恋の大騒ぎ

「お疲れ様でした。とても良く予習出来ていましたね。素晴らしいですよ」

 天文学の教授である初老のアフマール教授は、疲れて机に突っ伏しているレイの背中を笑いながら叩いた。

「思ってた以上に難しいけど、少しでも出来たら嬉しいです」

「全くの予備知識無しでこれなら、十分優秀ですよ。一年程度では、正直言って基礎程度しか教えられないでしょうが、出来れば成人後も機会があれば是非勉強は続けて下さい。協力は惜しみませんので」

「はい、頑張ります」

 顔を上げたレイの笑顔に、アフマール教授も笑顔になった。



「お若い方は、天文学はどうしても難しい学問だと言う思い込みがあるようで、中々一から学ぼうと言う方は少ないのです。ですが、今やっているこれらは、暦を作る上でも非常に重要な学問です。農業をされていたとの事ですからご存知でしょうが、種蒔きの時期を決める際には、暦は非常に重要な意味を持ちますからね」

「そうですね。確かに、春分は種蒔きの準備を始める目安の一つでしたから」

「農業に携わる者には当たり前の春分や夏至、秋分などの各季節の区切りも、街で暮らす方にはあまり実感が無いようですね。祭事にも関わるので、神殿関係の方も当然ですが暦の勉強はなさいますよ」

「巫女様も?」

 驚くレイの質問にアフマール教授は笑って首を振った。

「天文学の計算式を使われるのは、祭事の日取りを決める専門の神官殿ですね。巫女様方は、その神官殿がお作りになった暦を元に、春分の日の祭事、夏至の祭事、と言った具合に、暦に沿ってお祈りやそれぞれの祭事を行いますよ」

「凄いや。ここへ来てから本当に知らない事ばかりで、すごく勉強になります」

 机の上を片付けていたレイは、本を閉じてまとめているアフマール教授を見た。

「アフマール教授は、星系信仰ってご存知ですか?」

 その言葉に、教授は驚いたように手を止めた。

「貴方のようなお若い方の口から、星系信仰の名が出るとは驚きですね。それを何処で?」

 もしかしたら、何か知っているかもしれないとの一縷の望みを胸に、レイは口を開いた。

「僕の亡くなった両親が信仰していたらしいんです。あの、何処の街だったかとかは分からないんですけど……」

 誤魔化すようにそれだけを言うと、教授は納得したように頷いた。

「それならばご両親は、海沿いのクレアか、センテアノスの街辺りのご出身だったのかも知れませんね。あるいは、外海の向こうにある群島国家の何処かの島かも知れませんね」

「その辺りでは、今でも星系信仰が盛んだって聞きました」

 目を輝かせるレイに、教授も大きく頷いた。

「私も若い頃、クレアとセンテアノスに一時期滞在して、その当時の星系信仰と天文学について比較した論文をいくつも書きましたよ。稚拙な文章で今となっては恥ずかしいのですが、城の図書館で閲覧出来ますので、機会があれば読んでみてください、まだ私が二十代になってすぐの頃ですよ。今調べれば、また違った論文が書けるでしょうね」

「是非、読んでみます」

「感想を聞きたいような、聞きたく無いような、複雑な気持ちですね」

 照れたように笑う教授に、レイも嬉しくなった。

 初老のアフマール教授のお若い頃は、どんな風だったんだろう。

 ちょっと考えて楽しくなるレイだった。



「ありがとうございました」

 手を上げて教室を後にする教授を立ち上がってお礼を言って見送り、レイは窓を閉めてから教室を後にした。

 明日は、精霊魔法訓練所はお休みの日だ。

 丁度廊下で会ったカウリと一緒に、出迎えの護衛のキルート達の待つラプトルを預けている厩舎のある庭へ出た。




「日が暮れてもまだまだ暑いね」

 竜騎士隊の本部への帰り道、あまりの暑さに首元のボタンを外しながらレイは嫌そうにそう呟いた。



 八の月に入ってすぐ、レイは暑いと言われるオルダムの夏の暑さを身を以て実感していたのだった。

 四方を小高い丘に囲まれた地形のオルダムは、守りの街としては確かに素晴らしい作りだが、どうしても夏場は熱気が篭り街の気温が上昇しがちなのだ。

 竜の鱗山から吹く夕刻の強い風がまだせめてもの救いだが、天気の良い日が続くと、街へ吹き付けるその風自体も温度が高くなりがちで、特に八の月の間は盆地特有の逃げ場のない熱気が街から逃げない為、日が暮れても暑い気温が続くのだ。

