朝ごはんと災いの火種
翌朝、目を覚ましたレイは、宿屋の天井を見上げて込み上げてくる笑いを止められなかった。
『おはようおはよう』
『そろそろ起きるよ』
『起きるよ起きるよ』
『ご機嫌ご機嫌』
『おはようおはよう』
目の前に現れたいつものシルフ達に、笑顔のままに挨拶した。
「おはようございます。今日のお天気は?」
『よく晴れてるよ』
『よく晴れてるよ』
『でもちょっと寒いよ』
『寒い寒い』
口々にシルフ達が答えてくれる。晴れているがかなり寒いらしい。
「そっか、このお部屋も兵舎と同じで部屋の中はそんなに寒く無いね」
石のお家は、朝はかなり寒いのを思い出しながら起き上がった。
「雪が降ると、突然家の中が寒かったもんね」
シルフ達に話しかけながらベッドから降りて、まずは顔を洗うために洗面所に向かった。戻って来て改めて着替えようとして、ちょっと考える。
「えっと、一人で着られるかな……」
壁に作られた洋服を掛けるフックに、昨夜脱いで綺麗にブラシをかけてある第二部隊の兵士の服がある。
考えてみたら、いつも手伝ってもらっているから一人で全部着替えるのは初めてだ。少し不安になったが、脱いだ時を思い出しながら順番に着替えた。
「これでよし! っと」
最後に、剣帯を身に付けてベルトを締め、ギードが作ってくれたミスリルの剣を取り付ける。
もう、剣の装着金具も戸惑う事なく使えるようになった。
その時、ノックの音と扉の隙間からタキスの声がした。
「レイ、起きていますか? おや、おはようございます。ずいぶん立派な兵隊さんがいますね」
朝日に照らされて振り返って笑うレイの立派な姿に、タキスは不意にあふれそうになった涙を、ふざけてそう言って誤魔化した。
「おはようございます。実を言うと、初めて全部一人で着替えたよ」
両手を広げて見せながら、照れたように笑った。
「レイ、後ろを向いてみてください。ほら、ちょっとシワになってますよ。はい、これでよろしい」
予想通り、背中側の剣帯に押されて皺になっていた部分を直してやり、背中を叩いた。
「ありがとう。えっと、もう皆起きてるの?」
「ええ、貴方が起きたら食事に行こうかって話してました」
一緒に居間に出ると、ニコスとギードが振り返った。
「おはようございます。おや、改めて朝日の下で見るとその服も格好良いですよ」
「おはようさん。うん、確かに格好良いぞレイ」
二人が揃ってそう言って親指を立ててくれた。
「それでは今から、朝ごはんを頂くという、本日最初のお仕事に行きましょうか」
ニコスが笑いながらそう言って立ち上がったので、レイも嬉しくなって返事をした。
「そのお仕事。ご一緒させていただきます!」
顔を見合わせて、堪える間も無く吹き出した一同だった。
『おはようございますルークです』
『もう起きていますか』
机の上にシルフが現れて話し始めた。
「おはようございます。もう皆起きてるよ。今から朝ごはんを食べに行くところなの」
代表して答えたレイだったが、それを聞いたシルフは驚く事を言った。
『じゃあ早く降りて来いよ』
『俺達はもう食ってるぞ』
「え? どういう事?」
意味が分からなくて首を傾げるレイだったが、状況を察した大人達は揃って吹き出した。
「とにかく降りましょう。話はそこでね」
タキスにそう言われて、頷いて部屋を出て一階の食堂に向かった。
「おはようございます。お皿をどうぞ。お連れの方々は先に来て、もうお召し上がりになってますよ」
笑うバルナルにお皿を手渡されて、驚いて慌てて食堂に入る。
奥の大きな机を占領して手を振る一同を見て、レイは思わず吹き出してしまった。
「おはようさん。本当にここの食事は美味しいな」
「おはようございます。ええ? ガンディにロッカにモルトナ、バルテンさんも。ルーク、これは一体どういう事?」
