幸せのひと針
「レイルズ様。イデア様から、もう大丈夫ですのでどうぞお越しくださいとの事でございます」
幻獣図鑑を眺めていたレイは、ラスティの言葉に元気に返事をして本を本棚に戻した。
外していた剣帯と剣を装着すれば準備は完了だ。
ラスティに案内されて、レイは一緒に部屋を出て行った。
「こちらにご用意いたしましたのは、レイルズ様からの差し入れのお菓子でございます。お持ちになってイデア様にお渡しください。ただし、ドレスが出ているお部屋は飲食は禁止でしょうから、後ほど皆様とご一緒にお召し上がりください」
手渡された籠には、色とりどりに飾り付けをされた一口サイズのマフィンが、薄紙に包まれて幾つも入っていた。
「ありがとうラスティ。娘さん達も甘い物がお好きだって言っていたものね。きっと喜ぶよ」
「これも気遣いでございますよ。女性がおられる所へ行く時は、こう言った簡単な差し入れが喜ばれますのでお忘れなく」
目を瞬いたレイは、満面の笑みで頷いた。
「分かりました。覚えておきます」
確かに考えてみたら、これは知り合いの女性の所へ遊びに行くと言う、何度かグラントリーから習った事のある状態だと唐突に気付いた。
「ええと、お招きいただき……違うな、僕から行きたいって言ったんだから、こういう時はなんて挨拶すれば良いんだろう?」
歩きながら密かに悩んでいると、ニコスのシルフの声が聞こえた。
『急で無理なお願いを聞いていただきありがとうございます』
『これで良いわよ』
「あ、そっか。ありがとうね」
目の前に現れて手を振るニコスのシルフに手を振り返して、レイは籠を抱え直した。
「こちらのお部屋でございます。では私はここで失礼致します」
にっこり笑って一礼したラスティは、そのまま廊下を戻って行ってしまった。
残されたレイは、扉の前で一度大きく深呼吸をしてから意を決してそっと扉をノックした。
「はいどうぞ」
女性の声が聞こえて、そっと扉が開かれる。
「レイルズ様でいらっしゃいますね。ようこそお越し下さいました。皆様お待ちかねでございます。どうぞ中へ」
恐らくこの部屋の世話係なのだろう、その小柄な女性にそう言われて、レイは一礼してから部屋に入った。
「まあ、レイルズ様、ようこそお越しくださいましたわ。良かった。あまりにも見事なドレスだったので、私達だけで見るのは勿体無いねって話していた所なんですよ」
以前も会った、ヴィゴの奥方のイデア夫人は、先程扉を開けてくれた女性よりも少し背が高い。女性としては平均程度なのだろう。だけど、レイに比べるとはるかに低かった。
「急で無理なお願いを聞いていただきありがとうございます」
軽く膝を折って差し出された手を右手で取り、そっと顔を寄せる。
「はい、よく出来ました」
にっこりと笑って、まるでダンスの練習のお相手をしてもらっているサヴァトワ夫人のようにそう言い、そっと手を引いた。
続いて二人の娘さん達にも同じように挨拶をしてから、手にしていた籠を夫人に渡した。
「あの、差し入れのお菓子です。どうぞ食べてください」
それを聞いて目を輝かせる娘達に、受け取ったその籠を渡したイデア夫人は、笑顔でレイを手招きした。
「貴女達、それは置いておきなさい。まずはレイルズ様に花嫁様を見ていただかないとね」
言われた通りに、籠を机に置いた二人は、元気に返事をして揃って駆け寄って来た。
「どうぞ、こちらです」
下の娘のアミディアが、嬉しそうにそう言って笑顔でレイの腕を引っ張った。
素直に腕を引かれたレイは、続きになった隣の部屋に向かった。
「ようこそお越し下さいました。花嫁衣装の仕立てを担当させていただいております。フィドキア商会のリリルカと申します」
年配の小柄な女性の挨拶に、レイも応える。
「初めまして、レイルズ・グレアムと申します。急なお願いを聞いていただき、ありがとうございます」
「ではどうぞ。まずはご覧ください」
満面の笑みのリリルカ夫人の言葉に、レイは頷いて後を付いて行く。
部屋の反対側には大きな衝立があって、部屋に入っただけでは、目的の人物の姿が見えなかったのだ。
「お久し振りでございます。レイルズ様」
優しい声でそう言われても、レイはすぐに反応出来なかった。
レイの目の前には、真っ白な幾重にも重なったドレープの付いた見事なドレスを身に纏ったチェルシーが立っていたのだ。
後ろ側が長くなったその真っ白なドレスは、上半身は彼女の体に沿うように、細身の形になっている。胸元には、細やかな銀細工が施された、綺麗な透明の石が幾つもついた首飾りと揃いの耳飾りも身につけている。
下半身を覆う見事なドレープを重ねたドレスは、所々に小さく結ばれたリボンが散りばめられていて、そのリボンには小さな透明の石が一緒に縫い付けられていてキラキラとした輝きを放っていた。
「うわあ、なんて綺麗なんだろう……」
挨拶することさえも忘れて、レイは呆然とそう呟いたきり、言葉を無くして立ち尽くしていた。
「まだ最後の仕上げがあるんですよ。ああそうだ。せっかく来てくださったんですから、レイルズ様にもひと針縫って頂きましょう」
先ほどのリリルカ夫人が笑顔でそう言い、まだ呆然と見惚れているレイを、半ば引きずるようにして衝立の前に引っ張って行った。
「ええ、もっと見ていたいのに!」
思わず叫んだレイのその言葉に、部屋の中は軽やかな笑い声に包まれたのだった。
「はい、ではここにお座りください」
この部屋は思った以上に広くて、衝立の反対側の部屋の端に置かれていた作業用の机は、休憩室に置かれた机よりも簡素ではあるが広いほどだった。
「あの、僕は縫い物なんて出来ません! やった事もないです!」
目の前の机の上には、これも真っ白な光沢のある大きな布が置かれていて、幾つもの細やかな刺繍がこれも白糸だけであちこちに施されていた、所々に先ほどのリボンに付いていたのと同じようなキラキラと輝く透明な石が縫い付けられているのを見て、レイは真っ青になった。
まさか、これを自分にもやれと言うのだろうか?
