春の足音
「だめだ。もう一度」
マイリーの厳しい声にレイは大きな声で返事をして、背筋を伸ばして新しい矢をつがえた。
年明けから始まった新しい訓練の中で、一番苦労しているのが、この弓の訓練なのだ。
槍は棒術の延長と言われる通り、コツさえ掴めば後は簡単だった。槍そのものが重いというのは、ある程度の慣れと腕力を鍛える事で事なきを得たし、戦闘訓練を受けているというラプトルのレイドに乗る事も、身体が大きかったので少し難しかった程度で、片手で手綱を持って槍を構える事も、少し頑張れば出来るようになった。
しかし、この弓に矢をつがえて射るという一連の流れは、今まで彼がしていたどの動きとも違い、まず、きちんと構えられるようになるまでにかなりの時間を要した。
何とかしっかりと構えられるようになったが、真っ直ぐに矢を飛ばす事は、更に思っていた以上に難しかったのだ。
手本だと言って、いとも簡単に的に当ててみせるマイリーやヴィゴの動きを必死で観察し、自室でも鏡の前で何度も自分の構えを確認して、ようやく最近、的に近い位置に矢が当たるようになった。
今は、構えから動きを止めずに素早く矢を射る訓練をしている。
「うう……難しいです」
的からかなり離れた位置に当たった自分が射た矢を見て、レイは大きなため息を吐いた。
「もう少しだけ上に構えろ。それから左手がまだ少しぶれて動いている。矢を射る瞬間に動かないようにしっかり構えないとな」
マイリーが矢はつがえずに、弓を引く動作をして教えてくれる。
分かっている。自分でもそれは分かっているのだが、なかなか思うように出来ないのだ。
「もう少し、腕を鍛えた方が良いのかなあ。後ちょっとが踏ん張れないんだよな」
自分の左手を見ながら情けなさそうに呟くレイルズを見て、マイリーは小さく笑った。
同じ年頃の他の青年達と比べたら、レイルズの身体能力は、全てにおいてずば抜けているだろう。
身長も頭半分は平均よりも高い。身体の厚みや筋肉の付き方そのものも、まだ未成年である事を考えると充分過ぎるほどに仕上がっている。
そして何よりも優秀なのが、彼は教えられた通りに身体を動かす事が出来るのだ。
弓で苦労しているのは、今まで訓練して来た動きと全く違う為で、生まれて初めて弓に触ってからわずか数カ月でここまで出来るようになっただけでも、十分褒めてやって良い程の出来だ。
「こんな事なら、ギードに弓も教えて貰えば良かったや」
自分の弓を手にレイルズが呟くのを聞いて、マイリーは顔を上げた。
「ほお。ギードは弓も使うのか」
「はい。いつも肉を確保する為の狩りは、ギードが行ってくれていたんです。どうやるのか聞くと、罠と弓を使うって言ってました。一度だけ、ギードが使ってる弓を見せてもらったんだけど、その時の僕には引く事も出来なかったんです」
「それは恐らく獣用の強弓だな。それこそドワーフほどの腕力が無いと、お前の言う通り引く事さえも出来ないだろうな」
そう言うと、後ろの棚から一振りの大きな弓を持って来て見せてくれた。
「これは
自分の弓を横に置き、手渡された弓を見た。
「弦が少し太いんだね」
指でその太い弦を弾いてみて驚いた。まるで金属で出来ているのかと思う程に硬い。それこそ、以前ギードに見せてもらった弓そのものだった。
目を輝かせて立ち上がると、背筋を伸ばして矢はつがえずに右手で弦を引いてみる。
「うわあ。全然引けない」
伸ばした左腕はプルプルと震えているが、どれだけ必死で引いても、右手は殆ど動かなかった。わずかに真っ直ぐだった弦が曲がった程度だ。
しばらく格闘していたが、諦めて弓を下ろした。
「うう、全然引けません」
情けなさそうにそう言って、弓をマイリーに返した。
「まあ力技な部分もあるが、強弓を引く時にはちょっとしたコツがあるぞ」
笑ってそれを受け取ったマイリーがは、そう言って簡単にその弓を引いてみせてくれた。
マイリーの腕は、ヴィゴとは違い筋骨隆々というわけでは無い。見た目だけなら自分の腕と殆ど変わらないだろう。
思わず拍手したレイは、もっともっと頑張ろうと心に誓ったのだった。
五の月も中頃になると、閲兵式の準備もどんどん進んでいた。六の月の最後の日が閲兵式なのだそうだ。
工房のモルトナとロッカは、準備の為に寝る暇もない程に忙しいのだと聞いた。
竜騎士隊の面々も幾つかの準備があり、日々の業務の合間に打ち合わせに追われていた。
「でもその前に、花祭りがあるんだよね」
「だよね!」
休憩室でお茶を飲みながら、嬉しそうに言ったレイの言葉に、タドラが食べていたビスケットを置いて、そう言って笑い合った。
「はーな祭り、花まっつりー!楽しみ、楽しみ、花祭りー」
ビスケットを取りながらレイが歌う適当花祭りの歌に、その場にいた全員が堪える間も無く吹き出した。
「レイルズ……何だよそれ?」
ロベリオが笑いを堪えて尋ねる。
「え? 僕の作詞作曲、適当花祭りの歌だよ」
胸を張って笑ってそう答えるレイルズに、もう一度全員が吹き出したのだった。
「いやあ、無邪気で何よりだな」
「まあ、せいぜい楽しみにしていろ。お前ら若い連中は、今年は間違いなく全員特別席で観覧出来るからな」
マイリーとヴィゴが、まだ笑いを残してそう言い、それを聞いた二人は大喜びで手を叩き合った。
「でも、レイルズはまだ、正式なお披露目はしないんでしょう? どうするんですか?」
