竜との面会の最終日

 その夜、湯を使った後、寝る前にもう一度ハン先生が部屋まで来てくれて、湿布を変えてくれた。



「腫れはほとんど引いたようですね。明日の朝にもう一度湿布を替えますから、それまで勝手に剥がさないようにしてくださいね」

 道具を片付けながらそう言われて、頷きながらレイは竜舎で聞いた話を思い出した。

「えっと、ハン先生。竜舎で竜のお世話をしていて聞いたんですけど、これって竜の剥がれた鱗から作ったお薬なんですか?」

 自分の頬の湿布を指差しながらそう質問する。

「ええ、そうですよ。精霊竜の剥がれた鱗はとても貴重な薬になります。痛み止めや熱冷ましの効用があるんです。普通の人ならごく少量でも、とても効果のある熱冷ましになりますね。止血を伴う痛み止めとしてもかなりの効果があります。まあ、竜騎士の方にはそれほど効かないのですが、それでも数ある薬の中では、まだかなり効果のあるものですね」

「この湿布はかなり効いてると思います!」

 レイの言葉に、ハン先生も笑顔になる。

「打ち身や軽い怪我程度なら、この薬でも何とかなりますね。でも、怪我なんてしないのに越した事はありません。普段から注意してくださいね」

「はい、気をつけます」

 笑って部屋を出て行くハン先生を見送り、ラスティが用意してくれていた寝巻きに着替えた。

 足元の籠に脱いだ部屋着を畳んで入れて、ベッドに潜り込む。

 天井を見上げて大きなため息を吐いた。



 どうしても、頭の中で今日あった事を考えてしまう。

 あの貴族の若者は、何故あんな理不尽な振る舞いをしたのだろう。考えていて、今はもうここにはいないテシオスとバルドの事を思い出した。

 彼らも出会った最初の頃は最悪だった。

 目の前でわざとマークのお茶を叩き落としてびしょ濡れにして、それでも平然としていた。自分のしている事が全て正しいのだと当たり前のように信じている、あの態度にそっくりだったのだ。

「そっか、彼らの周りにも間違いを正してくれる人がいなかったんだね……」

 確かに、それはとても不幸で可哀想な事に思えた。



 ゆっくりと起き上がると、スリッパを履いて窓に向かった。

 この季節になると、夜でももうそれほど寒くはない。

 カーテンを開けてそっと窓を開く。スリッパを脱いで窓枠に座った。

 いつものように、自分を見上げる見回りの兵士に手を振ってから、レイは黙って空を見上げた。

 今夜は月は無く、雲一つない空には数え切れないほどの星が瞬いていた。



 無言で、空を見上げていた。

『眠れないか?』

 優しいブルーの声に、レイは小さく笑った。

「眠いんだけどね、何故だか眠れないんだ……」

 空を見上げたまま、小さな声でそう呟く。

「今まで僕は、正しい事は正しいし、それは皆も同じように正しいと思ってるんだって思ってた。だけど……人によって違う事もあるんだね。ある人にとってはそれが当たり前で正しい事でも、別の人にとっては間違った事で……何なんだろう、正しい事って一つじゃないのかな?」

『立場によっても変わるし、生き方によっても、何が正しい事なのかは変わるだろうな』

 ブルーが面白そうに、そう言って笑った。

「やっぱりそうなんだ……」

『今日、其方を殴ったあの者達にしてみれば、わざわざ早朝から来てやった自分達を、臭い場所で待たせた挙句、竜に会わせようともしない。ならば勝手に入って会ってやるのは当然の事だ。まあその程度の浅はかな考えだったのだろうな。薬の守り無しに無防備で竜に接触する事の恐ろしさを知らず、会いさえすれば竜の主になれると当たり前に考える傲慢さ。そのどれもが己が間違っているなどどは微塵も考えてはいない。滑稽極まりないな』