 去年の七の月の半ばに竜熱症を発症して運ばれて来たのだが、ほとんど室内で過ごしていたし、元気になってから過ごしたブルーの住む湖の横に建つ離宮は、元々王族の夏場の狩りの際に使われていた建物で、街や城よりも気温が低く過ごし易いのだ。

 その為、暑いと噂のオルダムの夏を始めて過ごすレイにとって、じっとりとしていて夜になってもほとんど下がらない気温には、本当に辟易していたのだった。



「夏場は、オルダムより蒼の森の方が良かったな。暑くても、ちょっと木陰へ入ればとても涼しかったもの」

「それは羨ましいですね。そう言えば、街中に敷き詰められているこの石畳も、気温を上げる原因の一つだと言われていますが、他にどうしようもありませんからね」

「どうして石畳が気温を上げるの?」

 不思議そうに地面を見るレイに、キルートは小さく笑った。

「一の郭と城の石畳に使われている石と、街で使われている石は少し違うんですよ。街中で使われている石は、名前までは知りませんが、比較的扱いやすく安価な石なんです。その為か、熱を持ち易いらしく、外気温が上がり直射日光を受けると、石自体が陽の光に温められて熱を持つんですよ。真夏の昼間に、オルダムの石畳を素手で触ると火傷する。などと言われる事さえある程です。まあ火傷は大袈裟でしょうが、そう言いたくなる程に熱くなるんですよ。そして、一旦上がった温度はそう簡単には下がらないので、結果として夜になっても暑いまま、なんて事になっている訳です」

「確かに城の方がまだましだな」

 苦笑いしたカウリも、キルートの言葉に何度も頷いている。

「暑いのが嫌なら、皆で離宮に泊まりに行こうぜ。明日は訓練所は休みだし、あいつらも休みだって……」

 笑ったカウリがそこまで言った途端に、悲鳴をあげたレイは、突然ラプトルを勢いよく走らせて逃げ出したのだ。

 城の外周に当たるこの道には、徒歩の一般人はいない為ラプトルを走らせても問題無いのだが、レイの突然の行動に反応して一緒に走り出したのは、彼の護衛のキルートだけだった。

「お待ちください。レイルズ様!」

 後を追って駆けていくキルートの後ろ姿を見送って、カウリは堪えきれずに吹き出した。

「ちょっと揶揄からかい過ぎたかなあ。だけど、これも経験だもんな」

 笑いながらそう呟くカウリを、護衛の者が呆れように見ている。

「何をなさったのか、お聞きしてもよろしいですか?」

「いやだって、あんまり反応が面白かったもんだからさ……」

 笑いを交えて話すその内容に、護衛の者は若干遠い目になった。

「まあ、若いうちでないと経験出来ないというご意見には賛同しますが……少々お気の毒ですね。レイルズ様はその、なんと言うか……非常に無垢な部分をお持ちでいらっしゃいます。そう言った揶揄いに対しては、どう流せば良いのかもご存知ないのでしょうね」

「まあ、これも良い経験さ。心配しなくても、女性の事で揶揄われて照れて真っ赤になるのなんて、今だけだよ。いやあ、若いって良いなあ」

「お手柔らかに願います」

 笑いを堪えた護衛の者の言葉に、カウリはもう一度吹き出したのだった。




「ええ、まさか本当に行くの?」

 本部に到着して、汗をかいた服を脱ぎ、軽く湯を使って着替えていた時、今日の予定だと言って、ラスティから告げられたのは、今から離宮へルークやカウリと一緒に行き、若竜三人組が到着したら向こうで一緒に夕食を食べて、そのまま一泊してくる、というものだった。