ルークの言葉に、マイリーは笑って教えてくれた。
「マティルダ様が連れて行って下さるそうだ。だから、レイルズはお前達よりもまだ一段高い位置から観覧出来るぞ」
「おお、それは凄い。王族の特別席ですか。良かったなレイルズ。一番高い特別席だぞ」
ルークの言葉に、レイルズは満面の笑みになった。
女性の王族が、花祭りの初日と最終日に観覧するのがオルダムでは慣習になっている。
その席には女性王族だけでなく、それぞれが身内の者や親しい友人などを特別席に連れて来ている為、遠目には誰がいるのかなんて殆ど分からないのだ。
騎士見習いの服を着て行けば、確かにレイルズに注目する人はいないだろう。
「それなら、例の巫女とニーカも観覧席に呼んでやれば良いんじゃないのか?」
小さな声でロベリオがルークに言ったが、ルークは小さく笑って首を振った。
「ニーカとそのクラウディアの二人を、俺も特別席に呼んでやろうかと思ったんだけどね。こっそり神殿に聞いたら、花祭りの期間中は、神殿でも花の鳥を作る講習会を開催してて、人手はいくらあっても足りないらしいよ。だから、出来たら勘弁してくれって言われた。特にクラウディアは、ブレンウッドでも講習会の先生役をやっていたらしいから、素人に教える事の出来る貴重な人材らしい」
「成る程。それは邪魔しちゃ駄目だな。残念。せっかくだから、お近付きになる良い機会かと思ったんだけどな」
ため息を吐くロベリオを見て、ルークはニンマリと笑った。
「それなら、お前らも協力しろよ。閲兵式の後の夜会で、ちょっとお節介を焼いてやろうかと思ってるからさ」
それを聞いた若竜三人組が、目を輝かせてルークの周りに集まった。
それを横目で見たヴィゴとマイリーは、レイルズの気をそらせる為に、新しいビスケットを彼の目の前にさり気なく寄越したのだった。
「そっか。花祭りの時は、お前はやっぱり特別席か」
自習室で、マークの言葉にレイは嬉しそうに頷いた。
「うん。一番高い特別席に座れるんだって。昨日、マイリーから聞いたよ」
「良いなぁ。俺達は市中警備に駆り出される事が確定したから、人混みに揉まれて、とてもじゃないけど祭り見物どころじゃなさそうだよ」
キムの言葉にマークも頷き、二人揃って肩を落として大きなため息を吐いた。
「ご苦労さん。でも、あれだけの人出なんだから、当然警備も必要だもんな。これも大事な役目だ。頑張れ!」
慰めるようにヘルツァーに背中を叩かれて、二人も苦笑いしていた。
「私達は、期間中は神殿で花の鳥の講習会を担当します。お時間があれば来てくださいね」
クラウディアが嬉しそうにそう言い、それを聞いたレイは、目を輝かせて何か言おうとして不意に口を噤んだ。
「何だ? どうしたんだ?」
リンザスが目敏くそれに気付いて尋ねたが、レイは黙って首を振った。
「何でもない。えっと、花の鳥を作るって……どうやるの?」
その言葉に、笑って嬉しそうに説明する二人の話を聞きながら、レイは去年のブレンウッドでの花祭りの時に、結果として彼女にも嘘をついていた事に気付いて、密かにショックを受けていた。
その日の授業が終わり、神殿への帰り道をニーカと二人で歩きながら、クラウディアは小さなため息を吐いた。
「どうしたの、ディア?」
覗き込むニーカに、クラウディアは小さく首を振った。
「レイルズ様は、やっぱり私達とは違うのよね。一緒にお話ししていると、本当に気さくに声をかけて下さるから、つい普通に接してしまうけれど、今日のお話を聞いて改めて思ったわ。本当なら……私なんか、とてもお側にも寄れないような身分の方なのよね」
寂しそうなその言葉に、ニーカは呆れたように首を振った。
「それ、レイルズに言ってみれば。そんな事言うなって、きっと泣きつかれると思うけど」
横で見ている彼女の方が、レイルズの性格や、彼のクラウディアに対する好意をかなり正確に把握していた。
「それは、もちろん……きっとそう言って下さるわ。でも……今は見習いだから、自由にしておられるけれど、成人したら正式に竜騎士様になられるんでしょう? そうなったら、もう私なんかとても近くに行けやしないわ」
何か言いたげに横目で見たニーカは、顔を上げて現れたシルフ達に話しかけた。
「そうなんだって。どう思う?」
すると、次々に現れたシルフ達が、口を揃えて笑いながら話し始めた。
『ディアは考え過ぎ』
『諦めるのが早過ぎ』
『大好きなのにね』
『どうして言わないの?』
『いつも言ってるのに』
『どうして言わないの?』
『分からないわ』
『分からないわ』
『身分って何?』
『そんなの知らない』
笑いさざめくシルフ達を見て、クラウディアは慌てたように首を振った。
「駄目駄目! それ以上言わないで! 内緒だって言ったじゃない!」
慌てふためくその姿を見て、シルフ達はまた揃って楽しそうに笑った。
『大好きなのにね』
『大好きなのにね』
『変なの』
『変なの』
「駄目駄目! 言わないでったら!」
呆気にとられるニーカを振り返って、さらに慌てて、笑いながら逃げるシルフ達を追いかけた。
走る彼女のその顔は、夕焼けに照らされて、夕日よりも真っ赤になっていたのだった。
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