「ブルー、辛辣だね」

『其方に一方的に手を上げたのだ、絶対に許すものか』

 静かな怒りを秘めたその声に、レイはまた笑って首を振った。

「駄目だよブルー。僕はもう怒ってないんだから、そんなに怒らないで」

 ムッとしたように鼻を鳴らすブルーのシルフに、レイは優しくキスを贈った。

「あ、流れ星!」

 見上げた空に、長い尾を引いて星が流れた。

「今なら眠れそう。よし、もう寝ようっと」

 そう呟いて、窓から部屋の中に戻り、静かに窓とカーテンを閉めた。



 ベッドに潜り込んだレイは、枕元で自分を覗き込むシルフ達に笑いかけた。

「おやすみ。明日もいつもの時間に起こしてね」

 頷くシルフにもう一度笑いかけて、レイは目を閉じた。

 静かな部屋に規則正しい寝息が聞こえるまで、枕元でシルフ達がずっと愛おしそうに、レイの頬に何度もキスを贈りふわふわの赤毛を撫でていたのだった。




 翌朝、いつもの時間に起きたレイは、思っていた程頬が痛くないのに気付き笑顔になった。

「おはよう。顔を洗いたいけど、これって勝手に外すなって言われたっけ」

 頬に張り付いている湿布は、まだしっかりとしていて勝手には剥がれそうに無い。

 レイがそれを触っていると、シルフ達が代わる代わる湿布を叩いたり引っ張ったりし始めた。

「ああ駄目だよ。勝手に剥がしちゃ駄目だってハン先生に言われたんだから」

 慌ててそう言ってシルフ達を止める。その時、ノックの音がしてラスティとハン先生が入って来た。

「おはようございます、怪我の具合は如何ですか?」

「おはようございます。うん、もうほとんど痛くないです」

「そうみたいですね。ほとんど腫れも引いていますよ」

 そう言って笑ったハン先生が、湿布を剥がしてお湯で絞った布で拭いてくれる。

 レイは大人しく、されるままに我慢して座っていた。

「口の中の切れていた部分も、かなり塞がっていますね。でも明日までは、食事の際にはあまり硬いものや、刺激の強い辛い物は食べないようにしてくださいね」

「大丈夫です。普段から、辛い物は食べないから」

 胸を張って答えるレイを見て、ハン先生は堪える間も無く吹き出したのだった。



 第二部隊の服を着たレイと一緒に、せっかくだからとハン先生も一緒に食堂へ向かった。

「そう言えば、昨日は竜の主は現れなかったんですか?」

 パンをちぎりながらレイが質問すると、ハン先生は笑って首を振った。

「そう簡単には現れてくれませんよ。開催期間中に一人でも現れれば良い方です。現れない年の方が多いんですよ」



 実は昨日は、リンザスとヘルツァーが面会予定のリストに乗っていたので、密かに楽しみにしていたのだ。だけど、あの騒ぎのせいで午前中は全く表に出る事が出来なかったので、何かあっても分からなかったのだ。

