年内最後の訓練所と心の傷
翌日、訓練所にはクラウディアとニーカは来ていなかった。
「無理ないよ。それでなくても年末年始は祭事が多いんだから、城の分所でもずっと一晩中蝋燭を灯して交代で番をしているよ。移動したてであっても、人手は必要なんだからさ、彼女達も動員されている筈だよ。恐らくせっかく引っ越した部屋にも、殆ど戻れていないと思うぞ」
キムの言葉に、レイとマークは感心したように頷いた。
「明日から三日間はここも休みだしな。俺達はまあ特に変わらず通常業務だけどな」
「どっちかって言うと、年末年始は家族に連絡取りたがる奴が多いから、精霊通信科は大忙しなんだよな」
苦笑いする二人を見て、レイも頷いた。
「そうだね。僕も家族に連絡しようって思ったもん。それなら精霊通信の出来る部屋に行ってみようかな」
「お前は自分で出来るだろうが!」
「ええ、人に呼んでもらうのってどんな感じか知りたいです」
「お前なあ……」
無邪気なレイの言葉に、もう笑うしかない二人だった。
その日の食堂では、あちこちで来年もよろしくと挨拶が交わされ、レイも何人もの友人達とそう言って笑い合った。
今年最後の授業は苦手な古典文学で、相変わらずなんとかついて行くのに必死だったにだけれど、今日は違った。
今日の課題は朗読詩なのだが、課題を読んでいて驚いた。それはレイの知っている詩だったからだ。
「へえ、これの作者ってアルターナって言うんだ」
感心したようにレイが呟いて見ているのは、アルターナの夕景。
ゴドの村の村長が、いつも日が暮れると子供達に言っていたあの言葉がそこには並んでいたのだ。
「おや、アルターナをご存知なんですか?」
古典文学に苦労している事を知っている教授が、驚いたように手元の資料から顔を上げた。
「はい。えっと、以前僕が暮らしていた自由開拓民の村の村長が、夕方になるとこれを僕達にいつも言っていたんです。だから、これを聞いたら早く帰らなくちゃって思ってたんです……」
そう言って笑ったつもりだった。
しかし、唐突に目の前に、あの村での暮らしが鮮明に蘇って来た。
その記憶は圧倒的で、レイは自分でも気付かないうちに悲鳴をあげて椅子から転がり落ちて床に倒れた。
男達の畑仕事から帰って来た時の土の匂い。
母さんが作ってくれる、殆ど具の入っていない薄いスープと薄く切った酸っぱい黒パン。
真っ暗な部屋。
森狼の遠吠え。
そして、悲鳴と扉に立ち塞がる血の滴る男の持った短剣。
母さんの真っ白な手が、緑の地面に落ちる。
そこでレイの意識は完全に途切れた。
目が覚めた時、レイは自分が何処にいるのか分からず、途方に暮れていた。
どうやら自分はベッドに横になっているようだ。
無意識に自分の体の状態を確認したが、特に何処か痛んだり動かなかったりする事も無いようだ。
横を見ると、着ていた竜騎士見習いの服は、剣帯と共に壁のフックに掛けられている。靴も脱がされていてシャツの襟元も緩められている。
「えっと、ブルー……?」
その時、目の前にブルーのシルフが現れた。
『レイ、目が覚めたのだな。良かった。本当に良かった。心配したぞ』
ふわりと枕元に降りて来たブルーのシルフは、何度も何度もレイの頬にキスをくれた。ブルーのシルフだけでなく、何人ものシルフ達が現れてレイの頬や鼻先、額にも沢山のキスを贈っている。
「えっと……ねえ、ここは何処? 僕、どうしてここにいるの?」
ゆっくりと起き上がって、めまいや苦しさが無い事も確認する。
『教室で倒れたのだ。覚えておらぬか?』
「えっと……」
確か自分は古典文学の授業を受けていたと思ったが、ならその時に倒れたのか?
