてくれた。

「あれだけの速さで、ましてや訓練用とは言え、一歩間違ったら死んでもおかしく無い様な武器を持って、人に向かってその武器を繰り出し、また同時に自分にそれと同じ武器を向けられた。しかも、まともに食らってラプトルから何度も落ちている。これで、恐怖心を感じない方が問題だよ」

「恐怖心を感じない方が、良いに決まってるでしょう?」

 以前、国境の砦で垣間見た彼らには、恐怖心なんて欠片も見えなかったのに。

「まさか。もし、恐怖心を本当に感じない様な奴がいれば、それは人じゃ無いよ」

「人は、恐怖心を感じるからこそ、勇敢になれるんだ。解るか?」

 ルークに続いて、ロベリオにまで真剣な顔でそう言われてレイは戸惑う様にブルーのシルフを見た。

『それはそうであろう。恐怖心があるからこそ用心もすれば注意もする。それだけでは無い。もしも本当にそんな奴がいれば、戦場ではあっという間に死ぬだろうな。しかも盛大に周りを巻き添えにして。迷惑この上ない』

 頷いて言うその言葉を聞き、レイは考える。

「そっか、怖いって思う事も必要って事だね」

「そうだよ。もちろん、負けちゃ駄目だ。その恐怖を克服するにはどうすれば良いと思う? 今回なら、突撃に対する恐怖心だね」

 ユージンが背中を撫でながらそう言ってくれたので、また考えてみる。

「ええと……あ、慣れるって事?」

「レイルズ君、正解」

 ロベリオがわざとらしくそう言って笑う。

「って事で、明日はヴィゴが来てくれるだろうから、頑張って対戦してくれたまえ。今日なんか、お遊び程度にしか思えないくらいの最大級の恐怖心を知る事になるからね」

 にんまりと笑ったルークの言葉に、レイは悲鳴を上げて逃げようとしたが、足も震えていて立てずに、椅子から転がり落ちたところをブルーのシルフに助けられたのだった。



「そんなの絶対無理です! 僕、森のお家に泣いて帰ります!」

 久し振りのレイのお約束の叫びに、休憩室は大爆笑になったのだった。

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