伯爵邸にて

「えっと、どうしたのルーク?」

 静かになった大地の竜をもう一度撫でてから振り返ったレイは、全員が無言で自分を見つめているのに気付き驚いたように首を傾げてルークを覗き込んだ。

「お前は全く……」

 大きなため息を吐いたルークはそう呟き、いきなりレイの首を腕で捕まえて確保した。

「全く! 本当に、お前といると退屈しないよ」

 そう言いながら、笑ってレイの赤毛をくしゃくしゃにかき回す。

 悲鳴を上げて笑いながら逃げようとするレイを、三人の娘達がまるで珍獣でも見るかのような驚きの目でいつまでも見つめていたのだった。



「と、とにかく中へどうぞ」

 一番最初に我に返ったのは伯爵だった。

 傍に立つ執事に小声でルークとレイは自分が案内するので、とにかく奥方と娘達を先に屋敷に戻らせるように指示をする。

「じゃあ、ブルーは今夜はここで過ごすの?」

 薄暗くなってきた空を見上げて、レイはブルーを見上げた。

「ここの池の水は屋敷の裏にある小さな泉と繋がっており、その泉はかなり深い地下の水脈と繋がっております。この辺りは豊かな水脈があるおかげで、これだけの大規模な農地を開拓することが出来ました。裏庭にある泉は、この屋敷を建てる際に湧き出したものだと聞いております。水が必要ならばここの水を飲みください」

 伯爵の説明に池を覗き込んだんブルーは、満足気に大きく頷いた。

「ふむ、確かにこの小ささの池にしてはかなりの良き水だな。だが、少しこの辺りの地下の水脈が乱れて淀んでおるな。後で整えておいてやろう」

 驚きに目を見張る伯爵に、ブルーは目を細めた。

「これは我の仕事のうちだ。気にするな」

 そう言ってレイの背中に鼻先を擦り付けるようにして大きく喉を鳴らした。

「では、もう中に入ると良い。我はオパールと共に今夜はここで過ごさせてもらおう」

「分かった、じゃあまた明日ね」

 鼻先にキスを贈り、庭に丸くなるブルーを見て、レイは笑顔で振り返った。

「それでは伯爵、一晩よろしくお願いします」

「は、はい、では中へどうぞ」

 慌てたようにそう言う伯爵に一礼して、ルークも自分の竜に挨拶をしてキスを贈ってから、レイと一緒に屋敷に入って行った。




 一旦それぞれの部屋に通されて、荷物を置いて別の部屋に案内される。

 そこで、奥方や娘さん達と一緒に豪華な夕食を頂いた。

 全体に、やや塩味が濃い味付けだったが、どれも美味しかった。

「ご馳走様でした。どれも美味しかったです」

 食後は、また別の広い応接室に通されて、レイにはカナエ草のお茶が、ルークには伯爵が用意したお酒が用意された。

 奥方と三人の娘さん達はルークの周りに集まり、和やかに話し始める。

 そうなると、何となくレイの隣に伯爵が座る事になる。

 カナエ草のお茶の入ったカップを置いて、レイは伯爵を振り返った。

「えっと、質問なんですが、竜達は庭にいますけれど竜射線の影響は大丈夫ですか? 皆様もカナエ草のお薬やお茶を飲んでいるんですか?」

 不意に心配になって尋ねると、グラスを置いた伯爵が笑って頷いた。

「お越しになる前日から、私を含めた屋敷の者だけでなく、念の為、畑で働いている農夫達にも全員にカナエ草の薬を飲ませております。竜騎士様がお越しになる際には、いつも飲んでいますから皆慣れたものでございます。数日程度なら薬を飲むだけでも充分に予防の効果がありますから、お茶は飲ませておりませんね」

「そうなんですね。それなら良かったです」

 安心して、お茶に添えられていたお菓子を口にする。

「初めて食べました。甘いですね」

 コロンと丸いそれは、口に入れると不思議な事にあっという間に溶けて無くなってしまった。

「それは、特別な砂糖から作ったお菓子で、我らは型抜き、或いは干菓子と呼んでいますね」

「型抜き? これは型抜きしてあるんですか?」

「はい、この辺りで採れるサトウキビという植物の絞り汁から作った砂糖で作られたお菓子ですね。木製の様々な型があり、それに押し込んで形を作るのです。他にも様々な形がございますよ。お口にあったのなら良かったです」

