あの時の感情と恋愛小説

 本部に戻ったがまだ誰も戻って来ていなくて、レイとカウリは、もうその日は疲れていた事もあって解散してそれぞれの部屋に戻った。



 竜騎士見習いの服を脱ぎ、もう今日は何処にも出掛けないのでニコスが作ってくれた楽な部屋着に袖を通した。

「お疲れ様でした。お腹は空いていませんか?」

 夕食が早かったので、食べ盛りのレイは、実は少々お腹が減っている。

「えっと、実はちょっと腹ペコです。でも、今から食堂へ行く程じゃないよ」

 ビスケットでも食べておくつもりだったのだが、笑顔のラスティが運んできてくれたワゴンには、肉団子とビーフシチューみたいな色のソースがかかった、扇状に広げられた大きな三枚のパンケーキが並んでいた。その隣のお皿には、綺麗に皮を剥いた果物が盛り付けられている。

「もう遅いですからね。これで我慢してください」

「充分です。ありがとうラスティ」

 目を輝かせるレイに、ラスティも笑顔になる。

 手早く入れてくれたカナエ草のお茶に、いつもの蜂蜜をたっぷりと注いでから、きちんと精霊王にお祈りをしてから頂いた。



 ふわふわのパンケーキも、濃厚なお肉のソースも、柔らかな肉団子もどれも蕩けるみたいに美味しかった。



 残さず綺麗に平らげたレイは、大満足で顔を上げた。

「ご馳走様でした。すっごく美味しかったです」

「足りましたか? 足りなければもう少しお出ししますよ」

 笑顔でそう言われて、レイは首を振った。

「大丈夫です。足りなければビスケットを頂きます」

 笑顔で食器を下げてくれたラスティにもう一度お礼を言ってから、レイはソファーに座って休憩した。




 する事が無くなると、どうしても今日の出来事を思い出してしまう。

 心配そうに座って自分を見ているブルーのシルフに気付き、レイは笑顔で手を振った。

「大丈夫だよ。でも、ちょっと考えていたの」

 クッションを抱えてソファーに転がるレイの胸元に、ブルーのシルフが飛んで来て座る。

「何を思ったのだ? 其方が考えている事を聞かせておくれ」

 穏やかなブルーの声に、レイはクッションを抱えなおして天井を見上げた。

「えっとね、この前読んだ本に書かれていた主人公なら、今夜の出来事みたいな事があれば喜んだのかな、って思ったんだ」

 その言葉に、隣に現れたニコスのシルフ達は笑って頷いている。

 それを見たレイは小さなため息を吐いて、また天井を見上げた。

「やっぱりそうなんだ、でも……」




 女性の扱いは、彼女達の僅かな反応を読んで先んじて行動しなければならない場合が多い。しかし、そもそも他人の感情の機微に疎いレイルズには、それはかなりの無理がある高等技術だろう。それを心配した周りの提案もあり、今主に読んでいるのは、難しい本では無く若者向けの様々な恋愛小説だ。

 とにかく、こう言った場面では、人はこんな風に考えるのだ、という事例を、まずは具体的に彼に理解させる必要があると考えたルークの発案だ。



 レイが言っている物語の主人公の若者は、レイよりも少し年は上だ。

 貧しい農村で暮らしていたが、幼い時に両親を流行病で失い、遠い親戚の厳しい養い親に引き取られる。しかし、 彼が貴族の父を持つ庶子だった事が判明して、十三歳の時に、その養父の家から今度は貴族の邸に引き取られるのだ。

 最初の養父はとても厳しい人達だったため、その反動からか、甘やかすだけの貴族の両親に守られて彼はどんどん自由奔放な性格になっていく。



 特に恋愛関係において。



 母親譲りの優しげな顔立ちと、無邪気とも取れる言動。

 面白がってそれらに夢中になる年上の女性達から可愛がられて、彼はますます増長し、十六歳の成人を迎える頃には、既にベッドでお相手をした女性の数は両手では数え切れない程になっていた。

