ふわふわの綿兎達
「おはようございます。着替えるのが全然寒く無くなったね」
顔を洗ったレイが、居間に入って来て皆に挨拶する。
「おはようございます。そろそろセーターも要らなくなりましたね」
「おはようさん。もう、かなり雪も溶けて来とるからな。この冬は、いきなりの雪降りだったが春になるのも早いみたいだな」
タキスとギードが、笑いながら答える。
「おはようございます。さて、食べましょうか」
ニコスが席について、いつもの豪華な食事が始まった。
「えっと、今日は何をするの?」
食後のお茶を飲みながら、レイが窓の外を見る。よく晴れた良いお天気だ。
「いつもの広場のお世話の後は……さて、何をするかな」
「それなら棒術の訓練が良いな。指はもう、すっかり治ったよ」
考えているギードに、ようやく包帯も取れた綺麗な指を見せる。
「少し傷になってしまいましたね。でも、本当に良かったです」
レイの右手を取って、タキスがしみじみと呟いた。
「おろし金と戦った名誉の傷じゃな」
ギードの一言に、全員同時に吹き出した。
「確かに。これからは相手をよく見て喧嘩を売る事だな」
「そうですね。到底勝ち目の無い戦いでしたからね」
ニコスとタキスが、笑いを堪えてそう言うと、また吹き出した。
「ひどい! でもまあ、僕もそう思うけどね」
レイも笑いながら、残りのお茶を飲んだ。
「そう言えば、そろそろ春の大仕事の時期ですね」
「そうだな。これだけ暖かくなれば、もう大丈夫だろう。天気も良いし、行くか?」
タキスとギードが不思議な事を言っている。
隣では、ニコスも頷いている。
「えっと、畑の
春の大仕事と言われたら、それしか思いつかなかったが、違うと言われた。
「そう言えば、レイは初めてじゃな。森へ行くんだが、大丈夫か? 念の為、蒼竜様にもお知らせするが……しかし、あのお方がおられたら、怖がって皆出て来んだろう」
「そうですね。場所の報告だけして、ご遠慮頂くのが良いでしょう」
ギードとタキスはそう言って納得しているが、レイには何の事か分からない。
「畝起こしじゃ無いなら、何をするの?」
不思議そうにしていると、ニコスが戸棚から何か出して見せてくれた。
それは、金属製の掌ほどの大きさの平たい櫛だ。髪を梳かす櫛のようだが、少し違うようにも見える。
「櫛だね。これで何をするの?」
「これは、綿兎の毛を
「綿兎!」
「そう、レイの使ってる毛布やスリッパもそうだぞ」
思わず、手に持った櫛を見つめる。
「でも、何処かで飼ってるの? 家の羊も毛を梳くけど、あれは慣れてるからさせてくれるんでしょ?」
タキスが、レイの持っている櫛を手に取った。
「まあ、それは見てのお楽しみですよ。じゃあ、今日はお弁当を持って森へ行きましょう。いつもはラプトルで行きますが、さすがにまだ、雪が残ってますからレイは無理でしょう。トケラと荷車を出しましょう」
「ええ、もう一人で乗れるよ」
せっかく、ラプトルに乗れると思って期待してたのに、口を尖らせて文句を言った。
「駄目です。まだ、あなたは森の雪の怖さを知りません。いくら言われても、駄目なものは駄目です」
「乗れるのに……」
そっぽを向いて膨れる。
「拗ねないでください。雪が積もっている茂みは、足元が見えない為、本当に危険なんです。いきなり穴や段差に落ちることだってあるし、きついいばらの茂みや、切り株が隠れていることだってあります。そんな物をいきなり踏み抜いて、落ちずにいられますか?」
「……無理」
「でしょ? 別に意地悪している訳ではありませんから、機嫌を直してください」
タキスに向き直ると、まだ膨れたまま小さな声で言った。
「じゃあ、もっと暖かくなって、雪がなくなったら乗ってもいい?」
タキスは、一つため息をついて笑った。
「言いましたよね。雪が溶けたら、って」
