見えない傷と出来る事

 翌日、いつものようにシルフ達に起こされたレイは、少し眠い目を擦りながらもなんとかベッドから起き上がった。

『おはよう、今日は雨が降るぞ。訓練所へ行くなら馬車で行きなさい』

 膝の上に現れたブルーのシルフに、俯き加減で大きな欠伸をしていたレイは顔を上げた。

「おはようブルー。そっか、今日は雨なんだね。じゃあ馬車を出してもらうようにお願いしておくよ。今日はディーディーも、神官様と一緒に馬車で来るって言っていたから濡れる心配はしなくて良いね」

 大きな伸びをしていたらもう一度欠伸が出てしまい、涙が出た目を袖で擦った。



 丁度その時、ノックの音がしてラスティが部屋に入って来た。手にはいつもの白服を持っている。

「おはようございます。朝練に行かれるのなら、そろそろ起きてください」

「あおはようございます。はい、それじゃあ顔を洗ってきます」

 顔を上げたレイは、出来るだけ笑顔でそう答えて急いで洗面所に向かった。



 昨夜も、遅くまで星を見ておられたと見張りの兵士達から報告を聞いている。

 エケドラに到着したテシオス達のことはラスティも報告を聞いて知っていたので、レイルズがまた眠れていないのではないかと密かに心配していたのだ。

「予想通り、どうやら昨夜はあまりお休みになれなかったようだな」

 小さく呟いたラスティは、洗面所を振り返って小さなため息を一つ吐いて、無言でベッドのシーツをはがした。



 白服に着替えたレイが廊下に出ると、そこにはルークとカウリ、若竜三人組が揃って待っていてくれた。

「おはようございます!」

 いつものように元気な声で挨拶をすると、皆もいつものように笑って挨拶を返してくれた。

「おはよう。今日はヴィゴとマイリーも来るって言っていたから、トンファーで手合わせしてもらえよな」

 からかうようなルークの声に、レイは悲鳴をあげてロベリオの背後に隠れた。

 いつも通りの彼を見て、皆も密かに安心していた。



 マイリーが朝練に出て来てくれた日には、いつもトンファーの相手をしてもらうのだが、今のところ連敗続きで毎回叩きのめされている。

 ヴィゴとも、棒や木剣で相手をしてもらっているが、当然こちらも今のところ連敗続きだ。

 それどころか素手での組み合いでも、まだ今のところ竜騎士隊の誰にもレイは一度も勝てた事がない。

「でも、最初は全く相手にならなかったけど、最近はヴィゴも正面から相手をしてくれるようになったもんね」

 柔軟体操をしながら、壁に掛かっている金剛棒を見ながら思わず呟く。

 自分がまだまだ未熟なのは分かっているが、ここへ来て一年が経って、体力的にも技術的にもそれなりに成長出来ただろう。少しは頑張ったと胸を張っても良いだろうとも思っている。




 ルークと背中合わせになって伸ばした腕を引っ張り合っていたら、ヴィゴとマイリーが訓練所に現れた。

「おはようございます!」

 レイの元気な声に、顔を上げた二人も笑ってくれた。



 まず、ルークに棒術で手合わせをしてもらった。

 いつものように何度も打ち込んでは返されて、それでも諦めずに何度も打ちにいった。しかし、いつもならあっと言う間に夢中になれる筈なのに、何故か今日は集中しきれずにいた。