「ああ、あの二人ですね。残念ながらご縁は無かったようですよ」

 その言葉に、頷いて小さなため息を吐いた。残念ながら、友達が竜騎士になってくれたら良いのに、というレイの希望は叶えられなかったようだ。



 しっかりデザートまで食べて、お腹いっぱいになって部屋へ戻った。




「じゃあ行って来ます! ルーク達によろしくね」

 今日は竜騎士達は皆城に詰めているそうで、本部には誰も帰って来ていなかった。見送ってくれるラスティ達に手を振って、レイは早足で第二部隊の事務所へ向かった。

「おはようございます!」

 大きな声で挨拶をして事務所に入る。

 ティルク伍長を手伝い、今日の書類を一緒に運んで第二竜舎へ向かった。



 受付担当は今日までで、あと二日間は待合室で案内係担当になっている。

 後半の五日間は、また担当が変わると聞いているので、何をするのか密かに楽しみなレイだった。




 慌ただしく過ぎる時間の中、レイは一生懸命に自分に与えられた仕事をこなした。

 二日目の暴力事件以降、多少の問題はあったが、特に理不尽な文句を言う者や暴れる者はおらず、比較的平和に面会の日々は過ぎていった。




 後半の担当替えで、レイのいる第二班は竜舎内での案内係担当になった。

 実際に面会に来た本人を、竜の前に順番に案内して回るのだ。

 もしも出会いがあれば絶対に分かると言われ、自分の時を思い出した。

「僕の時は、雷が落ちたみたいな感じだったよ」

 朝礼で説明を聞いていた時に、皆が興味津々でこっちを見るので、小さな声でそう言ったら皆が急に目を輝かせてその時の話を聞きたがった。

「でも、その時の僕は、竜の主って言葉さえ知らなかったもん。ただ、ブルーが側にいてくれたら良いなって、そう思ったの」

「あの大きな竜、怖く無かったんですか?」

 恐る恐るそう聞かれて、レイは笑った。

「ブルーにも言われたよ、自分が怖くないのかって。うん、自分でも不思議だけど全然怖く無かったよ。とっても綺麗な竜だって思ったの。見た事は無かったけど、きっと宝石ってこんな風なんだろうなって思ったよ」

 感心したような声に、レイは笑った。

「竜との出会いは、その人によって感じ方は皆違うんだって聞いたよ。ルークは、周りの音が全部消えたって言ってたし、タドラは目の前いっぱいに竜の顔が見えたって言ってた。ロベリオは震えが止まらなかったって言ってたよ」

 レイが聞いたのは、その三人だけだったが、彼らも、他の皆も感じ方は様々だったと言っていたのだ。



「まあ、様子がおかしい人がいれば、すぐに知らせてくれ。あ、でもレイは絶対分かるだろう。なんでも新しい出会いがあれば、シルフ達が大騒ぎするらしいからな」

「へえ、そうなんだ。じゃあ、彼女達に確認するようにするね」

「何より確実な確認方法だな。よろしく頼むよ。じゃあ今日も無事に一日、問題なく終わるように頑張ろう」

「はい、よろしくお願いします!」

 全員揃って直立してそう言った。



 しかし、レイの密かな期待も虚しく日々は過ぎていき、とうとう面会の最終日になってしまった。

「いよいよ最終日だ。今日は面会人が多いから、皆、段取り良くお願いするよ」

 ティルク伍長の言葉に、全員が直立して敬礼した。



 そして最後の午後からの面会が始まって間も無く、その人物は現れた。



 着飾った貴族の子息や付き添いの人達が大勢並んでいるその場所で、彼は第二部隊の制服のままで書類だけを手にして、たった一人で付添い人も無しに列に並んでいたのだ。



 その場にいる彼は、明らかに一人だけ場違いな存在だった。



 周りの者達は、あからさまに邪魔者を見るような目で見ていたが、彼が持っている書類が間違い無く面会を許可する面会証であるのに気付き、納得したように皆知らん顔をした。

 おそらく彼は、誰かの庶子なのだろう。規則に則り、とにかく面会へ行けと言われて来のだろうが、それにしても、その人物は年齢がかなり上に見える、ここにいる者は若い者だと十六歳。上でもせいぜいが二十代半ばまでだ。

 周り中の密やかな好奇心の目にさらされても、その人物は平然としていた。



「次の方はどうぞこちらへ」

 受付に呼ばれて、その兵士は平然と書類を渡した。受付の兵士がリストと照らし合わせて確認しているのを、面白そうに黙って眺めていた。

 案内されて別室でお薬とお茶を渡されるままに素直に飲み、それから竜舎に向かった。



「どうぞこちらへ、ご案内します……。ええ、カウリ伍長!」

 入り口で待っていたレイが一礼して挨拶したのだが、呆気にとられて自分を見ている視線と目があって思わず声を上げた。

「ええ、ちょっと待てよ。お前、何してるんだよ。しかも今度は第二部隊の制服なんか着て! ああ、また二等兵だし!」

 二人は顔を見合わせて同時に吹き出した。

「今日まで僕は、第二部隊の新兵のレイ二等兵なんです。ここに来る人達は、もうそれは本当に色んな人がいてびっくりする事ばかりです」

 大真面目なその言葉に、カウリ伍長はもう一度吹き出した。

「ルーク様もやるなあ。まさか面会現場にお前さんを配置するとはね」

 まだ笑いながら竜舎の中を見る。

「じゃあ、せっかくだから案内してもらおうかな」

 胸を反らせて、態とらしく偉そうにそう言う。

「はい、どうぞこちらへ!」

 直立して敬礼したレイは、満面の笑みでカウリ伍長を連れて中へ入った。



 興味津々のシルフ達が、周りを飛び回って嬉しそうにそんな二人を見つめていた。

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