 執事が差し出してくれたお皿には、様々な花や植物の形に作られた綺麗なお菓子が並んでいた。

「へえ、面白いですね。木型が有れば、どんな形でも作れますね」

「竜もございますよ」

 丸くなって寝ている竜と、翼を広げた竜の二種類がレイのお皿に置かれた。

「可愛い。でも食べます」

 丸くなっている竜を、嬉しそうに口に入れるレイを見て、伯爵も笑顔になる。



 先程、当たり前のように大地の竜と話をしている彼を見た時、伯爵は何とも言えない恐怖心にも似た感情を抱いていた。

 やはり、古竜の主となる人物は、普通とは違う、と。

 しかし、干菓子を口にして無邪気に喜ぶ姿を見ていると、全く普通の若者に見える。

 あまりの印象の違いに戸惑っていると、レイは残りのお茶を飲んでから伯爵を振り返った。

「あの、もう一つお聞きしてもよろしいですか?」

「ええ、もちろんです。何かございましたか?」

 飲んでいたグラスを置いた伯爵にそう言われて、レイは目を輝かせた。

「ここへ来る途中に畑の上を飛んで来たんですけれど、麦がとても大きく育っていました。まだ雪解けしてからそれ程経っていないと思うのに、いつの間にあんなに大きく育ったんですか? もしかしてここの麦は成長が早いんですか?」

 目を瞬いた伯爵は、満面の笑みになった。

「そうか。市井のご出身だと聞いておりましたが、もしや麦を育てた事がお有りですか?」

 レイも笑顔で大きく頷いた。

「もちろんです、麦だけじゃなくて色んな野菜や穀物を作りました。僕の住んでいたところでは、春に麦の種を撒いて、秋に収穫していました。ここでは違うんですか?」

 少し考えた伯爵は、グラスのお酒を一口だけ飲んでからレイに向き直った。

「詮索するつもりはありませんが、レイルズ様の住んでおられた場所は、もしやかなり北の寒い地方なのではありませんか?」

「えっと……」

 調べればわかる事だが、蒼の森の名前は具体的にレイの口からは言わないように教えられている。

「ああ、申し訳ございません。無理に答えずとも結構です」

 どう答えようかと戸惑っているレイを見て慌てたように首を振った伯爵は、苦笑いして麦畑のある方角の窓を振り返った。

「ご質問の麦ですが、あれは秋に種を撒き、ある程度育ったところで冬越しさせるのです。そうすれば、春になると一気に育ってくれますのでこの時期でもあれ程に大きく育つのです」

「凍ってしまわないんですか?」

 驚くレイに、伯爵は笑顔で頷いた。

「北の土地とは違い、この辺りは真冬でも霜が下りる程度で、雪が積もる事は稀ですからね。麦は枯れる事なく冬を越してくれますよ。北ロディナの辺りでは、冬の畑は雪に埋れてしまいますが、同じく秋撒きの麦は、雪の下で冬を越すのですよ」

 初めて聞く農法に、レイは身を乗り出す。

「ええ、雪の下で麦が枯れないんですか?」

「もちろん、倒れて葉が枯れる事もありますが、苗自体は完全に死ぬ訳ではありません。雪解け直後のまだ畑が濡れてぐちゃぐちゃな時期から一気に生育を始めてくれますので、とてもありがたいんですよ。他の世話で忙しい春の時期を避けて秋に種を撒けるのは、かかる世話を考えると大きいですよね」

「へえ、そんな事が出来るんですね。あれ、じゃあどうして家ではやらなかったんだろう?」

 首を傾げるレイに、伯爵は小さく吹き出した。

「お住まいのあった場所は、おそらく冬のかなり厳しい土地だったのではありませんか? 早くに雪が降り始めたら、大地は凍てつき春の雪解けも遅い?」

 頷くレイに、伯爵は苦笑いして首を振った。

「ならば恐らくですが、ご家族は秋撒きと春撒きの両方をなさって、春の方が良いと判断なさったのでしょう。麦の種類にもよりますが、春に撒いた麦の方が、個人的には美味しいパンになると思いますね」

「ニコスが作ってくれる黒パンは、本当に美味しいんだよ」

 その言葉に、伯爵は驚いたように目を見開いた。

「黒パンが美味しいとは、初めて聞きましたね」

「僕も、そう思ってたけど、ニコスが作ってくれる黒パンは、本当に美味しいんです」

 胸を張るレイに、伯爵はまた小さく吹き出した。

「ほう、それは是非一度食べてみたいものですね」

 本気にしていない伯爵に、レイはどうやったら伯爵にニコスの黒パンを食べてもらえるか、真剣に悩んでいたのだった。


『これは社交辞令だよ』

『別に本気で食べたがってる訳じゃないからね』


 ニコスのシルフ達に耳元で言われてレイはようやく理解した。

 これも、レイの苦手な例え話だったみたいだ。

「えっと、いつか食べてもらえたら、その時にはきっと納得してもらえると思います」

 自慢気な言葉に、伯爵も笑顔で頷いたのだった。


 カップの縁に座ったニコスのシルフ達とブルーのシルフは、それから他にレイの家でどんな作物を作っていたか、といった事を嬉々として話す二人を呆れたように笑いながら見つめていたのだった。

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