彼女の処置と語らい

 出発直後に一気に高度を上げたブルーは、完全に地上が遥か遠くに見える所を飛び続け、あっと言う間に蒼の森の上空へ到着した。

 それは、ガンディに大爺の位置を知らせない為であった。

 しかし、そのガンディは、ブルーの背に乗った直後から目を閉じてしっかりとレイの背中にしがみついているだけで、周りを一切見ようとしなかった。

 それは、幻獣がいかに人との接触を嫌うか。万一人と関わるような事態になれば、どれだけ幻獣側が大きな被害を被るかを知っているからこその行動だった。



 担架に乗せられて固定しているニーカは、落ち着いているようで、顔色も少しだが戻ってきたように見える。ガンディによると、今はよく眠っているらしい。



 安心するとお腹が空いてきたレイは、ブルーの背の上で、ロベリオ達が持たせてくれた焼きたてパンをこっそり取り出して齧っていた。

「何じゃ、良い匂いがすると思ったら。食事抜きは我慢ならんか?」

 からかうような背中から聞こえた呟きに、レイは笑って一切れ後ろに差し出した。

「だって、せっかく持たせてくれたんだもん。美味しいよ。ガンディも食べる?」

 しかし、笑い声が聞こえただけで反応が無い。

 振り返ると目を閉じたガンディの顔が見えて、レイは彼の気遣いに感謝した。

「其方は育ち盛りだからな、気にせずしっかり食べなさい」

 優しくそう言われて、レイは小さく返事をして残りのパンを口に入れた。

 カナエ草のお茶もしっかりと飲み、水筒を鞄に戻す。

 見下ろせば、眼下はすっかり緑一面の世界になっていた。



「そろそろかな?」

 森の緑の色が、明らかに変わっている。

 ひときわ深い緑の盛り上がった場所が、ブルーを迎え入れるように開くのを見て、レイはしっかりと手綱を握った。



 翼を少し畳んだままブルーは大爺の元へ降りていった。



 ブルーが草地に降り立つと、レイは後ろを振り返ってガンディの腕を叩いた。

「到着したよ。ニーカを下ろすから手伝ってくれる」

 その声に目を開いたガンディは、自分を取り囲む深い緑の木々に驚いて言葉も無かった。

「何と古き森だ。強き力に満ちておる……」

 呆然と呟いた彼は、大きく深呼吸をして森の空気をしっかりと吸い込んだ。

「ここが何処かは問いませぬぞ」

 恐らく予想はついているのだろうが、彼はそう言って笑うとそっと立ち上がった。

 レイも駆け寄り、二人でニーカの担架を固定していた金具を順番に外した。

「お願い、そっと下ろしてね」

 現れたシルフ達にお願いして彼女を担架ごと下ろしてもらい、レイも後を追うようにブルーの背中から飛び降りた。

 ガンディもそれに続いて飛び降りて、二人揃ってシルフに助けられて地面に降り立った。



「これは、オークの木か? 何と巨大な……まるで壁のようだ……」

 そう呟いてそっと近寄ろうとした時、幹の一部がゆっくりと動いて彼の目の前で止まった。

 その幹の一部が動いて目が現れ、巨大な大爺の目が彼を見つめた。



 ガンディの動きが止まる。



「これは……誠に、エントの大老……」

 感極まったようにそう呟いたガンディは、深々と頭を下げてその場に跪き、両手を握って額に当てた。

「森の太古の守護者たる、エントの大老にご挨拶申し上げる。我は、ガンディ・ヴァイゼナール。竜人の末裔に連なる者なり」

 大爺の幹は、彼を観察するかの様にしばらく周りを動いてから、深々と頭を下げるガンディの前に戻った。

『賢者と愚者の名を持つ者よ。良い良い、楽にされよ』

 大爺の、太く重い声が静かな草地に響く。

『其方とは一度ゆっくり話をしたいと思うておった。だが今はその時では無い。先にすべき事がある』

 そう言って、大爺の幹が地面に横たえられたニーカの上に来る。

『彼女をそこから出して、地面に直接寝かせてくれ』

 レイは言われた通りにニーカに被せていた毛布を取り、彼女をそっと抱き上げて隣の草地にそっと横たえさせた。

 ガンディが、担架と毛布を動かして端に置くのが見えた。



 二人と二頭の竜が黙って見守る中、古代種のノームが何人も現れた。そして、そっと彼女を抱き上げたのだ。


『何と痛ましき事だ』

『これは彼女に罪は無い』

『早々に浄化せねばならぬ』


 口々にそう言って、彼女の額や頬を優しく撫でた。

 もう一人現れた一際大きなノームが、手に持った握り拳ほどのミスリルの鉱石を彼女のお腹の上、丁度臍の辺りに置いた。


『浄化にはしばしのお時間を頂きます』

『どうかこのまま待たれませ』


 そう言うと、いきなり彼女の下の地面が砂の様になって、ノームごと、彼女をあっと言う間に飲み込んでしまったのだ。

「ええ、待ってよ! 彼女は人間なんだから土の中では息が出来ないよ!」