「おはようさん。いやね、俺はリッキーの旦那のキルトーと飲みに行ったら遅くなってしまってね。それに、お前が帰った後、モルトナとロッカが、また思いついた別の物を作り出したらしくてさ。それがまた上手く出来そうだったもんだから、結局リーザンまで付き合わせてしまってね。彼には今日の午前中はゆっくり休んでもらうように言ってあるよ。だから午前中は試着はお休みだ。あ、俺も結局帰り損なって、ドワーフギルドに泊まらせてもらったんだ」
「それでルークが、レイルズが泊まっておる宿屋の朝メシが美味いと聞いたと言い出してな」
「緑の跳ね馬亭の朝飯なら、美味いのは知っておりましたからな。ならば揃って行ってみますか、という事になりました」
ガンディとバルテンの言葉に、ロッカとモルトナも食べながら笑っている。
「えっと、リッキーは?」
「彼女は、駐屯地の中にある兵舎じゃなくて、ブレンウッドの街の中にご家族と一緒に住んでるんだ。昨日は先に帰ってもらったよ。それに、ここで朝食を取るって連絡はしてあるから、心配はいらないよ」
「そっか、じゃあ僕達も取ってくるね」
お皿を持って、先ずは自分の分の食事を取りに行った。
「ごちそうさま。もうお腹いっぱいだ」
いろいろ少しずつ取り、美味しかったものをもう一度取りに行くという作戦で、気に入った美味しいものばかりお腹いっぱい食べたレイは、大満足でそう言って笑顔になった。
「この、スパイスの効いた鶏ハムは美味かったのう」
「確かに、俺達が作っているのよりもスパイスが効いてるよな。使ってるスパイスは変わらないと思うんだけどな……何が違うんだろう?」
頷きながら、ニコスも最後の一切れを前に考えている。
「砂糖と塩で下拵えをした後、一度洗って塩抜きをするだろ? それからスパイスを振る、しっかり味を染み込ませたらまた洗ってスパイスを落としてから茹でるんだけど、その前にもう一度少なめにスパイスを振りかけて、そのまま綺麗に洗った腸に包んで紐で縛って茹でるんだよ」
背後から聞こえた声に驚いてニコスが振り返ると、料理の皿を交換したエルミーナが、空の大皿を何枚も手にして、そう教えてくれたのだ。
「成る程、茹でる時に、もう一度スパイスを振るんですね」
「そうだよ、でも振りすぎると辛いだけのハムになってしまうからそこは加減してね」
「ありがとうございます、早速やってみます」
「頑張って作ったものを、美味しいって言って残さず食べてもらえるのが作る側にしてみれば何よりのご褒美からね。あんたもしっかり頑張って、家族に美味しいもの作りなよ」
笑顔で礼を言うニコスに、エルミーナも笑って頷くと厨房に戻って行った。
食後のお茶も、各自好きなように入れる。レイとルークはいつものカナエ草のお茶だ。蜂蜜の瓶は届けてもらったのを持って来たので、ルークもそれを使った。
「昨日は言いそびれたけど、外出する時は出来るだけ予備のお茶と薬を持つようにな。昨日みたいな事にならない様に」
「分かりました、気を付けます」
返事をして、温かい蜂蜜入りのカナエ草のお茶を飲みながら、もしそうなると蜂蜜の確保が問題だな。等と呑気に考えているレイだった。
目の前に積み上げられた本の山を見て、テシオスは本日何度目かも忘れた大きなため息を吐いた。
全く納得していないが、父上から当分の間謹慎を言い渡された。しかも、その間にこれを全部読めと言われた。
はっきり言って、こんな事一度も無い。今までは、何かあっても父上が全て収めてくれて、自分は好きに出来たのに。
「一体、なんだって言うんだよ。こんな難しい本、読めるわけないだろうが」
これらは全て精霊魔法の初心者向けの本ばかりで、レイならばあっという間に読破出来る程度の本ばかりだ。しかし、精霊魔法を真面目に勉強した事などあまり無いテシオスに、いきなりこれを読めと言うのはかなり無理があった。
第一、今のテシオスは勉強が嫌でたまらない。既に謹慎を言い渡されて二日が過ぎているが、まだ用意された本は一冊も読めていない。
「ああ、もう嫌だ!」
立ち上がってソファーに倒れこんで、目の前にあったクッションを殴りつけた。
