知識の精霊
「それは素晴らしいですね。天球儀をお買い求めになられたんですか」
天文学のアフマール教授に、レイは授業が終わってから、出入りの商人から天体盤と天球儀を買った事を話した。
「それなら次回は天球儀を持ってきますから、天球儀の詳しい扱い方や手入れの方法をお教えしましょう」
「お願いします。何となくは分かるんだけど、ちゃんと教えてください」
目を輝かせるレイに、教授も笑顔になった。
「えっと、そう言えば、精霊王の神殿にも大きな天球儀があるって聞いたんですけど、ご存知ありませんか?」
本を片付けながら、昨日のタドラの言葉を思い出して聞いてみた。
「ああ、大天球儀の事ですね。ええ、大人が二人がかりでも運べないくらいに大きな天球儀がありますよ。大天球儀と呼ばれるそれは、春分、夏至、秋分、冬至の日に神殿であげられる祈りの際に、一緒に祭壇に飾られます。それぞれ一日だけしか出しませんので、話に聞いた事はあっても実際に目にしたことがある方は稀ですね」
「アフマール教授はご存知なんですか?」
「もちろん、取り出す際には毎回立ち会って、何処かに不具合が無いか確認しています。今年の秋分は、もう過ぎてしまいましたので、次回の冬至の時には良ければ一緒に行きましょう。後学のためにも、あれは一度は近くで見ておくべきだと思いますね」
「是非よろしくお願いします! 今度の冬至の日ですね。予定を確認しておきます」
「ああ、言っておきますが私が行くのは冬至の前日ですよ。予定を空けておくのなら、冬至の前日でお願いします」
大喜びのレイの言葉に慌てたように教授がそう言い、それを聞いたレイは、一瞬考えてから大きく吹き出した。
「あはは、確かにそうですね。分かりました。じゃあ、前日と当日の予定を確認します。出来たら実際に祭壇に飾られているところも見てみたいです!」
「はい、では楽しみにしていてください。それでは今日はここまでにしましょう。お疲れ様でした」
分厚い本を何冊も抱えた教授が出て行くのを見て、レイは慌てて立ち上がって扉を開いた。
「ありがとうございます。それでは」
嬉しそうに一礼した教授は、本の山を抱えて、ゆっくりと廊下を歩いて行った。
レイも、自分の教科書やノートを鞄に戻して、窓を閉めてから廊下へ出た。
廊下で、教室からカウリが出てくるのを待ってから一緒に外へ出た。
「レイルズ、お疲れ様」
「それじゃあ、また明日」
出たところに丁度マークとキムがいて、笑顔で手を振って挨拶をして別れた。
すっかり秋の気配になった九の月の終わる頃のオルダムは、春と並んで過ごし易い気候だ。爽やかな風が吹く中を、キルート達が待つ正門の前まで並んで歩いた。
「なんだか疲れているみたいに見えるけど、どうしたの? 大丈夫?」
キルート達と合流して、それぞれのラプトルに乗って本部へ戻りながら、レイはさっきから気になっていた事をカウリに尋ねた。
「そりゃあお前……毎回言ってるけど、十代の若者と、四十過ぎのおっさんの頭を一緒にするなよな。俺は本当に切実に記憶力が欲しいよ」
情けなさそうにそう言って空を仰ぐ彼を見て、レイはちょっと考えた。
聞くところによると、彼は得意科目と不得意科目の差が激しいらしく、今は不得意科目を中心に勉強しているのだが、しかし、主に記憶力が必要な歴史や精霊魔法の歴史、それからレイも受けている基礎医学と薬学で苦労しているらしい。
確かに、これを全部一度に覚えるのはかなり無理があるだろう。
「ねえ、知識の精霊って、珍しいって言ってたよね」
ふと思い付いて小さな声で、目の前にいるニコスのシルフに話しかける。
『そうだね』
『今ではもうほとんど見なくなった』
「全くいなくなったわけじゃ無い?」
『蒼の森にはいるよ』
