孤独と絶望
「どうして……どうしてこんなに人が多いの……」
咄嗟の思い付きで神殿を抜け出してきたニーカだったが、すっかり暗くなった時間なのに、全く引かない人混みの中で、一人途方に暮れて立ち尽くしていた。
これからどうしたら良いのだろう。
どう考えても、手に職も無い未成年の自分を雇ってくれる所が簡単にあるとは思えない。ましてや自分は身分証を持って来ていない。
「とにかく、ここから離れないと……」
誰かに追われているかもしれない。その恐怖心が彼女から正常な判断力を奪っていた。
人の流れに沿って進み、あちこち突き当たってはまた戻りながら一番大きな塔を目指して歩いた。
あれが、街の外へ出る城門を管理している塔だと教えられていたからだ。
この国では、街へ入る時には身分証が必要になる。神殿での見習い巫女としてのニーカは、アルス皇子が直々に発行してくれた身分証があるので、普通の人は入れない城への城門も咎められずに通ることが出来る。しかし今の自分はその身分証を持っていない。
でも、出るだけなら身分証はいらないと聞いた。もし勝手に出てしまったら街へ戻る時に大変だから、あの門から外には出てはいけないと言われた事を覚えている。
つまり、あの門を出てしまえばおそらくもう見付からないだろう。
人の波に紛れてこっそり城門を潜ろうと列に入ろうとしたその時、突然後ろから肩を叩かれた。
驚いて振り返ると、そこにいたのは二人の男性で腰に剣を指している。マークやキムが着ている様な軍服では無いが、明らかに剣を持つ兵士だ。
恐怖に言葉もない彼女に、その男は屈みこんで顔を寄せて優しい声でこう言った。
「どうかお戻りを。貴女が街の外へ出る事は許可されておりません」
その瞬間、この兵士が誰なのか分かった。
恐らく、竜騎士隊から派遣されているのであろう、彼女の見張り役なのだ。
自分はタガルノ人で、未だに完全に信用されているわけでは無いのだという事実を突きつけられて、ニーカの瞳に涙があふれた。
咄嗟に肩にかけられた手を振り払って、元来た道を引き返して走った。
何人かの人に当たって顔も上げずに謝ってさらに走る。舌打ちの声が聞こえたがもう一度謝って逃げ出した。
二人の兵士は追っては来なかった。
闇雲に走り、何度もぶつかっては謝る。見もせずに何度も角を曲がり、その途中の段差で転んでしまい、したたかに膝を打った。
立ち上がろうとして、膝の痛みにまた転んでしまい、とうとうその場で蹲って泣き出してしまった。
今、ニーカがいる通りは、大通りから少し奥に入った路地で、かなり複雑な裏通りの入り口付近だ。
ようやく泣き止んで我に返ったニーカは、自分のいる場所が全く分からなくてまた途方に暮れていた。
すっかり辺りはうす暗くなり、街灯も無い裏路地は真っ暗だ。
「どうしよう……」
春とはいえ、まだ日が暮れてしまうと夜は冷える。
とにかく立ち上がって明かりの見える声の聞こえる方向へ歩いた。
ようやく、幾人もの人のいる通りへ出た時、目の前にシルフが現れた。
『どうしたの?ニーカ』
『何故こんな時間に神殿から出ているの?』
それは、愛しい竜からの使いのシルフだった。
「スマイリー!」
思わず大きな声で叫ぶ。横を歩いていた男が、驚いた様に彼女を見て首を振って早足にその場を去った。
精霊の見えない者にしてみれば、何も無い宙に向かって話しかける彼女は、さぞかし奇妙に見えただろう。
しかし、彼女はそんな周りの様子を気にしている余裕は無かった。
そうだ、ここには愛しい自分の半身である竜がいるのだ。
あの子を置いては何処へも行けはしない。