それでも気が晴れずクッションを持って振り回した。何度も周りにあるものを叩き、勢い余ってサイドテーブルに生けてあった花瓶を叩き落とした。
花瓶が大きな音を立てて割れ、床一面が水浸しになる。
「どうなさいましたか?」
世話係の執事がノックをして入って来たので、床を指差して無言で睨みつける。
「坊っちゃま。物に当たるのはおやめくださいと、再三申し上げたはずですが」
きつい声で言われて、そっぽを向いてクッションを抱えた。
「来年には成人なさる年齢だと言うのに、これでは先が思いやられます」
床に飛び散った花瓶の破片を見て、聞こえるように大きなため息を吐く。
「うるさい! さっさと片付けろ!」
苛立ちまぎれに投げつけたクッションは、簡単に受け止められた。いつもなら直立して殴られるのに。
「坊っちゃま。いい加減になさいませ。貴方は赤ん坊ですか? 爺は見ていて恥ずかしいですぞ」
突然大きな声で叱られて、驚いて爺の顔を見る。正面から睨まれて不意に怖くなった。
「な、何だよ。突然……」
無意識に後退りながら、情けない程の小さな声でそう言うのが精一杯だった。
「ケレス学院長からのお話を聞いて呆れました。元老院の議長を代々務める、名誉あるこの家にお生まれになったと言うのに、己の勉学を疎かにして、他人を苛めて喜んでいるとは、恥を知りなさい!」
怖い顔で本気で叱られて、逃げる事も出来ずに別のクッションにしがみつくしか無かった。
「さあ、こちらへ来てお勉強をなさいませ。本日から、旦那様の知人のご紹介で、新たな家庭教師に来て頂いております。今度こそ、しっかり学ばれます事を爺は心から願っておりますぞ」
嫌がるテシオスに構いもせずに腕を掴んで無理矢理立たせると、そのまま本を積み上げた机の横の椅子に座らせた。
入ってきたメイドが急いで床掃除をしている間に、爺は山の中から何冊かの本を選んで、テシオスの目の前に持って来た。
「昔はあれ程に優秀だったし本もよく読まれてのに、いったいどうなさったのですか?」
先程とは一転して、優しい声でそう言われて、俯いてしまった。
「だって、出来ないんだよ……皆、簡単に出来る精霊魔法が、全然出来ないんだ。シルフ達はいつも怒ってるし、あんなに仲が良かった火蜥蜴なんて、最近は顔も見てくれなくなった……」
泣きそうな声でそう呟いて、それきり黙り込んでしまったテシオスを、爺は驚きの目で見つめていた。
幼い頃からシルフと火蜥蜴が見えたテシオスだったが、彼のまわりには精霊魔法が出来るものがいなくて、彼が精霊を見ているという事に周囲が気付いたのは、彼が十二歳を超えてからの事だった。
ずっと家庭教師の元で勉強していた彼は、団体生活をした事が無かったために、個人授業が主な精霊魔法訓練所に一年半前から通い始めたのだ。
しかし、常に甘やかされて何でも出来ると思い込んでいた彼には、全く未知の精霊魔法の世界は怖過ぎた。突然、好きとか嫌いとかでは無く、言われるままに何となくやっていた勉強が苦痛になった。大嫌いになった。簡単に読めていた本の意味が解らない。それが我慢出来なかった。
自分に出来ない事がある。という認めたくない事実は、彼の自尊心を激しく傷つけた。
しかし、父の事を知って近づいて来る者達の話は心地良かった。自分が一番だと思わせてくれたからだ。
周りにそそのかされて、自分よりも身分の低い、弱そうな奴を見つけて苛める快感を覚えたのもこの頃だ。
特に、一般出身の兵士達は絶対に彼に逆らわなかった。
そんな事を続けていたら、気が付いた時には、少しは仲の良かった人達は皆いなくなってしまい、話をするのは、同じ様に周りを苛める奴らばかりになった。いつも一緒にいるのはバルドだけになった。
腹が立って堪らなかった。今まで自分と仲が良かったのに、いつの間にか距離を置いた奴まで、見つけ次第苛めて回った。