何度考えても、全く記憶が無く、レイは戸惑うばかりだった。
「おお、目が覚めたか。気分はどうじゃ?」
その時ノックの音がして、入って来たのは何とガンディだった。
「ええ、どうしてガンディがここにいるの? もしかして、ここって訓練所じゃなくて白の塔?」
驚いてそう叫ぶレイを見て、ガンディは堪える間も無く吹き出した。
「どうやら大丈夫のようじゃな。でも一応診るから横になりなさい」
軽く肩を押されて、レイは素直に横になった。
黙ったままお腹や胸を押さえている。すると突然大きなシルフが現れて、レイの胸の中に入って消えてしまった。
驚いて見ていると、シルフはすぐに出て来た。そしてガンディに笑って何かを耳打ちすると、そのまま手を振って消えてしまった。
「ふむ、もう大丈夫なようじゃな。しかし一体どうしたのだ? ちょうど儂が講義で訓練所へ来ていたから良かったものの、そうでなければ、本部へ連絡が行って大騒ぎになっておるところだぞ」
しかし、全く倒れた時の記憶が無いレイには、何と答えたら良いのか分からなかった。
その時、控えめにノックの音が聞こえた。
立ち上がったガンディが扉を開けると、そこには心配そうなマークとキムが立っていた。
「あれ、もしかしてもう授業終わっちゃったの? うわあ、今日の僕ってもしかして午後からずっとここに居たんですか?」
そのレイの呑気な言葉に、二人は揃って脱力してしゃがみ込んだ。
「何だよもう。倒れたって聞いて驚いてすっ飛んできたのに。あの、もう大丈夫なんですか?」
ベッドの横に戻ったガンディに、キムが困ったようにそう質問する。
「うむ、ちょっと酷い貧血だったようじゃな。休みの間に、食生活の指導をしておくとしよう」
腕を組んだガンディの言葉に、二人はホッとして顔を見合わせた。
「駄目じゃないかレイルズ。竜騎士様は貧血には注意しないと。ああ、あれが良いぞ。レバーペースト」
「たまに食べてるけど、僕はパンに付けるならバターの方が好きだな」
「口にしたく無いほど嫌いで無いなら、レバーペーストを塗りなさい。あれは少量でも効果が高い」
「分かりました。じゃあ両方取ることにします」
それを聞いてマークとキムは吹き出した。
「俺達も、一応注意はしているよ。一般兵は、竜の世話をしている人達程は影響無いって聞くけど、それでも、本部にいるだけでごく少量だけど竜射線に晒されてるって聞いたからな」
「カナエ草のお茶と薬は必須だって言われたもんな」
しみじみとそう言って頷き合っている。
「うん、食事も気を付けます。えっと、もう大丈夫だから帰っても良いですか?」
「馬車を出してやる故、其方は、今日は馬車で帰りなさい」
「ええ、大丈夫だよ」
抗議の声を上げたところで、またノックの音が聞こえた。
「倒れたって? 大丈夫か?」
覗いているのは鞄を持ったカウリだった。いつも彼の授業が一番遅いので、誰も廊下にいなくて驚いただろう。
起き上がったレイは慌てて首を振った。
「えっと、ちょっと貧血だったみたい。ガンディにお休みの間に食生活の指導をするって言われました」
「あはは、お前もか。頑張れよ」
今もまだ禁煙生活が継続しているカウリにそう言われて、レイも笑って起き上がった。
「それでね、ガンディが今日は馬車で帰りなさいって言うんだよ。もう大丈夫なのに」
口を尖らせるレイを見て、カウリは大きなため息を吐いた。
「お前なあ。ちょっと考えてみろよ。貧血なんて、気が付いた時にはもう倒れた後なんだよ。騎竜に乗ってて貧血なんか起こしてみろ。あの高さから突然無防備に落ちたら下手したら死ぬぞ。首の骨折って一巻の終わりだぞ」
真顔でそう言われてしまっては、レイにはもう言い返せなかった。
確かにゼクスの背中の高さからまともに落ちたら、よくて大怪我、下手をしたら精霊王の御許へ一直線だろう。
「分かりました。じゃあ馬車の手配をお願いします」
頭を下げてしょんぼりするレイを見て、マークとキムも一緒に馬車に乗ってくれる事になった。
しばらく待ったあと、馬車が準備出来たと言われて身支度を整えたレイは、皆と一緒に外へ出て行った。
外は晴れてはいるが、寒い風が吹き付けてくる。
馬車の横ではキルートを始めとした護衛の者達三人が、揃って心配そうに自分を見てるのに気が付き、レイは慌てて駆け寄った。
「あの、ごめんなさい、本当にただの貧血だから、大丈夫なんだよ」
レイの様子に、苦笑いして頷いてくれた。
「幸い明日からはお休みですからね。どうぞごゆっくり静養なさってください」
年末年始の期間中は、見習い二人は特にする事も無いので自由にして良いと言われている。
「うん、大人しくしています」
照れたように笑って、促されて馬車に乗り込んだ。
何人もの教授達が寒い中を出て来て見送ってくれた。
「それじゃあ、ありがとうございました。あの、お騒がせして本当にごめんなさい。お世話になりました。また、来年もよろしくおねがいします」
馬車の窓から慌てたようにそう言うレイに、教授達も笑って手を振ってくれた。
「それでは参ります」
御者台に座った護衛の者がそう言い、ゆっくりと二頭立てのラプトルの引く馬車は走り出した。
三人の乗っていたラプトルは、護衛の者達と一緒に馬車の前後を走っている。
馬車の前を走りながら、カウリはちらりと馬車を振り返った。
「貧血ねえ。本当にただの貧血だったら、あんなに教授達が血相変えて知らせに来るかね?」
実は、先程順番に時間を置いて病室に来たが、三人共知らせを受けて授業や自分の研究を中断して医務室へ駆け付けていたのだ。今日はカウリの薬学の授業でガンディがいた為すぐに対処出来たが、ここには専属の医師はいない。その為、もしもガンディがこの場にいなかったとしたら、知らせを受けて竜騎士隊の本部からハン先生が、或いは白の塔からガンディが駆け付けていただろう。そうなったら恐らくもっと大騒ぎになっていたはずだ。
「なあ、ラピス、何があったんだよ?」
誰もいない空間に向かって小さな声で話し掛ける。
すると、すぐ目の前にブルーのシルフが現れた。
『すまぬが、後ほど詳しい話をする。オパールとアメジストの主にも知らせたからな』
「了解。じゃあやっぱりただの貧血じゃ無いんだな」
小さく頷いて消えるブルーのシルフを見送って、カウリはこっそりとため息を吐いた。
「病気だったら、絶対にガンディが付いて来ているだろうからな。じゃあ一体何だよ? 病気でも無く、貧血でも無いのに倒れるって」
心配そうな、カウリのその呟きは、竜の鱗山から吹き付ける北風に吹き消されて、すぐ横を走る護衛の者達には聞こえずに消えてしまった。
レイ達三人の乗った馬車の窓には、何人ものシルフ達が並んで座り、大人しくマークと並んで座っているレイの事をずっと心配そうに見つめていたのだった。
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