『だけど自らが認めた人の側にしか現れない』
「そっか。知識の精霊がいたら、彼を助けてあげられるのになって思ったんだけどね」
カウリに知識の精霊を贈るのは、ちょっと無謀な考えだったようだ。
『それなら彼と仲の良いシルフにやらせれば良い』
その言葉に、レイは思わずシルフを見た。
「えっと、それってどう言う意味?」
『後で教えてあげる』
ニコスのシルフは、すぐ後ろにいるキルート達を見て笑って首を振った。
他の人が聞いている場所で、気軽に話して良い内容では無いのだろう。
「わかった。じゃあ後で教えてね」
笑ってそう言うと、到着した本部で、いつものようにゼクスの世話をしてから部屋に戻った。
部屋に入るとすぐに、本棚の前に置かれた大きな天球儀が目に付く。
嬉しくなって、駆け寄ってそっと分厚いリングに手を掛ける。
「ここが黄道。こっちが天の赤道、これが子午線……」
一つずつ名前を呟きながら、それぞれのリングを確認していく。
「レイルズ様。嬉しいのは分かりますが、まずは剣を外して手を洗ってきてください」
背後から呆れたようなラスティの声が聞こえて、レイは慌てて振り返った。
「はい、了解です!」
直立して敬礼すると、レイは剣を取り外していつもの場所に置き、剣帯も定位置の金具にぶら下げた。それから急いで洗面所で手を洗ってうがいをした。
部屋に戻ったレイは、大きく伸びをして椅子に座った。ラスティが、手早くお茶とお菓子を用意して出してくれる。
「夕食まで、まだ少し時間がありますので、これを食べて休憩なさっていてください」
それは、栗の甘露煮を丸ごとパイ生地で包んだお菓子で、半分に切られた断面からは、大粒の栗がのぞいていた。
「へえ、栗のパイだ。これは初めていただくね」
「はい、届いたばかりの季節のお菓子です。栗はお好きでしょう? どうぞ、足りなければまだございますよ」
「おいしいね。これ」
目を輝かせて半分を丸ごと口に入れたレイを見て、ラスティは小さく笑って、新しい栗のパイを半分に切ってお皿に乗せてやった。
結局栗のパイを二つも平らげたレイは、お代わりのお茶を入れたラスティが、お皿を持って部屋を出ていくのを見送ってからニコスのシルフに話しかけた。
「えっと、さっきの話しなんだけど、詳しく教えてくれる?」
頷いたニコスのシルフは、お茶のカップの横に座った。
『記憶の補助ならシルフ達でも出来る』
『だがそれだけでは我らのように知識を使いこなす事は出来ない』
「えっと、どう言う事? 記憶の補助って?」
首を傾げるレイに、ニコスのシルフは揃って笑っている。
『彼と仲の良いシルフにやらせよう』
『彼が記憶しようとしている事を』
『そのシルフにも丸覚えさせる』
『それを何度もやらせれば』
『勉強した事は彼女が全て覚えてくれる』
「凄いね。だけどそれなら、試験の時は困るよ。シルフの助けは借りられないもの」
進級や単位修得の為の試験の際には、部屋に特殊な結界が張られてしまい、通常のシルフは姿を表すことが出来ないのだ。
『大丈夫』
『声だけを届ける技があるんだよ』
それを聞いて納得した。確かに、ニコスのシルフ達は姿を現さずに声だけを届けてくれる事もある。
『まずは彼のところへ連れて行ってくれる』
『我らが彼のシルフにやり方を教えてあげるから』
「分かった、カウリの所へ行けばいいんだね」
笑顔のレイは、立ち上がって隣の部屋にいたラスティに声を掛けてからカウリの部屋に向かった。
「カウリ、いますか?」
そっと扉をノックして待つ。
「はい。おや、どうされましたか? まだ、夕食には早いと思いますが」
扉が開き、カウリの従卒のモーガンが顔を出した。隙間から部屋を覗くと、カウリは机に向かって本とノートを広げて勉強をしていた。
「おう、どうした? 入れよ」