 何度目かの手合わせをしていて、左腕で力を込めて棒を握った瞬間、昨夜の護衛の冒険者が言っていた言葉が、不意に頭の中に蘇った。



『一番の重症はバルド様です』

『左腕は恐らくもう使い物にならならぬでしょう』……と。



 その瞬間、握っていた手の力が緩み、あっと思った時には棒を弾かれていた。勢い余って、そのまま後ろに吹っ飛ばされる。

 ルークがそれを見て驚いたように棒を引き、慌てて、床に仰向けに倒れたままのレイに駆け寄った。

「おい、大丈夫か?」

 周りの者達も、その声に手を止めて二人を見た。

「ご、ごめんなさい。大丈夫です……」

 手を引かれて起き上がったレイは、しかし座り込んだままそう言ったきり黙ってしまった。

 俯いたレイの綺麗な翠の両目から、突然あふれて零れ落ちた涙が胸元を濡らしていた。



 レイは自分が何故泣いているのか、その自分の突然の涙の意味が分からず、無言でパニックになっていた。



 大きく息を吸って、涙が止まらない目を両手で覆った。

 レイには、動かなくなる程の腕の怪我がどれ程の痛みを伴うものなのか分からない。

 また、狼の爪にやられたというテシオスの左目もそうだ。外傷から失明したという事は、眼球そのものを傷つけられたという事になるのだろう。

 その痛みや、怪我をした時の衝撃がどれほどのものなのかも、レイには想像すらつかなかった。



 声も無く、座り込んだまま涙を流す彼を見て、ルークとカウリが黙ってレイの両腕を抱えて壁際まで下がらせてくれた。

 タドラが水で絞った布を持って来てくれたので、受け取ったレイは無言でその布に顔を埋めた。

 頭の中がぐちゃぐちゃで冷静に物事を考えられない。

 身体の中で暴れまわる、自分でもよく分からない感情を持て余して、レイはまた無言で涙を流した。



 誰も、何故こんな所で泣くんだとは聞かない。黙って、レイの気がすむまで泣かせてくれた。




 しばらくしてようやく涙が止まった。

 しかしレイは、今度は恥ずかしくて顔を上げられなかった。

 ここには竜騎士隊の人達だけで無く、竜騎士隊の本部勤務の第二部隊や第四部隊の一般の兵士達だって大勢いるのだ。



 常に堂々としているように。一人の恥は、竜騎士全ての恥になると思え。



 マイリーから言われた言葉を思い出す。

 情けなく子供のように泣いていた自分は、さぞかしみっともなく見えただろう。

 どうしたらいいのか分からなくなり、先程とは違う意味でパニックになっていると隣にルークが座る気配がした。反対側にはカウリが座る。

 二人は黙ってレイの背中や頭を何度も何度も撫でてくれた。

「気にするな。泣きたいなら、遠慮無く好きなだけ泣けばいい。ここにいるのは身内だけだから、何も気にする事はないぞ」

 優しいルークの言葉に、レイはまたあふれる涙を止められなかった。

 そうだ、ここはお城の中や精霊魔法訓練所とは違い、皆、ここにいるのは竜騎士隊を支えてくれる仲間達なんだ。

 不意にその事に気付いたレイは、小さく笑って泣いている顔を上げた。

 そのまま後ろ向きに倒れて転がり、高い天井を見上げる。



「生きているって……生きているって、それだけですごい事なんだね」

 小さく呟いて、大きく深呼吸した。

 そのまま勢いをつけて腹筋だけで起き上がる。

「心配かけてごめんなさい。ちょっと顔を洗って来ます」

 照れたように笑って立ち上がると、平然と顔を上げて歩き、廊下の反対側にある水場へ向かった。

 それを見た兵士達は頷き合って、何も言わずにそれぞれの訓練を再開した。




 顔を洗って戻って来た後は、マイリーにトンファーで手合わせをしてもらった。

 思い切り泣いたら、何だか頭の中が空っぽになったようだったが、意外な事に体は思った以上に動いた。

 おかげで、対等とまではいかないがいつもよりもかなり長く打ち合うことが出来たし、最終的には叩きのめされたが、少なくとも一方的では無くなっていた。



「驚いた。ちょっと見ないうちにまた腕を上げたな」

 汗を拭きながら、マイリーが感心したようにそう言ってくれた。

 頑張っている事を認めてもらえたようで、素直に嬉しかった。



 その後は、ヴィゴとルークの二人掛かりで木剣を教えてもらった。

 ルークと撃ち合いながら、それを見てヴィゴが動きや受け止め方を実際にやって見せてくれる。

 その隣では、カウリとマイリーが、トンファーで本気で打ち合う音がずっと響いていた。