 慌てた様に叫んで、彼女の消えた地面を叩くが、もう地面は元に戻っていて硬い手応えを返すだけだった。

『大事無い。そう慌てるな。今はノーム達に任せよ』

 大爺の言葉に、レイは不安げに振り返った。

 目の前に来た大爺の幹が、頷く様に何度も上下するのを見て、レイは小さく頷いた。

「分かりました。ノーム達を信じて待ちます」

『良い子じゃ』

 もう一度、満足そうに上下に動いてそう言うと、大爺の幹は呆然と彼女の消えた地面を見つめていたクロサイトの前に伸びて行った。



 黙ってクロサイトを見つめる。

「大爺、改めて紹介しよう。ニーカの竜だ。守護石はロードクロサイト。彼女はスマイリーと言う名を彼に贈ったぞ」

 ブルーの言葉に顔を上げたクロサイトは、改めて目の前で自分を見つめるオークの幹に向かって頭を下げ、そっとその鼻先を地面に付けた。

「初めてお目にかかります。どうぞクロサイトとお呼びください、エントの大老よ。どうか、どうか我が主をお助けください」

 祈る様な小さな声でそう言ったクロサイトは、目を閉じて静かに喉を鳴らし始めた。

『おうおう、良い子じゃ。良い子じゃ。しかし驚きじゃな。これ程に幼き竜が既に目覚め、主を得たとはな……』

 差し出された小さな頭を、大爺の幹が労わる様に優しく撫でる。

『其方は己が定めを知っておるのだな』

「はい、この国へ来て、多くの竜達から多くのことを学びました……私は、己が定めに従います」

 小さな声で、しかしはっきりとそう言ったクロサイトに、大爺は満足気に目を細めた。

『そうか、ならば良い。己が幼き主を大切にな』

「はい。何よりも大切な、私の主なんです」

 目を細めて愛おしくて堪らないと言わんばかりのその口調に、横で聞いていたレイも自然と笑顔になった。



 改めて座り直したクロサイトの尻尾を、近付いた大爺の幹がじっと見つめる。

『ほう、もう尾の棘が生え出したか。しかし今はまだ早い。封じておくとしよう』

 そう呟くと、クロサイトの尻尾をその幹が軽く叩いた。

『出る必要は無い。真に必要な時が来るまで静かに眠るがいい』

 大爺がそう言った直後、クロサイトは突然大きく震えて尻尾を大きく振った。それを見たレイとガンディが、慌てて払われない様に後ろに飛んで下がる。

「ああ、ごめんなさい! つい払っちゃった。怪我は無い?」

 慌ててそう叫ぶクロサイトに、二人とも笑って手を振った。

「大丈夫だよ、気にしないで。だけど一体どうしたの?」

 戻ってきたレイがクロサイトの尻尾を覗き込むが、特に変わったところは見当たらない様に思う。若竜の証の一つである尻尾の棘が出始めたのだと言う箇所は、少し膨らんだままだ。

「えっと、大爺。今、何をしたの?」

 振り返って大爺にそう尋ねたが、大爺の幹は目を閉じて左右に振った。

『大したことでは無い。今はまだ見せるべき時では無いからな。無用な諍いは避けるべきだ。せめて後、数十年……』

 そう言って再び先ほどニーカが消えた場所に戻った。

『そろそろ、処置の準備が出来た様だな』

 大爺の言葉の直後、地面が再び砂の様になって、並んでニーカを抱えたノーム達が現れた。


『エントの大老よ』

『彼女の背中に闇の気配が打ち込まれております』

『出来うる限りの浄化処置を施しました』

『後はどうかお願いいたします』


 ノーム達は口々にそう言うと、抱いていた彼女をそっと地面に降ろした。



『白の塔の長よ。彼女の背中の痣を見せなさい』

 一瞬目を見張ったガンディだったが、頷くとレイを見た。

「其方は、儂が良いと言うまで目を閉じていろ」

 要するに、彼女の服を脱がせるからお前は見るな、という事だ。

 頷いたレイは、言われた通りに目を閉じて、更に後ろを向いた。

「すまんな。しばらくそうしておってくれ」

 笑ってそう言ったガンディは、手早く彼女の上着のボタンを外し、見習い巫女の服と下着を脱がせた。上半身は剥き出しになり、下に履いている膝まである膨らんだパンツだけになった。

『うつ伏せにして寝かせるが良い』

 そっと抱き上げて、言われた通りにうつ伏せにしてやる。息ができる様に、顔は横を向かせてやり、近付いてきた幹を見つめた。

「これでよろしいですかな?」

『充分じゃ。其方は離れておれ』

 頷いて、後ろを向いているレイの横まで下がる。



『彼の国の者共は、うら若き娘御になんという非道な事をするのだ』

 そっと背中に近付いて、以前よりも更に大きくなった真っ黒な痣を見つめた。

『我が守りし聖なるこの地にて、闇の楔は意味を成さぬ。消えるが良い。そして、打ち込んだ楔は己に返ると思い知れ!』

 一際低い声で大爺がそう言って幹が痣を叩いた途端、うつ伏せになっていたニーカがまるで打ち上げられた魚の様に苦しげに何度も跳ねた。そして小さな口から堪えきれない悲鳴が漏れる。