手を止めて顔を上げたカウリに、レイは一礼してから部屋に入って彼の横に駆け寄った。
「それは、今日やった分なの?」
「そうだよ。もう歴史と精霊魔法の歴史、この二つだけで、正直泣きそうになってる。だけどやるしかないもんな。まあ、勉強して死んだ奴はいないからな。俺が最初の一人にならない程度に頑張るよ」
相変わらずの物言いだったが、覗き込んだノートには、レイのノートの比では無いくらいに書き込みが隙間無くぎっしりしてあったし、教科書にも、あちこちに自分で書き込んだ文字が見られた。
机の上では、数名のシルフ達が並んでそんな彼を心配そうに見守っていた。
「えっと、この子達がカウリがここへ来る前から仲の良かった子達?」
「ああ、そうだよ。俺が子供の頃からずっと一緒にいる子達だ。可愛いだろう?」
「そうだね。えっと、僕のシルフがカウリのシルフ達と話したいんだって、彼女達をちょっとだけ借りても良い?」
「お前のシルフ? ラピスの使いのシルフじゃ無くて?」
「えっと、姿を見せてくれる」
小さな声でそう言うと、ニコスのシルフの一番小さい子が現れた。
『彼女達とお話しお話し』
「ああ、良いよ。どうぞ好きなだけお喋りしてくれ」
現れたニコスのシルフに笑いかけたカウリは、またノートに書かれた内容を読み始めた。
今現れたニコスのシルフは、三人の中では一番小さな子で普通のシルフよりも少し大きい程度だ。
それは、知らない人が見たら、少し大きなシルフだな。程度にしか思わない大きさなのだ。
並んだカウリのシルフ達とニコスのシルフは、いきなり物凄い早さでレイには分からない言葉で話し始めた。
彼女達の真剣な様子に、邪魔しないようにレイは少し離れて話をしているシルフ達を眺めていた。
しかし、手持ち無沙汰になってしまった彼は、何となく部屋を見渡す。
最初は何もなかったカウリの部屋も、本棚にはいつの間にかレイの部屋よりも本がぎっしりと並び、書類の束も、幾つも重なって棚に置かれていた。
今カウリが勉強しているのは、レイの部屋にもあるようなお茶を飲んだりもする大きな楕円形の机だが、彼の部屋には、壁際にもう一つ大きな四角い机が置かれていた。椅子は一台だけで、机の上にはインク壺やペンが何本も立てられたペン立てが置いてあった。平たい書類を入れる箱も重なっていくつも置かれていた。レイの部屋にあるのとは少し形は違うが、大小の三角文鎮も置かれている。その机の前の壁にも、ぎっしりと本や書類が置かれていた。
要するに、雑然とした、そのまま事務所にあるような机だ。
「長年、そんな机で仕事してたからな。そっちの方が落ち着くんだよ」
机を眺めるレイに気づいたカウリの言葉に、レイは振り返った。
「凄いね。何だか僕の部屋と全然違うや」
本棚に置かれている本も、政治経済の本が中心で、適当に一冊取り出して開いてみたが、レイには何が書いてあるのかすらさっぱり分からなかった。
「ギルドの設立当初から現在に至るまでの役割の変化について」
表紙に書かれた文字を読み、レイはため息を吐いて本棚に戻した。
「為替取引について。外交の歴史。口座の設立とその存在意義。戦術論」
並んだ背表紙を順番に読んで、レイは更に大きなため息を吐いた。
「凄いカウリ、これ全部読んだの?」
「机の前の棚は、俺が自分で買った本だな。そっちはもう何度も読んでる。こっちの大きい方の本棚に入ってるのは、ほとんどマイリーとヴィゴ、それから殿下から頂いたものだよ。まださすがに全部は読めていない。勉強しながら必要な部分を拾い読みする程度かな」
しかし、レイは黙って首を振った。
「拾い読みしようと思ったら、そもそも何が書いてあるか分かっていないと出来ないよ」
