高熱と闇の気配
「おはようございます」
その朝、いつものように夜明けと共に起き出したクラウディアは、起こしてくれた仲良しのシルフ達に挨拶をしてから手早く身支度を整えた。
それから、いつもの朝のお勤めの為に神殿にある礼拝堂に向かおうと、扉を開けて部屋を出た。
彼女が使っている部屋は、一番端の部屋で、長い廊下の先には下へ降りる階段がある。同じ側には部屋が並んでいて、それぞれ巫女達が小さいながらも個室を使っている。そして廊下を挟んだ向かいにも部屋が並んでいて、そちら側は見習い巫女達が数人ごとに共同で部屋を使っている。
廊下に出た彼女は、扉が開いたままの妙に慌ただしい斜め向かいの部屋を覗いた。そこは、ニーカが年上の見習い巫女二人と一緒に使っている部屋なのだ。
「あ、おはようございます。クラウディア」
年配の僧侶や巫女の資格を持った者には、様を付けて呼ぶのが神殿の慣習だが、クラウディアはどこへ行ってもほぼ年齢が一番下に近い為、本人の希望もあり、見習い達からも様を付けずに呼ばれている。
「おはようございます。ねえ、どうかしたの? 何だか様子が変だけど?」
すると、同室の見習い巫女のティンキーが泣きそうな顔で彼女の手に縋った。
「さっき、ニーカが酷い熱を出して倒れたんです。朝、起きた時真っ赤な顔をしていて明らかに具合が悪そうだったのに、大丈夫だって言って無理にベッドから起き上がった途端に、ぱったり倒れてしまって……」
「ニーカ!」
それを聞いたクラウディアは、慌てて部屋に飛び込んだ。
狭い部屋に置かれた粗末なベッドには、意識の無いニーカが寝かされていて、年配の僧侶が二人心配そうに彼女を覗き込んでいた。
「施療院へ運びましょう。これは様子がおかしいわ」
「そうですね、担架を持ってきます」
その言葉に、同室の見習い巫女達が慌てたように返事をして担架を取りに走って行った。この時ばかりは廊下を走っても誰もそれを咎めない。
「ニーカ、一体どうしたの?」
そっと手を握ってやる。握った小さな手は、まるで火がついたように熱い。
額も同じで、真っ赤な顔も触れないぐらいに熱くなっている。
「氷をもらってきました。少しでも冷やしてあげないと」
隣の部屋の見習い巫女が冷たい氷水で絞った布を額に当てるのを見て、クラウディアは立ち上がった。
「ウィンディーネ。お願い、今の彼女の状態を教えて。何故こんなに熱が高いの?」
クラウディアの言葉に、二人の僧侶が立ち上がって場所を譲った。
「お願いします。精霊に聞けば、何か分かるかも知れませんね」
小さな声でそう言われ、クラウディアは小さく頷いた。
何人ものウィンディーネ達が現れたが、彼女達は皆、困ったような顔をしてこっちを見上げている。
「ねえ、教えてちょうだい。彼女の熱の原因は何?」
しかし、ウィンディーネ達は皆揃って首を振った。
『彼女の中で闇が暴れている』
『私達には止められない』
『熱くて熱くてたまらない』
『闇が彼女を焼こうとしている』
『だけど止められないの』
『怖いよ』
『怖いよ』
それを聞いた途端、クラウディアの顔から血の気が引いた。
「シルフ! 緊急事態よ。今すぐガンディ様に連絡をして!」
空中に向かって叫ぶ彼女の声に、その場にいた全員が驚きに目を見開いた。
「クラウディア、一体何事ですか?」
「何か、重篤な病なの?」
なんと言って答えようか戸惑っていると、目の前にシルフが現れた。
『おはようどうした』
『一体何事だ?』
「ガンディ様! ニーカが朝から高熱を出して倒れて意識が無いんです。ウィンディーネ達に聞いたら……意味不明の事を言われてしまって……」
不意に込み上げる不安に、涙がこぼれそうになって、とっさに袖で拭った。
すると、先程のウィンディーネ達が現れて、シルフに口々にニーカの症状を伝え始めた。これは、通常高位の精霊使いであるガンディが他の場所にいる医師達に、症状を伝える際などに使う方法だ。
誰に教えられた訳でも無いのに、クラウディアは咄嗟にそれだけの上位の伝言の技を使いこなしていたのだ。
『分かった』
『すぐに行くので施療院へ運んでやってくれ』
『出来るだけ安静にさせるように』