 その声に驚いて振り返りそうになったレイを、ガンディが両の手で捕まえて後ろを向かせる。

「見てはならぬ!」

「はい!」

 もう一度目を閉じて両手を握って額に当てる。そのままレイはその場で跪き精霊王への祈りを呟き始めた。



 丸くなってずっと黙って見ていたブルーが、静かに癒しの歌を歌い始めた。顔を上げたクロサイトがそれに続く。

 今では、ファンラーゼンの竜達は皆、ブルーに教えてもらって癒しの歌を歌うことが出来る。

 普段であれば、少しだけ痛みを和らげたり、癒しの術の効きが良くなったりする程度だが、強い力を持つこの森の中で歌えば、その効果は何倍にもなった。

 地面にしがみつく様にしてもがいていたニーカの様子が明らかに変わった。

 安心したかの様に一つ大きく深呼吸をすると、まるで胎児の様にその場で横向きになって丸くなったのだ。

 その背中はあの真っ黒な痣が消えていて、傷の一つもなく綺麗な肌を見せていた。

 繰り返し歌われる癒しの歌をガンディとレイは、言葉も無く聞き惚れていたのだった。



『ご苦労であった。もう良いぞ。服を戻してやりなさい』

 大爺の言葉に、ガンディが持っていた服をそっと彼女に着せてやる。その際に、背中の痣が消えているのを確認して顔を上げた。

「やはりあの痣は何か良くないものだったのですね。彼女は生まれつきだと言うておりましたが、明らかにそう言った痣とは違っていた」

『今はこれで良い。しかし、彼女自身が持つ己が血は変える事は出来ぬ。確定された未来は未だ何も見えぬ。まずは彼女と竜の成長を待つが良い』

 何か言いたげだったガンディは、その言葉に頷いて、それっきり何も言わずに黙ってニーカを抱き上げた。

 もう、彼女はすっかり顔色も戻り、穏やかに眠っている。

『連れて帰っても、数日は、痺れや背中の痛みが残る筈じゃ。安静にしておればじきに良くなる。無理は禁物じゃ』

「かしこまりました。それでは彼女の容体が落ち着くまで白の塔に入院させましょう。特に処置の必要はございませぬか?」

『無い。強いて言えば、滋養のある食べ物と静かに眠れる環境じゃな。とにかく眠らせてやれ』

「では、その様に計らいます」

 大きく頷くと、避けてあった担架に駆け寄りそっと彼女をそこに寝かせてやる。毛布をかけてから、彼女を固定するためのベルトを手早く締めるのを見て、レイも慌てて手伝った。



「大爺、彼女を救ってくれて心より感謝する。疲れは無いか?」

 ブルーの言葉に大爺の幹は小さく笑って、まるで首を振る様に幹を左右に振った。

『大事無い。少し眠ればすぐに良くなる程度だ。それよりもノーム達を労ってやらねばな。実に上手く浄化してくれたわ』

「この地のノームは、我の知る限りにおいても最強だからな。ならば後程、我からも労っておこう」

『おお、それは彼らも喜ぶであろう』

 目を細めた大爺の幹は、ブルーと頷き合って、それからクロサイトの所へ来た。

『幼き竜の子よ。よく聞きなさい。其方の翼は未だ小さく弱い。今はオルダムの地にて大きく強く育つが良い。いずれ来るであろう、その来たるべき時に備えて大きな翼を持てる様になれ。良いな。焦りは禁物ぞ』

「はい、その教えを肝に命じます。ありがとうございます、エントの大老よ。我が主をお助けくださった事、生涯忘れません。我が主の名にかけて誓います。決してこの地に災いをもたらさぬと」

 クロサイトは改まってそう言うと、再び頭を下げて、その鼻先を地面に押し付ける様にした。



 沈黙がその場を満たした。



『確かに聞いた。では行くが良い。それぞれに己の道を進みなさい。道に迷いし時にはここを訪ねよ。いつなりと力になろうぞ』

 愛おしげに大爺がそう言い、ゆっくりと幹が戻っていった。

 幹が巨大な木の一部に戻ると、もうそこにあるのは、壁と見紛うばかりの、オークの巨木がそびえ立っているだけだった。



「戻るとしよう」

 ブルーの言葉に、レイとガンディは黙ってニーカの担架をその背にシルフの助けを得て運び上げ、手早く固定してそれぞれに座った。

 ゆっくりと上昇するブルーにクロサイトが続く。



 二頭の竜が上空へ上がると、開いていた木々が蠢き、ゆっくりとその隙間を埋めてしまった。

 黙って見下ろしていたガンディは、小さく笑ってレイの背後で再びそっと目を閉じたのだった。

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