仮に、竜を連れ出して逃げ出したとしても、薬とお茶が無ければ、竜熱症という恐怖の死の病が待っている。それは白の塔に入院している時に、ガンディから口を酸っぱくして何度も聞かされたのだ。
絶対に毎日、白の塔から届けられるお薬を飲む事。そのお茶は苦いので、蜂蜜を入れて飲む事。
それだけが竜熱症を発症しない唯一の方法なのだと。
目の前のシルフを見て、また涙があふれる。
道の端に座り込んで、また泣き出した。
もう、自分がどうしたらいいのか全く分からない。
ここには居られない。でも、愛しい竜を置いては行けない。
自分の置かれている相反する二つの状態に気付き、考えれば考える程どうしたらいいのか分からなくなった。
途方に暮れてうずくまって泣いていると、目の前に不意に誰かが立った。
またさっきの兵士だと思い、逃げようと顔を上げて驚いた。
そこに立っていたのは、神殿で毎朝の様にお祈りに来る見覚えのある女性だったのだ。
早朝の掃除を担当するニーカにも、顔を見たら丁寧な挨拶をしてくれる。ニーカに身寄りがないと知ってからは、時々こっそりお菓子をくれたりもする優しい人だ。
「まあ、やっぱりニーカ様ね。一体どうしたの?」
その女性は、持っていた大きな籠を足元に置いて彼女の前にしゃがみ込んだ。籠の中には、小さな鳥の形をした花束が二つと、紙に包まれた硬いパン、それから良い匂いのする壺が入っていた。おそらくどこかの屋台で夕食を買ってきたのだろう。
咄嗟になんと言ったらいいのか分からなくて口籠っていると、女性は勝手に納得した様に笑ってこう言ったのだ。
「もしかして、お使いに出て迷子になったのかしら? まだオルダムは不慣れだって言っていたわよね?」
「あ、あの……」
「私の家はすぐそこなのよ。荷物を置いたら神殿までお送りします。一緒に行きましょう」
差し出された手を見て、ニーカは黙って首を振った。
彼女は、女手一つで二人の子供を育てていると聞いた覚えがある。まだ自分と歳の変わらない幼い女の子を二人。
もし、その子達がさっきの自分と同じ様な目にあわされたとしたら。考えただけで血の気が引いた。
「あの……大丈夫です……ちょっと転んでしまって、痛かっただけですから……」
後ずさる様にして立ち上がり、逃げる様にしてその場を離れた。
膝もお腹も痛かったが構っていられなかった。背後から心配する女性の声が聞こえたが、聞こえないふりをしてそのまま走り去った。
その後を、スマイリーの使いのシルフがそっとついて来ていた。
「ん? どうした?」
もう間も無く、竜騎士隊の本部へ到着という時に、突然、ガンディの目の前に大きなシルフが現れた。ニコスのシルフ程の大きさは無いが、彼女もガンディが連れている古代種のシルフの一人だ。
『ニーカが施療院を出て行った』
『見張りを付けてあるけれどどうする?』
ガンディとレイは驚いて顔を見合わせた。
「待て。なぜ彼女が施療院を出ておる。暫く入院させる様に言ったはずじゃ」
すると彼女は首を振った。
『ニーカは言った』
『もう元気になったから皆のお手伝いに戻ると』
『だけど廊下の窓から出て行った』
『それは普通の行動では無い』
『だから知らせた』
それを聞いた二人は、ほぼ同時に同じ事をした。つまり、ラプトルの向きを変えて街へ向かって走り出したのだ。
「そのまま彼女を見ていてくれ!」
ガンディの叫ぶ様な言葉に、頷いてそのシルフはいなくなった。
それを見て一気に加速しようとした時、また別のシルフがガンディの目の前に現れた。慌ててラプトルを止めた彼を見て、レイも一旦ラプトルを止めて、そのシルフを見た。
『ガンディ様カミルです』
『ニーカ様がお一人で神殿から出てきました』
『しばらくあちこち歩き回った後』
『城門から外へ出ようとしたのでお止めしたら泣いて逃げられました』