ニコスならば喜んでやってくれるだろうけれど、残念ながらレイはニコスから縫い物は習わなかった。
「はい、これをお持ちください」
髪の毛よりも細い糸を通した針を渡されて、レイは必死になって首を振った。
「どうぞお気になさらず。これは、当日の花嫁の肩掛けでございます。我が国の伝統で、花嫁の肩掛けには知り合いの者や、ご友人方など、結婚なさるお二人に縁のある方々が刺繍をするのです。これは男女共に行います。もちろん得手不得手がございますので、ひと針だけでも構いません。お二人の幸せを願って、どうぞ刺してください」
驚いたレイは、隣で見事な花の刺繍をしているイデア夫人を見た。
「竜騎士隊の皆様も、刺してくださいましたよ。ここはヴィゴが、こっちの部分はマイリー様が刺して下さいました」
「ここはルーク様が刺してくれましたよ」
「ロベリオ様とユージン様はこの花の鳥を。タドラ様はこっちの茎の部分を刺してくださいました」
イデア夫人の言葉に、同じように端の方に刺繍をしていた二人の娘さん達も顔を上げて教えてくれた。
言われて見てみると、どれも見事な刺繍が施されていて、レイは本気で帰りたくなった。
趣旨には心から賛同する。二人の幸せを心から願うけれども、こればっかりは出来る事と出来ない事があると思う。
ちょっと本気で泣きそうになっていると、笑ったリリルカ夫人がレイに渡そうとしていた針を持って、布の裏側から表側に針を通したのだ。スルスルと最後まで引き出したその糸を横に避けて、少し離れた場所を指差した。
「レイルズ様。男性の方は皆苦手だと仰いますが、これも経験でございます。ここへ針を刺してくださいませんか」
よく見ると、真っ白だと思っていたその布には、ごく薄く、幾つもの花や鳥、そして蔓草模様が細やかに描かれていたのだ。
「これが下書きなんだね。でも本当に僕……」
しかし、笑顔で針を渡されてしまい、諦めたレイは、椅子に座りなおして二本の指で摘むようにして持った針を言われた場所に突き刺した。
「ここで良いですか?」
すると、布の裏側に手を差し入れたリリルカ夫人がにっこり笑って反対側から針を引っ張ってくれた。
また針が突き出てきたので、レイはそれを引っ張り出した。細い糸を切らないように、慎重に引っ張り出す。すると、ニコスのシルフが現れ、また少し離れた場所を指差した。
『次はここに刺して』
頷いてそこに刺すレイを、リリルカ夫人は驚きの表情で見つめていたが、すぐに気を取り直して反対側からまた針を引っ張ってくれた。
二人掛かりにニコスのシルフまで手伝ってくれて、とても小さな花だったが、何とか形にする事が出来た。
最後のキラキラ光る石を縫い付けるのは、さすがに無理だと思ったらしくリリルカ夫人がやってくれた。
「ああ、もう駄目。緊張し過ぎて右手が痺れてるよ」
椅子に仰け反るようにしてそう叫んだレイを見て、部屋にいた女性陣は全員が拍手をしてくれた。
「まあまあ、驚きました。ひと針だけだと思っていたのに、小花を一つ仕上げてしまわれましたわ。素晴らしいですね。何処かでお針を習われたのですか?」
目を輝かせるリリルカ夫人の言葉に、レイは本気で驚いた。
「ええ、だって他の皆もやったんでしょう? マイリーやヴィゴの刺したのなんてすっごく綺麗だよ。だから僕も必死になって失敗しないように頑張ったのに」
それを聞いて、突然女性陣は全員が笑い出した。
いつも聞く声とは違う、軽やかな、鈴を転がすようなその笑い声に、レイは戸惑いを隠せなかった。
「レイルズ様、竜騎士隊の他の皆様方は、ひと針だけでございます。お分かりですか? 刺して、引き抜く。それだけでございますよ」
その言葉がレイの頭の中で理解されるまでに、しばらくの時間を要した。
「ええ! ちょっと待って、ひと針って、ひと針ってそういう意味だったの?」
仰け反るレイに、部屋はまた笑いに包まれたのだった。
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