「久し振りのお休みですからね。明日の朝はゆっくりしていただいても大丈夫ですよ」

 いつもなら嬉しい言葉も、この時のレイにとっては本気で逃げたくなる言葉だった。

「行きたいよ! 行きたいけど……ああもうやだ!」

 着替え終わったレイは、剣帯も付けないまま側にあったソファーにそう叫んで飛び込んだ。

 うつ伏せのままクッションに抱きついて一人で悶絶している。

「まだ出発までお時間がありますので、それまでどうぞごゆっくり」

 笑いを堪えたラスティの言葉に、レイはクッションに顔を埋めたまま唸り声のような返事をした。

 思い出しても、まだ顔が真っ赤になる。

 もう一度悲鳴を上げてクッションに抱きついたレイは、勢い余ってそのまま床に転がってしまった。




 前回、雪玉のお土産を持って楽しい街歩きから戻ってきたあの日の夜。その事件は起こったのだった。



 おやすみを言ってレイがベッドに潜り込んだ直後、この部屋は戦場になったのだ。

 ノックと同時に、大きなワゴンにお茶やお菓子を山積みにした若竜三人組とルーク、さらにはカウリまでが、揃ってレイの部屋を襲撃してきたのだ。



 当然、その瞬間から有無を言わさず枕戦争が勃発したので、歓声を上げて、レイは久し振りの枕戦争を満喫した。



 一段落して疲れたレイは、シルフ達が守ってくれていたワゴンから、冷たくしたカナエ草のお茶を飲んでいた。周りでは、まだ笑い転げたルーク達があちこちに転がっている。

 それを見て、全員分のお茶を用意して配ってやろうとした直後、満面の笑みのカウリに背後から羽交い締めにされたのだ。

「何するんだよ。カウリの分のお茶もあるんだから、ふざけて無いで離してください」

 この時のレイは、まだこの後の展開について全く気付いていなかったのだ。



「はい、標的は無事に確保しました。それでは皆様、定位置にお付きください」

 得意げなカウリのその言葉に、床に転がっていた四人が一斉に起き上がる。

 全く何の事だか分かっていないレイだったが、少なくとも彼らの標的が自分である事は分かった。

「待って! 一体、何の事なの?」

 逃げようとするが、完全に肩を締められている為、抜け出す隙が全く無いのだ。

「それでは尋問を開始します」

 満面の笑みのルークが、レイのすぐ側まで顔を寄せる。

「で、いつその既成事実を作ったわけだ?」

「なんの事だよ! 質問の意味がさっぱりわかりませんってば!」

 逃げようと必死でもがいていると、カウリの左右にロベリオとユージンがそれぞれ立ち、同じくレイの耳元に顔を寄せた。

「じゃあ質問を変えよう。彼女の唇は柔らかかった?」

 妙に優しい声でそう言われた瞬間、レイは耳まで真っ赤になった。

「な、な、なんのことだかわかりませーん!」

 必死に首を振るレイを、ロベリオとユージンが両側から笑いながら捕まえる。目の前のルークが、レイの顔を両手で挟んで必死で笑いを堪えながら覗き込む。

「早めに吐いた方が、楽だと思うけどなあ」

「駄目です! 絶対言いません!」

 必死になって抵抗したが、彼らは全く気にする様子もない。



「何処だ? やっぱり訓練所か?」

「いや、それは無理だろう? だって光の精霊魔法の授業の時は俺がいるし、俺がいない時だってマークが一緒なんだぞ」

「ああそうか、じゃあ……いつだ?」

 ルークとロベリオが顔を見合わせて考えている。



 自分を置いて、勝手に進む話にレイは笑いながら悲鳴を上げた。

「だからもう、勘弁してくださいって!」

「あ、もしかしてあれか。花祭り中にガンディの所へ泊まった時か!」

 ルークのその言葉に、レイは堪えきれずに、思いっきり吹き出した。

 直後に必死になって咳き込んで誤魔化したが、もう、その態度だけで答えは言ったも同然だった。