物を壊し、相手のせいにする。見えない箇所を殴り、手が当たったふりをして持っているものを叩き落とす。抵抗して来ないと分かっている相手を苛めると、鬱屈していた気分が少しは晴れた。
精霊魔法が出来ないのは自分のせいでは無く、教える教授が下手で馬鹿なのだと思い込む事で自分を守った。
出来ない事実を認める事は、自分の全部が終わる様な気がして怖かったのだ。
「坊っちゃま。何でも完璧に出来る者などおりませんよ。無理だと思ったら、訓練所などやめてしまいなさい。嫌だと一言仰れば、旦那様も無理強いはなさいませんよ」
事実、彼の様な身分で真剣に精霊魔法を習うのは、殆どが軍人の家柄の者だけだ。彼らは小さい頃から騎士としての立ち居振る舞いを教えられ、身体を鍛えて前線で戦う事を名誉と考える。
元老院の議長を務める、ある意味文官の代表とも言える家系に生まれた彼にとって、訓練所での集団生活なんて、する意味を見出せない程度の感覚だった。
「失礼致します。もう片付きましたか?」
そう言って入って来たのは、初めて見る顔だった。
「坊っちゃま。モルトバール様です。新しく来てくださった家庭教師ですよ。ご挨拶を」
そう言われて、一応大人しく挨拶した。
「初めまして、テシオスです」
「モルトバールです。どうぞモルトとお呼びください」
握手したその手は、柔らかく冷たかった。
爺が一礼していなくなった後、二人っきりになるとテシオスのすぐ隣に彼は座った。
「話はお聞きしました。精霊魔法のお勉強に苦労されているとか。大変でしたね」
完全に自信を喪失しているテシオスは、小さく頷くしか出来なかった。
「大丈夫ですよ。私がとっておきの方法を教えてあげます。これなら絶対に出来る様になりますよ」
「本当に!出来る様になるのか?」
目を輝かせて顔を上げたテシオスに、モルトは優しく笑いかけた。
「もちろんですとも。さあ、それではこの子を見てください」
そう言って、そっと彼の目の前に右掌を差し出した。その掌の上には、見た事の無い精霊が座っていた。
『やあ初めまして』
優しそうな声でそう言ったその精霊は、全身真っ黒な色で男性の様な姿をしている。何故か不思議と顔は見えなかった。
「初めまして、君は何の精霊なんだ?」
興味を持ったテシオスが、初めて見る知らない精霊に向かって思わずそう話しかける。
『我の声が聞こえたな。よし、見つけたぞ。依り代となる強き力を持った。なれど弱き者を』
その時、聞いた事の無い声が耳元で聞こえて、突然、真っ黒な精霊が大きく膨らんで彼に襲いかかって来た。
悲鳴を上げて逃げようとしたが、何故か全く声が出ず、動く事も出来ない。
真っ黒な影に抵抗も出来ずに飲み込まれて、そのまま彼は気を失ってしまった。
「思ったよりも簡単だったな。よし、これでこいつは完全に掌握した。こいつを使って、この国の結界に大穴を開けてやるぞ。大騒ぎになるのが目に見えるようだ」
先程、テシオスに話しかけたのとは全く違う、邪悪な笑みを浮かべてそう言うモルトバールの背後には、黒い霧のようなものが一瞬現れて、すぐに見えなくなった。
机に突っ伏して意識のないテシオスを軽々と抱き上げると、側にあったソファーに彼を寝かせる。
それからモルトバールが立ち上がって指を鳴らすと、何かが割れる音がして唐突にテシオスが目を開けた。
「あれ?俺……」
「大丈夫ですか。急にお倒れになったので驚きました。お待ちください、執事を呼びましょう」
心配そうにそう言われて、テシオスは首を振った。
「いえ、大丈夫です。あの……それより、今なら出来そうな気がするので、精霊魔法について教えてもらえませんか?」
元は素直な性格だったのであろう彼の言葉に、モルトバールは大きく頷いた。
「もちろんですよ。私の知っている事、すべてお教えしますとも」
密かに放たれた、聖なる結界を内部から食い荒らそうとする邪悪な存在に、まだ誰一人気付かない……。
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