何度も頷いて、立ち上がった時には、もうすっかり機嫌を直していた。
「じゃあ、服は何を着たらいい?薄い方のセーターかな?」
カップを片付けていたニコスが、振り返って頷いた。
「薄い方で大丈夫だろう。念の為、マフラーを持っていくと良いよ」
「うん、分かった。じゃあ着替えてくるね」
そう言って、部屋へ戻る後ろ姿を見送ると、タキスはシルフを呼んで、蒼竜様への伝言を頼んだ。
『今日は綿兎の毛を梳きに森の西側の草原へ行きます』
『ですが貴方様が近くにおられては綿兎達が怯えてしまいます』
『どうぞ本日は遠くからご覧くださいますようお願いいたします』
蒼の泉の中で、シルフから伝言を聞いた蒼竜は、つまらなさそうに尻尾を振った。
竜人の言い分は分かる。
確かに綿兎は、とても小さくて弱い。おそらく蒼竜の気配がしただけで、絶対に近寄ってこないだろう。
「仕方がない。ならば今日はシルフ達の目を借りるか」
そう呟くと、水面へ向かって泳いでいった。
服を着替えて、マントとマフラーを持ったレイが居間に戻った時、お弁当を作っているニコスがいるだけで、タキスとギードの姿はなかった。
「えっと、二人は納屋かな?」
「ええ、荷車の用意をしに行きましたので、行って手伝ってあげてください」
頷いて部屋を出ようとすると、呼び止められた。
「待って、レイ。こっちのお茶の用意はもう出来てますから、持っていってもらえるか」
そう言って、大きな籠を渡された。
「分かった、荷車に積んでおけば良いんだね」
受け取ると、今度こそ納屋へ大急ぎで向かった。
「お茶の道具を持って来たよ。荷車に積み込んでおいてってさ。ニコスは今、お弁当作ってくれてます。って、誰もいないし」
荷車がないので、また出遅れたようだ。包んだマントと籠を持ち直すと、大急ぎでギードの家へ向かった。
廊下に荷車の跡が付いている。それからトケラの足跡も。
「これを渡したらお掃除だね」
汚れたところを踏まないようにしながら、小走りに扉を開けた。
「うわ、昨日より、雪が少なくなってる」
一面雪には違いないが、真冬の頃に比べたら、かなり少なくなっている。真ん中の部分など、もう今にも地面が見えそうだった。
「はいこれ、お茶の道具だよ。乗せておいて下さいってさ」
振り返ったタキスに渡すと、マントを玄関の扉の横に置いて掃除道具を取りに走った。後ろで話し声がして、タキスも家に入ってきた。
「廊下の掃除は一人では大変ですから手伝いますよ」
「うん、さすがに全部一人は辛いです」
笑うと、床磨きのための大きなモップを二本取り出した。
「ごくろうさん。俺も手伝おうか」
振り返ると、いつものお弁当の包みと、もう一つ、大きな袋を持ったニコスが笑っている。
「もう終わったよ。今から道具を片付けて来るの」
「そっか、ありがとうな。じゃあ俺は先に行ってるよ」
そう言うと、大きな袋を持ち直して、扉の方へ行った。
「何あの袋?」
「あの袋に、取った綿兎の毛を入れるんですよ。すごい量ですから驚きますよ」
ニコスが笑いながら教えてくれた。
「へえ、あんなに大きな袋に入れるんだ」
感心しているレイは知らない。あの袋の中にも、ぎっしりと同じ大きさの袋が合計十以上入っていて、それが全て満杯になる程取れることを……。
雪が減ったとは言っても、まだ森は一面の銀世界だ。
それでも、日差しは完全に暖かい春の日差しになりつつあるし、新芽の膨らみ出した木々が、あちこちに見られた。
「森にも、ちゃんと春が来てるね」
嬉しくなってそう言うと、三人が揃って頷いてくれた。
「冬の間も木々は死んだ訳では無く、じっと春に備えて新芽や花の準備をしておったんですからな。皆、春を待ちかねておりますぞ」
「そうだな。今年の冬は一気に来たから心配していたが、余計なお世話だったようだな。花が咲くのが楽しみだよ」