「まあ、そりゃあそうだな。だって、お前の倍以上の歳食ってるんだから、それくらいは出来ないと恥ずかしいだろうが」
苦笑いしながら、カウリは肩を竦めている。
その時、ニコスのシルフがレイの肩に戻ってきた。
『終わったよ』
『彼女達は大喜び』
『彼の役に立てるって』
『彼女達は大喜び』
『私達も嬉しい』
『役に立てた?』
「うん、ありがとう。これだけの勉強を半年でなんて僕には絶対に無理だよ。凄いやカウリ。負けないように僕も頑張るね」
「おお、頑張れよ少年。そして、記憶力の無い俺に教えてくれ」
「それは僕にはどうにも出来ないからね。頑張って覚えてください」
いつものセリフのやりとりに、二人は同時に吹き出した。
「お話し、終わったみたいだから僕は部屋に戻るね。お邪魔しました。勉強頑張ってね」
「おう、もうちょっとしたら夕食だからな」
「うん、一緒に行こうね」
今日は、竜騎士達は、全員朝から城へ行ったまま戻ってきていない。
部屋から出る時に振り返ると、彼の前に並んだシルフ達が、何やら一生懸命彼に話しかけていたのだった。
「えっと、結局、彼女達に何を教えてあげたの?」
部屋に戻ったレイは、ベッドに座ってニコスのシルフに話しかけた。
『記憶の補助のやり方と』
『決めた主人に声を届けるやりかた』
『これで彼女達は少し賢くなった』
『いつかは我らの系統に入れるだろう』
満足そうに話す彼女達を見て、レイは驚いた。
「え、待って。精霊の系統って、生まれた時から変わらないでしょう?」
精霊魔法の系統立てた勉強をした今となっては、その言葉の不自然さは聞き逃せなかった。
『知識の精霊には全ての精霊がなる事が出来る』
『知識の系統は全ての枝葉と同一である』
「えっと、つまりシルフだけじゃなく、ウィンディーネやノーム、サラマンダーにも、知識の精霊になれる機会があるって事?」
『その通り』
『ただしその道は簡単では無い』
『まず本気で勉学に励む主人が必要』
『我らはその主人と共に成長する』
それを聞いて呆気にとられたレイは、頭を抱えてベッドに倒れた。
「待って今、僕……聞いちゃいけない事を聞いた気がする」
『誰かに話す?』
不安げなニコスのシルフが、レイの目の前に飛んで来る。
「言わないよ。そもそも、貴女達の事なんて、ここではガンディぐらいしか知らないんだもん」
その言葉に、彼女達は揃って安心したように笑った。
『我らは昔はもっと大勢いた』
『だけど皆精霊界に帰ってしまった』
『主人を失い次の主人に出会えないまま』
『寂しくて悲しくていられなかった』
『我らは長命な竜人族を主人と定めた為に』
『代々の主人と共に長い年月を過ごして来た』
『人間の主人は初めて』
その言葉に、レイは思わず息を飲んだ。
「待って、いつか僕が死んだら……貴方達はどうなるの?」
人間である自分は、確実に百年後には生きていないだろう。精霊達にとっては、恐らく束の間の夢のような時間だろうけれど。
『ニコスの元に戻るわ』
『貴方の命尽きるまで』
『我らが共に生きる』
『彼と約束した』
『古竜の主である貴方を守ると』
彼女達の言葉に、レイは涙を抑えられなかった。
「ニコス、ありがとう……」
枕を抱えて、レイはニコスの想いが嬉しくて泣いた。
そして、確実に大好きな人達を置いていくであろう人間の寿命が悲しくて泣いた。
『泣くでない。其方はまだ若いではないか』
目の前に現れたブルーのシルフに、レイは顔を上げてそっとキスを贈った。
「大好きだよ、ブルー。約束する。この命尽きる最後の時まで、ずっと一緒だって」
『ああ、約束しよう。常に共にあると』
厳かなブルーの誓いの言葉に、レイは何度も頷き、泣きながら笑った。
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