 あまりあからさまな表現ではないが、そう言った夜の行為の場面もかなり出て来る。

 レイは初めて出てきたその場面を読んだ時、最初は意味が分からずただ不思議だったのだ。どうして突然クリームや果物、パイやお菓子がベッドで出てくるのか。

 物語の半ばを過ぎた辺りで、かなり露骨な表現が出て来る、その場面で、ようやくそれが何を言っているのかに思い至った瞬間、今までの比喩の表現だったそれらの意味も理解して、彼は耳まで真っ赤になってしまい、ニコスのシルフ達に笑われてしまったのだ。



 その後、物語の中の彼のあまりの行状に怒った、ある女性の父親を口論からカッとなってその彼を置いてあった大きな花瓶にぶつけて殺してしまう。

 怖くなった彼は、あの父親はいきなり目の前で転んで自分から花瓶に頭をぶつけたのだと嘘をついた。そのまま世間を欺き続けた彼は、最後の場面で幽霊となって庭に現れたその父親によって、冥界の底へと連れ去られてしまうのだ。

 そこで彼は、生きながらにして永遠に火に焼かれ続けるという責め苦を受ける事になる。


 因果応報という言葉と、遊びは程々に、という戒めの意味が込められた物語なのだが、全編にわたって繰り広げられる数々の女性達との恋のやり取りと露骨な夜の行為の描写、それらが多い為にある意味、若者向けの恋愛の指南書的な扱いを受けてもいる。



 一通り読み終わったレイだったが、やっぱり分からない事が多過ぎて納得出来ずにいる。どうにも消化不良のままだ。それで今度、これについてもルークに詳しく教えてもらう事になっているのだ。

 なので、どうしても実際の場面で物語の彼と自分を重ねてしまう。



 そして冷静になって考えてみる。あの時、あの女性に抱きつかれて自分は嬉しかっただろうか?

 物語の彼ならば、あのまま大喜びで抱き返し、そのまま夜の庭に出ていっただろう。

 しかし、今にして思えばあの時の自分は咄嗟に、嫌だ。と思ったのだ。

 理由なんて無い。ただそう思ったのだ。



「じゃあ、どうして僕は嫌だって思ったんだろう……」

 小さなそのつぶやきに、ニコスのシルフ達が身を乗り出す。


『主様は嫌だったの?』


 急に身を乗り出して目を輝かせるニコスのシルフ達に、レイは驚きつつも頷いた。

「えっと、あの時はびっくりしすぎで自分の気持ちがよく分からなかった。だけど少なくとも嬉しくは無かったよ。それで、さっきからずっと考えていたの。じゃあどう思ったんだろうって」

