それぞれの学び

「ありがとうございました。明日から、よろしくお願いします」

 笑顔でアルマに連れられて食堂を後にするジャスミンを、レイ達五人も笑顔で見送った。



 ジャスミンは、今日はまず、一般の知識と精霊魔法の知識を確認する筆記試験を今から受けるのだとアルマから聞いた。

 マークは、オルダムに来てすぐの頃に初めて受けた精霊魔法に関する試験を思い出して遠い目になり、隣ではそんな彼を見たキムが吹き出し、何事かと驚くレイ達に当時の話をして皆で笑い合ったのだった。

 ニーカも、オルダムへ来てすぐの頃に同じように筆記試験を受けたが、ラディナ文字さえもろくに知らなかった彼女は、自分の名前さえも満足に書けなかったので、そもそも試験にならなかった事を話して皆を驚かせた。



「そうだな、確かそんな事を言ってたよな。そう考えたら、ニーカが一番凄いよ。全く知識が無い状態で此処へ来て、本当に一から学んだ訳だからさ」

 マークの感心するような声を聞き、ニーカは照れたように笑った。

「文字や、簡単な足し算や引き算は、怪我をして入院している間に覚えたわ。皆、親切に教えてくれて……私、それまで勉強なんてろくにした事がなかったから、最初は勉強の仕方から教わったのよ」

 笑って平然とそんな事を言う彼女に、マークが首を傾げる。

「勉強の仕方?」

「ええと、まず文字を覚えましょうって言われても、どうやったら良いのか分からなかったの。それでまず、ペンの使い方を教わったわ。インクをつけて書くって事。その力加減だって最初は分からなくて、線を引けるようになるのに半日近く掛かったもの。それから次にノートを何冊も頂いて、書き方の本を見ながら、ひたすら言われるままにそこにある文字を書き写したの」

「書き方の本?」

 意味が分からなくて、またマークが首を傾げる。

「つまり、こう言う事。ラディナ文字の最初の文字は、ここからこう書いてこっちへ跳ねてこうでしょう。これを書く順番通りに、絵で書いてくれてあるのよ。最初はここからこう、二筆目はこう、って感じにね」

 机の上に、指でラディナ文字の最初の文字を順番に綺麗に書いていく。

「あ、そうか。全く知らなかったら、どこからどう書いて良いかも分からないのか」

「一番最初に言葉として書いたのは自分の名前よ。ニカノール。嬉しかったわ。これが自分の名前なんだって思ったら、嬉しくて嬉しくて涙が出て先生に笑われたのよ。それからは夢中になって言葉を覚えたの。少し読めるようになってくると、入院棟の壁に書いてある文字が気になって、何が書いてあるのか知りたくて必死になって読んだわ。部屋の名前だったり、詰所の場所の案内だったりね。意味がわからない言葉があれば、衛生兵の人を捕まえて聞いたりもしたわ。皆、忙しかっただろうに嫌な顔一つせずに教えてくれたの。分からない事を大人に聞いて良いんだって事も、ここに来て知ったわ」

「待って。分からない事を聞いちゃ駄目なの?」

 驚くレイの質問に、ニーカは当たり前のように頷いた。

「そんな事も知らないのかって言って、有無を言わさず殴られたり酷い事をされたわ。だけど、今考えたら、絶対あいつらも知らないからそう言って誤魔化してたんだと思う。私、この国へ来て、男の人が誰も私を殴らないから本当に驚いたもん」

 あまりの酷い内容に絶句する四人に笑いかけて、ニーカは、今の話は内緒ね、と言ってまた笑った。



 笑いながら彼女が話した内容は、しかし決して笑えるようなものではない。

 彼女はここへ来た時には既に十二歳になっていたはずだ。それなのに文字さえも書けなかった。その上、聞く限り、日常的に大人達に、当然のように暴力を振るわれていたのだと言う。



 タガルノの実情を垣間見て、軍人であるマークとキムは、複雑な思いで彼女を見つめるのだった。




「あ、大変、お喋りしてたら時間が無くなっちゃったわ。早く教室へ行かないと」

 慌てて立ち上がったニーカの言葉に、予鈴が聞こえた他の皆も、慌てて立ち上がって食器を返しに行ったのだった。

「それじゃあまたね!」

 廊下で手を振りあい、それぞれの教室へ急いだ。




「……強いな」

「そうだな。あの小さな体のどこに、あれ程の強さがあるんだろうな」

「この国で、良い事いっぱい……あると良いな」

「そうだな」

 マークとキムは、笑顔で手を振って教室へ走る小さな後ろ姿を見て、彼女のこれからに幸いを願わずにはいられなかった。




 レイは、今日は久し振りの天文学の授業の日だ。

 忙しくて毎日は出来なくなったが、出来る日には月や星の観測は続けている。そのノートを持って来たレイは、授業開始早々、早速ノートを開いて教授に観測した内容の報告を嬉々として始めるのだった。