『特に治療は必要無い』
『氷水で頭を冷やしてやってくれればそれで良い』
『それから首元の太い血管を冷やしてくれ』
「畏まりました。忙しい中申し訳ありません。お願いします。ニーカをお助けください」
並んで話すシルフに深々と頭を下げると、廊下で待っていた担架を持った見習い達に、急いで指示を出した。
そのまま彼女も施療院へ着いて行き、意識の戻らない彼女の側で、ずっと氷水で彼女の頭や首筋などを冷やし続けた。
「待たせたな。どうじゃ様子は」
ノックも無く、個室に飛び込んできたガンディは、ニーカを見るなり眉を寄せた。
「何だ……これは?」
「どうなさったのですか?」
不安げなクラウディアを、ガンディは見下ろす。
「其方には見えぬか? 彼女の周りを、何やら黒い影のようなものが取り巻いておるのを」
「もしや、さっきから何だか、目の前が暗く感じるそれでしょうか?」
どうやら、クラウディアの目には、ガンディ程はっきりと見えていないようだが、彼の目にはニーカを取り巻く怪異が手に取るように見えていた。
クラウディアに言ったように、ニーカの周りをまるで黒い雲のようなものが溢れ出て取り巻いているのだ。それは生きているかのように蠢き、時折伸ばした触手をクラウディアに向ける。
しかし、彼女を守る光の精霊達に弾かれて、黒い触手は彼女には触れられないでいるのだ。
「何か、良くないものに憑かれたようだな。ウィスプよ、取り除けるか?」
しかし、現れたガンディの友である大きな光の精霊は、困ったように首を振った。
『我らにはこれを取り除く事は出来ない』
『これは彼女が持つ黒き定めの印』
『刻まれたそれは楔のように彼女に深く打ち込まれている』
『我らにはこれを取り除く事は出来ない』
『これが出来るのはこの世でただ一人だけ』
『それはエントの大老のみ』
「エントの大老だと……?」
思わず聞き返し、直後に怒りのあまりガンディは真っ赤になった。
「それは伝説の人物であろうが。そのような絵空事を聞きたいのでは無い!」
ガンディの怒ったその言葉に、光の精霊は悲しそうに首を振った。
『絵空事では無い』
『古竜の主に頼むが良い』
『それしか彼女を救う術は無い』
隣で声も無く光の精霊の言葉を聞きながら、クラウディアは体が震えるのを止められなかった。
ニーカの病の根本の原因が何なのかは分からないが、今のニーカが、非常に危険な状態にあるのは確実だった。
その彼女を救えるのは、古竜の主、つまりレイなのだと言っているのだ。
「駄目よ。レイは今……出動された竜騎士の皆様と一緒に、国境の何処かの砦にいるわ。そんな勝手な事、頼めるわけが無い」
堪え切れない涙が、両頬を流れ落ちる。
しかし、ガンディは平然とシルフを呼び出した。
国境への出動が交戦状態にはならなかった事は、既に彼は知っていたのだ。
「シルフよ、ルークを呼び出してくれ」
頷いて消えるシルフを二人は無言で見送った。
クラウディアが、新しい氷を作って、布を絞ってニーカの額に乗せるのを、ガンディは黙って見ていた。
『ルークです』
『おはようございます』
『どうなさいました?』
「朝からすまぬ。レイルズはどうしておる? まだそちらにいるんだろう?」
『レイルズなら今朝オルダムへ戻りましたよ』
『今頃そっちに向かって飛んでいる最中ですね』
のんびりとした、ルークのその答えにガンディは頷いた。
「そうか。それならすまぬが、戻ったら彼を少し借りても良いか?」
急いでいるような彼の言葉に、ルークが驚いて顔を上げた。律儀にシルフがルークの仕草まで再現してくれる。
『何かあったんですか?』
「ニーカが、朝から高熱を出して意識が無いんじゃ。しかし、これがどうも普通の病では無いようでな。ウィスプ達が、古竜の主に頼めと言いおる」
『それは妙ですね』
『了解しました』
『戻ったら通常勤務に戻らせる予定でしたから』
『どうぞ彼とラピスに頼んでください』
「すまん、それではそうさせてもらう」
『何かあれば報告をお願いします』
「了解だ、後程まとめて報告しよう』
『了解ですニーカをよろしくお願いします』
敬礼していなくなるシルフ達を見送り、ガンディは改めてシルフを呼んだ。