 起き上がってソファーに座りなおす。クッションは抱えたままだ。

「どう考えても、あの時の僕の気持ちを表すとしたら、嫌、なんだよね。だけど、何故そう思ったのかが分からないんだ。あの本の主人公ならきっと喜ぶのにさ」

 自分の感情に納得出来ないようで、口を尖らせてそんな事を言う彼を見て、ブルーのシルフとニコスのシルフ達は必死になって笑いそうになるのを堪えていた。



 笑っては駄目だ。

 ここで笑ったら、確実に拗ねる。



 大きく咳払いしたブルーのシルフは、おもむろに口を開いた。

『まず考えられるのは、そもそも其方があの女性とのそういった行為を望んでいない、と言うのが、確実に嫌だと思う理由の一つとしてはあるだろうな』

 驚きに目を見開いてブルーのシルフを見つめる。

『どうだ? 物語に書かれていたような事を、あの女性としてみたいと思うか?』

 真剣な声でそう聞かれて、しかし、レイは呆然としているだけだ。

『そこまで考えなかったか? ならば今考えてみよ』

 隣では、ニコスのシルフ達も真剣な顔で頷いている。



「えっと……」

 目を泳がせてクッションを抱えなおして座ったレイは、またソファーに転がる。

「正直に言って、そう言う行為に興味が無いって言ったら嘘になるよ。だけど、だけど……」

『だけど?』

 優しいブルーの声に、レイは真っ赤になって、それでもはっきりと断言した。

「僕は、もしもそう言う事をするのなら……それは彼女とが良い。彼女とならしたいと思う」

『彼女?』

 分かっているのに、敢えてそう尋ねる。

「ブルーの意地悪。そんなのディーディーに決まってるよ」

 また口を尖らせる愛しい彼を見て、とうとうブルーのシルフは笑いを我慢出来なくなった。

「ちょっと、どうして笑うんだよ!」

 腹筋だけで起き上がったレイの叫びに、ブルーのシルフだけで無く、ニコスのシルフ達も満面の笑みになって彼の両肩に現れた。

『愛しき我が主に祝福を。どうかあの巫女と末永く幸せにな』

 ブルーのシルフに真剣な口調でそう言われて、もう、これ以上ないくらいに真っ赤になった彼を見て、しかしブルーのシルフは笑わなかった。

『大丈夫だよ。其方が彼女を想っているのと同じように、彼女も其方の事を想ってくれておるさ』

「そ、そんなの……そんなの、分からないじゃないか!」

 真っ赤になってクッションに顔を埋める。



 ブルーは彼女が一人で誓ったあの誓いを知っている。

 そしてブルーは、覚悟を決めた彼女の事も愛おしいと思えるようになった自分が嬉しかった。

『大丈夫だ。きっと上手くいくさ』

「そんなの……そんなの分からないじゃないか!」

 もう一度そう叫んだレイは、そのまま勢い余ってソファーから転がり落ちてしまいブルーのシルフを慌てさせた。




 扉の向こうでは、そろそろレイを休ませようとしていたラスティが、必死になって笑いを堪えていた。



 部屋に入ろうとした時、ブルーのシルフと話を始めた彼に気づき、すぐに終わるだろうと思い待っていたら、話がどんどん進んでしまい、完全に入るタイミングを逸してしまったのだ。

 ソファーから転がり落ちて悲鳴をあげるレイの声に、ラスティは慌ててノックも無しに扉を開いた。

「如何なさいましたか!」

 クッションを抱えたまま床に転がって笑い転げているレイに、ラスティは小さなため息を吐いてから起き上がるのに手を貸した。

「えへへ、ありがとラスティ。ちょっとブルーとお話ししてたら興奮しちゃいました」

 照れたようにそう言って誤魔化す彼に、ラスティは笑って背中を叩いて湯を使うように言ったのだった。




 素直に浴室へ向かう彼を見送ってから、机に出しっぱなしになっていたビスケットの入った瓶をいつもの戸棚に戻す。

「どうやら、恋愛小説作戦は上手くいっているようですね」

『まだまだ、情報は不足しておるようだがな』

 苦笑いするその声に、クッションを拾っていたラスティは顔を上げた。

「そうですね、では今度は純愛物をご用意しましょうか」

『そして二人はいつまでも幸せに暮らしました。で終わる物語だな』

「そうですね。まあ主に女性が読む物語ですが、レイルズ様のようなお若い方には良いと思いますね」

『ならば、悲恋の物語も読ませてやれ。恋愛についてまた別の角度から考える良い機会になるだろうからな』

 恋愛話が全てめでたしめでたしで終わるわけではない。

 引き裂かれて終わる恋もあれば、片方だけが若いうちに残されてしまい、それから先の長い人生を思い出をよすがに生きる事だってある。

 確かに、そういった物語も読ませておくべきだろう。

「かしこまりました。ルーク様に相談していくつか見繕っておきます」

 笑顔でそう言うラスティに、ブルーのシルフは満足気に頷くのだった。

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