「へえ、って事は、告白直後じゃん。さすがは両片思いだっただけの事はあるな。展開早いぞ」

「で、その後は?何かあったの?」

 しかし、ユージンの質問に答える余裕はレイには無かった。

「待ってルーク! 今何て言ったの? 両片思いって何だよそれ!」



 その瞬間、レイ以外の全員が思いっきり吹き出した。



「ちょっと待て、お前、まさかとは思うけど……彼女がお前を好きだった事、気付いてなかったのか?」

「誰が? 何だって?」

「だから、クラウディアも、ずっとお前の事が好きだったんだぞ。そうじゃ無かったら、いきなり竜騎士の花束を渡したところで、そう簡単に受け取ってもらえるかよ」

 呆れたようなルークの言葉に、レイは呆然と彼らを順に見た。

「じゃあルークやロベリオ達も、僕が彼女の事を大好きで、彼女も、その……僕の事を好きになってくれてるって、分かってたの?」

 信じられないと言わんばかりのその質問に、もう一度全員揃って吹き出す。

「あのな、言っておくけど気付かれてないって思ってたのはお前と彼女の二人だけだぞ。マークもキムも、リンザスやヘルツァー、クッキーだって、ニーカだって分かってたぞ」

「何それ……信じられない……」

 真っ赤になった顔を両手で覆って、レイは悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ。

 顔だけでなく、首元も耳も、髪に負けないくらいに、見える所は全部真っ赤になっていた。

「だから、お前に花束を渡せって教えてやったんじゃないか。感謝しろよ。ちなみに、ニーカが女神の代理人になって配ったっていうあの花束は、お前が万一取れなかった時のために、二人が協力して確保してくれた花束だったんだぞ」

 その言葉に、レイも堪えきれずに吹き出した。

「それは二人から聞いたよ。何だ、知らなかったのは僕だけなの?」

 笑いながら立ち上がったレイに、ルークが笑いながら赤毛を揉みくちゃにした。

「俺にしたら、お前が彼女の気持ちに気付いてない方が不思議だよ。普通気付くだろう?」

 無言で大きく頷く四人を見て、レイは堪えきれずに声を上げて笑った。

「そうだったんだね。皆、協力してくれてありがとうね」

 無邪気に笑うレイにつられて、全員の笑いは、いつまでも止まらなかったのだった。



 その後、ベッドに並んで潜り込んだ後、彼らの初恋や情けない失恋話を聞かせてもらった。

 そして、次回はもうちょっと詳しく教えてくれると言われてその日の騒ぎは収まったのだった。




「ねえ、キスの先って……なに?」

 クッションを抱きしめたまま、上向きに転がったレイは、ブルーのシルフにこっそり話しかけた。



 床に転がったまま起きてこないレイを心配して、ブルーのシルフとニコスのシルフ達が彼に周りに現れて覗き込んでいたのだ。



 その言葉に、ブルーのシルフとニコスのシルフ達は、顔を見合わせて笑って首を振った。

『レイよ、何でもかんでも我らに聞くものではないぞ。経験豊富な先輩達が目の前に大勢いるのだから、遠慮せずに教えて貰えば良いではないか』

「だって、恥ずかしいよ!」

 クッションを抱えたまま叫ぶその姿に、ブルーとニコスのシルフだけでなく、周りで見ていた何人ものシルフ達が、一斉に笑い出した。


『主様は可愛いよね』

『可愛い可愛い』

『大好き大好き』

『主様は可愛い』

『キスの先は内緒』

『キスの先は内緒』

『素敵な内緒』

『恋は素敵!』


「ええ、何だよそれ。そんな事言わずに教えてよ!」

 訳が分からず戸惑うレイに、シルフ達はまた大喜びで手を叩いて笑っていた。



 扉の外では、ラスティが漏れ聞こえてくるレイとシルフ達の会話に、部屋に入るに入れず困っていたのだった。

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