 最後にヴィゴと一対一で木剣で手合わせをしてもらった。

 頑張ったが、やっぱり最後は叩きのめされてしまった。しかし、立ち上がれない程では無い。まだまだ手加減されているのが分かって悔しかった。

「ありがとうございました!」

 最後に向き合って深々と頭を下げる。

 少し離れた場所では、床に転がるカウリを、ハン先生が覗き込んでいた。



「マイリー、やり過ぎだよ」

 ルークの言葉に、トンファーを片付けたマイリーは笑って肩を竦めた。

「今年の新人は、二人共なかなかに骨があって良いぞ。こちらとしても、叩きのめし甲斐があるってものだ」

「そんなの、胸張って言わないでください! 新人苛め、はんたーい!」

 床に転がったまま叫ぶカウリに、訓練所は笑いに包まれたのだった。

「確かにそうだよね。新人苛めはんたーい!」

 レイも笑ってそう叫び、床に転がるカウリの隣に並んで転がった。




 一旦部屋に戻り、軽く湯を使っていつもの竜騎士見習いの服に着替える。

 ラスティも、特に何も言わずに黙って世話を焼いてくれた。



「あのね……」

 着替えが終わり、剣帯を身につけながらレイは重い口を開いた。

「如何なさいましたか?」

 優しい声でそう言い、少ししゃがんで俯くレイを覗き込むようにしてくれた。

「僕、何か……してあげられないかな?」

 また泣きそうになっているレイを見て、ラスティは膝をついてレイの顔をそっと両の手で挟んだ。

「よろしいですか、レイルズ様。よく聞いてください。貴方がお優しいお方である事は分かります。ですが、彼らの事で貴方がお心を痛めるのは違いますよ」

「心配しちゃ駄目なの?」

 驚いてラスティを見るレイを、彼は正面から見つめた。

「レイルズ様が今すべき事は、何があろうとも自力でエケドラ迄辿り着いた彼らの健闘を讃え、怪我が癒えるように願ってあげる事です。レイルズ様は、彼らが旅立つ時に贈り物をして、彼らの心に支えを作りました。それ以上何かをしようとする事は、彼らの苦労を軽んじてしまう事でもありますよ」



 思ってもみなかったラスティのその言葉に、レイは驚きの表情で彼を見ている。



 妙に幼く見えるその顔にラスティは笑って、押さえていた両の頬を軽く叩いた。

「彼らは、己に課せられた贖罪しょくざいの旅を見事に終えたのです。どうか、お心を痛めませぬように。彼らの健闘を讃え、怪我が一日も早く癒えるように精霊王にお祈り致しましょう」

「そうだね。二人共、頑張ったんだよね」

 笑顔になるレイを見て、ラスティも笑顔になった。

「さあ、少し休まれたら食事に行きますよ」

「うん、もう一度顔を洗ってくるね」

 今度の笑顔は、先程までの無理をしているような笑顔では無く、いつもの弾けるような笑顔だった。

 洗面所へ走って行くレイの後ろ姿を見送り、立ち上がったラスティは大きなため息を吐いた。

「良かった。まだ、私如きの言葉でも、レイルズ様を元気づけられましたね」



『よくやってくれた。感謝するぞ』

 不意に目の前に現れた白い影に、ラスティは驚き目を見張った。

「もしや、ラピス様……ですか?」

『如何にも。昨夜からレイはずいぶんと彼らの事で心を痛めて気鬱になっておった。なんと言って慰めようかと思っていたが、其方は本当に良くやってくれたな。感謝する』

「おそれ多い。私はただ、レイルズ様が必要以上にご自分で何もかもなさろうとするのを止めただけです。レイルズ様は確かに本当にお優しいお方ですが、その優しさを向ける先を間違えてはいけませんからね。過度な優しさは、時として刃よりも恐ろしい、我が身を傷つける武器となります。扱い方を間違ってはなりません」

『確かにその通りだな。成る程、一つ勉強になった』

 感心したようなブルーの言葉にラスティは小さく笑った。

「まあ、貴方様には到底敵いませんが、少なくともレイルズ様よりは長く生きておりますからね。これも人生の先輩からの助言ですよ」



「お待たせ。ラスティ、早く行こう。僕お腹が空きました!」

 その時、レイが洗面所から出て来た。

 ラスティの前にいたブルーのシルフが、レイの右肩に現れる。

『では行って来なさい。廊下で皆が待っておるぞ』

 それを聞いたレイは、慌ててラスティと一緒に廊下へ走り出たのだった。

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