 授業が一段落して話をしていた時、レイはお披露目後の婦人会で嫌味を言われた事に気付かず、天文学について延々と説明した話をした。

 途中から教授もその時の状況が分かったようで、必死になって笑いを堪えながら話を聞いているのを見て、レイは苦笑いしながら口を尖らせた。

「良いです、笑ってくださって。ルークとカウリから後で詳しい説明を聞いて、僕も大笑いしちゃったもん」

 その言葉にようやく遠慮なく吹き出した教授はひとしきり笑った後、笑い過ぎて出た涙を拭きながら顔を上げた。

「失礼しました。ですが、きっかけはどうあれ天文学に興味を持ってくださることは、純粋に嬉しいですね。成る程、初心者にも理解出来る分かりやすい言葉で説明する。それは確かに必要ですね。ついつい専門用語を用いて説明しがちですが、それでははっきり言って説明になりませんし、確かに、星の軌道計算や暦の詳しい合わせ方などは、一般の方にとってはそもそも意味すら分からないでしょうからね」

 納得したような教授の呟きに、レイも笑顔で頷いた。

「だって、皆、例えば、月が回転しながら動いているって事すら知らないんです。でも確かに、僕もここで学ぶまでは月が回っているなんて知りませんでした。月の満ち欠けなんて、そんなものだと思っていたから、どうして満ちたり欠けたりするのかなんて、そもそも考えた事すら無かったです」

「確かに、言われてみればその通りですね。専門的な研究をしていると、つい一般の感覚を忘れがちになりますが、それでは一部のものにしか分からない閉じられた狭い世界のみの学問になってしまいますからね。ありがとうございます。気を付けて、一般の方にも難しい学問の代名詞と言われる天文学を知ってもらうには、どうすれば良いか考えてみる必要がありますね」

 真面目にそう言う教授に、レイも真顔で頷いた。

「しかし、この数日急に天文学の書籍や初心者向けの授業は無いかと問い合わせが相次いだのは、そのおかげだったんですね。なんでも、城の図書館でも急に天文学に関する書物の問い合わせが殺到して、予備で置いてあった本まで総動員しても足りず、追加で初心者向けの本を中心に急遽購入する事にしたと聞きましたよ。購入する本の監修をお願いしたいと言われて、何人か図書館に行ったきり、まだ帰ってきていないですからね」

「うわあ、ご迷惑おかけしました」

 以前、ルークから聞いた、竜騎士が何かしたらそれに皆が群がると言う話を思い出した。今回の場合はお菓子では無かったが、どうやらほぼ説明と同じ事をやってしまったらしいと気付き、慌てたレイは本気で謝った。確かに、城の図書館でも天文学の初心者向けの本はそう多くは無かった覚えがある。

「気になさることはありません、こんな苦労なら幾らでも喜んでやりますよ。自分が大事だと思う事に、誰かが興味を持ってくれるだけでも、喜ばしい事です」

 嬉しそうにそう言われて、レイも笑顔になるのだった。



 学問の最高峰である、ここオルダムの国立大学においても、天文学を学ぶ生徒は決して多くはない。暦作りに関しては、絶対に必要な事なのである程度の生徒はいるのだが、その先の専門課程にまで進む生徒になるとぐっと数が少なくなる。レイルズは、まだ初心者ではあるものの、久々の専門課程を希望する新入生だったのだ。

 彼の身分がなかったとしても、もしもここで学ぶのなら、今のように特別体制が組まれて個人授業で教授が付きっ切りで基礎から教えていただろう。

 それ程に、天文学の専門課程で進みたい新しい生徒は貴重な存在なのだ。




 時間になったので、話を切り上げて授業は終了になった。

 手早く散らかしていた机の上を片付けてきちんと立って挨拶をする。

「ありがとうございました」

「はい、お疲れ様でした。では、次回の授業の予定は、ルーク様と調整して連絡しますね」

「申し訳ありませんがよろしくお願いします」

 本当に、申し訳なさそうに謝るレイルズを見て、教授は笑って首を振った。

「学ぼうとする生徒がいるのなら、教える場を作るのが我々の仕事です。遠慮は無用ですよ。少しでもそう思われるのなら、機会を逃さず、しっかり学んでください」

「はい、難しいけど頑張ります」

 満面の笑みで答えるレイルズに、教授も笑顔になるのだった。



 レイの肩には、ブルーのシルフとニコスのシルフが並んで座り、そんな彼の頬に愛おしそうにキスを贈るのだった。

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