「今度はレイルズを呼んでくれるか」
頷いて消えるシルフを、クラウディアも祈る思いで見つめていた。
砦を出発した当初は緊張していたレイだったが、街道よりも少し北側の森の上を飛んでいるため、見える景色はひたすら森と時折見える草原程度。はっきり言って退屈なのだ。
「ねえ、しりとりしよう!」
レイの言葉に、タドラとロベリオが笑って返事をして、結局全員でのんびりとしりとりをしながらゆっくりとオルダムへの空の旅を楽しんでいた。
「ウ……ウィンディーネ!」
「それはさっき言ったぞ」
冷たくカウリに言われて、レイは頭を抱えた。
レイの前のカウリは、先程から、う、る、の二つしか回してくれないのだ。絶対に態とである。
「もうやだカウリ!普通にやってよ!」
「負けを認めるなら勘弁してやる」
「意地悪!」
顔を覆って悲鳴をあげるレイを見て、ロベリオ達が揃って吹き出す。
「お子ちゃまなレイルズには、カウリは強敵過ぎたようだな」
笑いを堪えたヴィゴの言葉に、全員揃ってもう一度遠慮なく吹き出したのだった。
その後、のんびりと話をしながら道程の半分を過ぎた辺りで突然レイの目の前にシルフが現れた。
「あれ?どうしたの?」
レイの驚いたようなその声に、即座に全員が黙る。
『おはようガンディじゃよ』
「あ、おはようございます。今、オルダムへ向かって戻っているところです」
レイが笑顔でそう答える。
『後どれくらいで戻れる?』
一番前のヴィゴを見ると彼は頷いて手招きした。レイがシルフに頼むと、一人のシルフがヴィゴの前にも現れた。これで三人で会話が出来る。これは、複数人で同時に会話が出来る技で、高位の精霊使い同士でしか出来ない技だ。
「ヴィゴです。何かありましたか? 昼前には到着予定ですが」
「ならばそのままレイルズを借りたい』
『実はニーカが大変なんじゃ』
その後シルフの口から聞かされたニーカの容体に、皆言葉を失った。
ただ、ガンディはエントの大老の名は出さずに、ただ、古竜の主ならば何とか出来るとウィスプに言われたと伝えた。
「分かりました。僕に何が出来るかは分からないけど、ウィスプがそう言うのなら本当に僕にしか出来ない事があるんだね。急いで帰るので、それまでニーカをお願いします」
頷いて次々に消えるシルフを見送った。
「お願い。急いでブルー」
小さく呟いたその言葉は全員の耳に届き、五頭の竜は一気に加速してオルダム目指して飛んで行った。
「到着したら、陛下への報告だけは一緒に来い。それが終わったら第二部隊の制服に着替えて神殿の施療院へ行ってやりなさい。キルートを護衛に付けるから、彼と一緒に行くと良い」
ヴィゴに言われて、レイは真剣な顔で返事をした。
もう、オルダムの街は目の前まで迫っていた。
大歓声が沸き起こるオルダムの街の上空を、少し速度を落として飛び越え、いつもの城の中庭に降り立つ。
今回はブルーも一緒に降り立った。
「我はこのままここで待とう。レイはとにかく彼女のところへ行ってやれ」
「分かった。何かあったらシルフを飛ばすからね」
駆け寄ってくる第二部隊の兵士に一旦ブルーを任せて、レイは大急ぎでヴィゴ達と共に、そのまま城にいる皇王の元へ帰還の報告に向かった。
「それじゃあ行ってきます」
帰還の報告が終わって一旦本部へ戻ったレイは、知らせを聞いて待っていてくれたラスティが用意してくれていた第二部隊の一般兵の服に大急ぎで着替えて、キルートと共に急いでニーカの元へ向かった。
呼びもしないのに、ペンダントからは光の精霊達が飛び出して来て、彼の周りを一緒に飛びながら、時折不意に空へ上がって街の方角を気にしていた。
「どうしたの、お前達? 何かあるの?」
不安げなレイの言葉に、一人の光の精霊がレイの肩に座った。
『妙な闇の気配がする』
『行けばわかると思うけど』
『何だか変な感じ』
レイには全く普段と変わらないように思えるが、精霊達が言うのなら、本当に何かあるのだろう。
手綱を握りしめて、湧き上がる不安を押し殺し、レイはゼクスを急がせるのだった。
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