彼女の職場

「ええと、これはクリスに渡せば良いわね。こっちはジョエル、それからこれがケイタムの分、っと」

 チェルシー上等兵は、毎日届く大量の備品の注文書を担当者ごとに振り分けながら、小さなため息を吐いた。

 今までは、優秀な上司が簡単に書類を割り振ってくれていたが、あの日以来これは自分の仕事になった。

 その優秀な上司は、初夏のある日、精霊王の気まぐれにより何の前準備も無く突然ここから移動してしまった。そしてもう、簡単には手の届かない程の高い所へ登ってしまったのだ。



 彼は今でも自分が良いと言ってくれるが、彼女はもう彼との将来を半ば諦めていた。



 チェルシー上等兵はオルダムでは無く、ハイラントという街の出身だ。

 彼女が幼い頃は、ハイラントの街は夜は外へ出られないくらいに治安が悪かった。スラム街程ではないが街は汚かった。決して、良い環境とは言えなかっただろう。

 しかし、十年程前に、この街は激変する事になったのだ。スラム出身の庶子の若者が、なんと竜騎士になったのだと言う。

 その後、街は驚くほどに綺麗になり、スラムはすっかり綺麗な下町になった。孤児を支援する基金が設けられ、仕事も増え街は一気に活気付いた。今では道端に座る孤児の姿は無い。



 彼女は六人兄弟の末っ子で、二人の姉と三人の兄がいる。大工の父は気難しい所もあったが母や子供達には優しかった。決して裕福な家庭では無かったが、料理上手な母のいる笑いの絶えない暖かな家庭だった。

 いつか、自分もこんな家庭を持てたら良いな。と、幼かった彼女は将来出会うであろう人の事を考えて胸をときめかせていた。



 軍人になる事を決意したのは成人して間もない十八歳の時。

 勝手に決めた縁談で、顔も知らない大手の商家へ嫁がせようとする父と大喧嘩になり、家出同然に軍の入隊受付の扉を叩いたのだ。以来、一度も家には帰っていない。

 一度だけ母から謝罪の手紙をもらい、ごめんなさい。もう自分は軍での居場所を見つけたからハイラントには戻らない、との内容の手紙を書いたきりだ。それ以来、一切の連絡を取っていない。

 月日が経つのは早く、気が付けばもう三十代になっていた。

 結局、物語のような胸踊る出会いは無く、面倒見の良い優しい先輩、と言う役割を果たし続けていた。



 彼と出会ったのは五年前。

 人事異動でオルダムにやって来たその人は、妙にだらしなくて、気付けば無精髭が生えているような人だった。仕事は完璧にこなす癖に、妙なところが抜けていてどうにも目が離せず、気付けばいつもなにかと面倒を見ていた。



 笑うと細くなるやや垂れ目のその顔も、見慣れたら格好良いと実は思っていた。



 いつの間にか、お互いの場所はごく近くにあった。

 照れ屋な彼と、同じく照れ屋の自分。内緒の交際が始まっても、表向きの彼は普段と全く変わりがなくて、本当に彼は自分の事を好いてくれているのか分からなくなりそうな時もあった。それでも、穏やかな交際は続いた。

 訳も無く不安になった花祭りが終わった頃、第四部隊から部隊間交流で新兵が派遣されて来た。どうなる事かと心配していたが、その新兵はとてつもなく優秀で、案外面倒見の良い彼は、すっかりその新兵が気に入ったようで何かと面倒を見ていた。

 つむじ風みたいだったその新兵が派遣期間が終わって去った後、彼は突然、ひと組の指輪を差し出してこう言ってくれたのだ。

 自分は年齢も上だし、貴女にはふさわしく無いかもしれないが、少しでも自分を好きでいてくれるなら、どうか結婚してくれ、と。



 受け取った指輪を持って、彼女は嬉しさのあまり彼が驚く程に号泣した。



 幼い頃に夢にまで見た未来の夫は、くたびれた軍服を着たやや猫背の痩せ型の無精髭の愛煙家だった。

 背が高い事以外は、どれひとつ取っても思い描いていたその人とは違う。けれど、彼女は指輪を受け取った瞬間、まさに天にも昇る心地になったのだ。

 私こそ、もう三十代です。

 泣きながらそう言った彼女に、彼は未だかつて見たことがない程の真剣な顔でこう言ったのだ。

 貴方が良い。俺は、貴女が良いんです。と。

 いつ、皆に話そうかと言っていた時に、彼にある命令が下された。

 庶子である彼の身分を認めたので、義務である竜との面会に行け、と言うものだった。

 その時、彼女は初めて彼の血の繋がった父の話を聞いた。



 行きたくない。今更そんな必要は無いと嫌がる彼を説得したのも彼女だった。



 父親を憎んだままでもいい。許せなくてもいい。それでも、最後に父親として貴方を認めたのだから、それだけ受け入れれば良い、と。

 竜との面会に行きたくても行けない人も大勢いるのだ。せっかく頂いた機会なのだから、社会見学のつもりで竜に会えば良い。そして、間近で見た竜がどんな風だったか教えてください、と、出来るだけ軽くそう言ってやったのだ。