『部下が尾行しておりますが様子がおかしいので報告しました』
『ひとまず保護してもよろしいですか?』
「城門から外に出ようとしただと?」
「どうしてそんな事?」
思わずレイも声を上げる。
「待て。カミル。勝手に保護するな。お前はニーカとは面識は無い。これ以上怖がらせるな。儂が行くまで見失わない様に後をつけろ」
『了解しました』
頷いて消えるシルフを見送り、レイとガンディは顔を見合わせた。
「一体どういう事だ? なぜニーカがここを出て行こうとする?」
「あ! もしかして、さっきのタガルノから来たって言う男に何か言われたんじゃない? ここにいたら酷い目にあうぞ……とか」
それは今読んでいる物語の中の悪役の台詞そのままだったのだが、ガンディは笑わなかった。
「それは充分あり得るな。とにかく急いで戻ろう」
そう言うと、今度こそ街へ向かって二頭のラプトルは一気に走り出した。
立ち止まったニーカは、周りを見て泣きそうになった。
結局、女神オフィーリアの神殿の近くに戻って来てしまっている。見覚えのあるお店を見て、ニーカはまた走り出した。
適当に角を曲がり、自由に通れる城門をくぐって別の通りへ出る。辺りを見回してまた走り出した。
息が切れてお腹がジクジクと痛む。立ち止まって息を整えていると、またシルフが目の前に現れた。最初に見た、大きなシルフだ。
『動いては駄目』
『お腹の出血が酷くなるよ』
『じっとしていて』
ニーカはそのシルフを見て、泣きながら笑った。
「別に構わない。私なんて……もう何処にもいるところが無いんだもん……生きていたって、しょうがないよ……」
ここには居られない。でも愛しい竜を置いて逃げる事も出来ない。
彼女の胸の中は、八方塞がりの現実と絶望しか無かった。
『そんな事言わないで!』
『あなたは僕の大切な主だよ!』
『僕が一緒にいるから』
『そんな悲しい事言わないで!』
叫ぶ様な愛しい竜の言葉に、顔を上げたニーカは泣きながら笑った。
「ごめんね……今度、生まれて来る時は……この国の子として生まれるから……もう一度、お前と……逢えるといいね……」
ニーカはそう言うと、ふらふらと目に付いた水路に吸い寄せられ様に向かった。
『ニーカ!何をするつもり!』
その叫びも、もう彼女を止められなかった。
川から引き込んだ水路が、城壁の合間を縫う様にして街中に張り巡らされている。上下水道がほぼ完備されているオルダムでは、綺麗な水路がいくつもの道沿いにあるのだ。しかし水路は度々地下に潜る。うっかり落ちると非常に危険だと教えられていた。
柵に手をかけ身を乗り出そうとした時、その襟首を誰かに突然掴まれ引き戻された。
「離して! お願いだから死なせて! もう、私なんて生きていても仕方がないもの!」
「馬鹿な事を言うな!」
「そうだよ! 馬鹿な事考えないで。クロサイトを一人にするつもりなの!」
怒鳴られたその声は、息を切らせたガンディとレイルズの声だった。
ラプトルから飛び降りたガンディに首根っこをまだ掴まれたまま、ニーカは大声をあげて泣き出した。
辺りを憚らず身も世もなく大声を上げて泣くその姿は、全身を覆い尽くす絶望と戦い叩きのめされて、それでも誰か助けて、と、縋る様に叫ぶ彼女の魂の叫びそのものだった。
「大丈夫じゃ。其方は一人では無い。大丈夫じゃ」
「そうだよ、死ぬなんて考えないで。生きていれば絶対に何とかなるから!」
縋り付いて泣くニーカを、ガンディは何度もそう言いながら、ただ抱きしめ、レイも何度もそう言って彼女の背中を一生懸命撫で続けていた。
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