 その言葉に泣きそうな顔で彼は頷き、行ってくる。これが終わったら皆に結婚の報告をしようと言ってくれた。

 笑って見送ったあの後、竜騎士隊からの知らせを聞いて目の前が真っ暗になった事しか覚えていない。

 以来、毎晩のようにシルフを通じて話をしているが、結婚の現実味は彼女の中ではどんどん薄れていった。




 考え事をしながらも、慣れた作業はどんどん進む。仕分けた書類を、新たに作った各自の依頼書入れに放り込み、次は、第三部隊の軍服を管理する部署に届ける冬用の制服の生地の納品書を広げた。

 小柄なクリス二等兵が、依頼書入れに振り分けられた書類を取り出して確認している。

「今日は多いですね」

「ええ、後は午後からの分だから、それは早めに片付けるように言ってね」

「はい、皆に言っておきます」



 優秀な上司が突然いなくなり、しばらく倉庫はパニック状態だった。

 今は代理でロリー曹長がこの部署の責任者も兼ねているが、元々持っている仕事に加えての、いきなりの代理なので、はっきり言って仕事は倍増してしまい、彼もほぼ限界の状態だ。

 皆、もう必死で毎日走り回った。

 事情を知った他部署からの応援もあり、なんとか物流を滞らせる事もなく無事に数ヶ月が過ぎようとしていた。

 ようやく様々な作業が軌道に乗り、割り振られた仕事を、各自が余裕を持ってこなせる様になった。


 納品書の整理をしていた時、目の前に白い影が現れて手を振る様な仕草を見せた。

 これは、伝言のシルフで、誰かが彼女を呼んでいるのだ。

「ごめんね。すぐに戻ります」

 まだ書類を見ているクリスにそう言い、慌てた様に精霊通信の出来る部屋に向かった。

「まだ仕事中だって言うのに、一体どうしたのかしら」

 彼女に精霊通信を直接寄越す人物は一人しかいない。

 普段なら、仕事が終わった自由時間に呼んでくれるのに、今はまだ午前中だ。若干の不安を抱えて、彼女は精霊通信の出来る部屋に行った。

 この数ヶ月で、担当者達にはすっかり顔を覚えられてしまった。

「おや、珍しい時間に呼び出しだね」

「ええ、私も驚きました」

「それでは二番の部屋にどうぞ」

 受付のノートに名前を書いて、言われた通りに二番の部屋に入った。


 小さな椅子と机が置いてあるだけの、話をするためだけのごく狭い部屋だ。急いで彼女が椅子に座ると、二人のシルフが現れて並んだ。

 彼女の目には、白い塊が左右に分かれて座った様に見える。こんな座り方は初めて見る。しかも、いつもなら一列になったシルフがすぐに口を開くはずなのに、何故だか今日は左右のシルフは黙ったままだ。



「あの、カウリ……よね?」

 不意に不安になって、目の前の白い塊に話しかける。

 咳払いの音がして、右に座ったシルフの声が聞こえた。

『お仕事中に申し訳ない』

『はじめまして竜騎士隊の参謀を務めるマイリーです』

 そして、今度は左に座ったシルフの声が聞こえた。

『はじめまして』

『同じく竜騎士隊の副隊長を務めるヴィゴです』



 その言葉に、彼女は目の前が真っ暗になった。一気に心臓が跳ね上がり、物凄い勢いで脈を打った。

 震え始めた身体で、それでも彼女は気丈に顔を上げた。

 この二人が、自分に直接連絡を取る理由なんて一つしかない。恐らく、カウリが自分との事を上司である彼らに報告したのだろう。

 泣きそうになるのを必死で我慢して、何とか平静を装って息を吸った。

『驚かせてしまって申し訳ない』

『出来れば直接会って話がしたいのですが』

『今から迎えをやっても構わないでしょうか』

 二人のシルフの声に、彼女は思わず顔を覆った。

「はい、畏まりました」

 それしか言えなかった。

『では迎えを寄越しますので』

『詳しい話は後ほど致しましょう』

『お待ちしております』

『お待ちしております』

 見えないと分かっていても、深々と頭を下げる彼女だった。






 一夜明けた竜騎士隊の本部では、マイリーとヴィゴが早速彼女の上司であるダイルゼント少佐にシルフを通じて連絡を取り、カウリとチェルシー上等兵の事情をとにかく報告していた。



 目の前に並んだ大勢のシルフ達から突然聞かされた話に、呼び出されたダイルゼント少佐は大いに焦っていた。

「そ……それは、申し訳ございません。私も全く把握しておりませんでした」

 慌てた様に頭を下げる少佐に、マイリーのシルフは笑って首を振った。

『よくもまあここまで見事に完璧に』

『身内にまで隠しおおせたとこれは褒めるべきでしょうね』

「お、恐れ入ります」

 苦笑いする少佐は、もう一度深々と頭を下げた。



『竜騎士隊としてはこの結婚反対する気はありません』

『それどころか出来れば早く結婚させてやりたいので』

『彼女を竜騎士隊の本部へ移動させたいのです』

 驚く少佐に、マイリーは笑っている。

『竜騎士の妻ともなれば』

『縁を求めて接触するものが必ず現れます』

『それを防ぐ意味もあり』

『一般の方の場合は職場を本部に移動させます』

『同じ職場から二人も抜ける事になる』

『申し訳ないがご了承頂きたい』

「もちろんです。後任の者をすぐに手配しますので、引き継ぎをする時間を取ることは可能でしょうか?」

『それはもちろんです』

『彼女をこちらに来させてから』

『陛下に正式な結婚の報告をさせます』

『来年には殿下のご成婚もありますから』

『恐らく来年は若者達がこぞって式を挙げるでしょう』

「確かにそうですね。かしこまりました。移動の準備が整えば、すぐに連絡致します」

『無理を言って申し訳ありません』

『後ほど本人から連絡させます』

『好きなだけ苛めてやってください』

 それを聞いた少佐は、堪える間も無く吹き出した。

「し、失礼致しました」

 しかし、目の前のシルフからも二人の笑う声が届いていた。

『それから』

『一度そのチェルシー上等兵と』

『直接会って話しがしたいのですが』

『今日にでもこちらに来て貰っても構いませんか』



 それは当然だろう。少佐は大きく頷いた。



「了解しました。すぐにチェルシー上等兵をそちらへ……」

『いえそれならば』

『直接彼女と連絡を取ります』

『そちらに迎えを寄越しますので』

『先ずは話しをさせてください』

「了解しました。ならば、今はまだ他言無用と言う事ですね」

『申し訳無いがそれでお願いします』

『それでは』

 敬礼したシルフ達が次々にいなくなるのを、少佐は無言で見送った。

 全員いなくなったのを確認して、少佐はこれ以上無いくらいの大きなため息を吐いた。

 そして、顔を覆って天井に向かって大声で叫んだ。



「カウリ! 幾ら何でもこれはあんまりだぞ! せめて、せめて一言私には言ってから行け! この薄情者が!」



 精霊通信の出来る個室は、基本的に結界が張られているため、余程の事をしない限り大声程度では外に漏れる心配は無い。

 思いっきり悪態をついた少佐は、もう一度ため息を吐いてから立ち上がった。

 もう一人、優秀な人材がいなくなるのだ。ようやく立て直せたあの部署は、またしても大混乱に陥るだろう。

「二人、いや、責任者となる伍長クラスを一人と、せめて倉庫管理の経験のある下級兵士が三人は必要だな」

 何処に頼むべきか必死で考えながら少佐は精霊通信の士官用の部屋から出て行ったのだった。

 その隣にある下士官用の精霊通信の出来る部屋に、チェルシー上等兵がやって来たのは、そのすぐ後の事だった。




 一方、竜騎士隊の本部では朝からカウリがレイとルーク、そして若竜三人組に寄ってたかってからかわれて、悲鳴を上げていた。

 レイは、チェルシー上等兵がいかに優しくて素敵な女性かを彼らに必死になって説明して、意図せずカウリを真っ赤にさせていたのだった。

「なあレイルズ、頼むからもう黙ってくれ。悪かった。黙ってた俺が悪かったよ」

 レイの背後から悲鳴を上げて縋り付くカウリに、レイは平然と応えた。

「ええ、別に良いじゃないですか。素敵な彼女だよって言っているだけなのに」

「お前、完全に面白がってるだろう」

 真顔のカウリに両頬を押さえられて、レイは笑って逃げようとした。

「逃すか! よく喋る口は何処だ!」

 頬を引っ張られて口から息が漏れる。

「誰か助けてー! カウリが僕を苛めるよ」

 見習い二人のじゃれ合いを見て、全員揃って大笑いで見ていたのだった。

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