「この辺りの木は、落葉樹が多いですからね。新緑の季節はとても綺麗ですよ。私の大好きな季節です」
「僕も春は大好き」
皆で、そんな事を話していると、シルフが現れて喋り始めた。
『蒼竜様から伝言伝言』
『今日は私達がお伴します』
『蒼竜様の目になります』
『声は届いてますので一緒にお話出来ます』
「そっか、よろしくね。ブルー聞こえてる?」
シルフに向かって嬉しそうに話しかける。
『うむ聞こえておるぞ』
一回り大きなシルフが現れて答えてくれた。
「すごい! シルフがブルーの声で喋った」
レイは大喜びで笑っているが、それを見て三人は呆然としていた。
今、彼がやったのは、声飛ばしと言う風の精霊魔法の一つだが、まだ彼には教えていない筈だ。
だが、彼は易々とそれを使いこなし、シルフを通して蒼竜様と気軽に話をしている。
しかも、その蒼竜様の声がそのまま届いている。そんな声飛ばしは見た事も聞いた事も無い。通常の声飛ばしは、頼んだ言葉をシルフが伝えてくれるだけで、話す声はシルフの声だ。
「まあ、さすがは蒼竜様の主だな。時々忘れそうになるが、それこそ特別なのだ。本来なら、我等など近くに寄ることも出来ぬお方なのだからな」
レイに聞こえないように、小さく呟いたギードの声に、タキスとニコスも小さく頷いた。
「着きましたぞ。さてと、呼び集めなければな」
荷車から降りて、袋も下ろす。それから、荷車に積んであった、小さな丸椅子を二つ取り出した。
「組み合わせはどうする?」
袋を手に、ギードがニコスに尋ねた。
「貴方は補助に慣れているでしょうから、レイと一緒にお願いします。私とタキスは、交代で梳く事にします」
「そうだな。無理そうならまた考えよう」
そう言って笑うと、大きな金櫛と袋を持って、レイを手招きした。
「レイ、この椅子に座ってくれ。動くと暑くなるから、マントはいらんだろう。脱いで荷車に置いておけば良いわい」
言われた通りに、マフラーとマントを脱いで荷車の端に置いておく。他の三人も上着を脱いで、腕まくりをしている。
しかし、肝心の綿兎達は、何処にいるのだろう?
不思議に思って辺りを見回していると、ニコスが荷車から、また別の荷物を取り出した。
袋から取り出したそれは、レイには知らない物だ。でも、何処かで見た覚えがある。
「えっと、それは何?」
ニコスが手にしたそれは、木製の、少し斜めの平たい三角形をしているが、全部に細かい細工が施され真ん中が空いている。
しかしそこには細い糸が何本も綺麗に並んでいる。
「あ! それって、精霊王の神殿に行った時に見た、音の鳴る道具……かな?」
「そう、これは携帯用のハープと言って、音を奏でる楽器だよ。今からこれを使って、風の術で綿兎達を呼び寄せるんだ。シルフ、音を届けてくれ」
ニコスは、現れたシルフ達にそう言うと、ハープを抱えて奏で始めた。
まるで、春の日差しがそのまま音になったような、暖かくて優しい音だ。
ぽろりぽろりと指から紡がれるその音は、何重にも響いて、静かな森に響き渡る。
レイは、椅子に座ってその音に聞き惚れていた。
その時、近くの茂みがガサガサと音を立て始めた。
いや、茂みだけではない。横の林も、部分的に積み上がった雪さえも、なんだか騒ついている。
「来たな。じゃあ始めるか」
ニコスが、ハープを置いて座り直した。
その時、雪が弾けた。
「ええ、何、何?」
金櫛を持ったまま、驚いて立ち上がろうとしたら、後ろにいたギードに肩を押さえられた。
「よく見なされ。大丈夫、綿兎共じゃよ」
言われて見ると、辺り一面、綿兎の群れで覆われている。
レイの枕くらいの大きさの、真っ白で耳の長い兎が、キラキラと目を輝かせてこちらを見ている。
突然その中の一匹が、座っているレイの膝に軽々と飛び乗って来た。
「うわあ、ふわふわだ」
背中を撫でてみて、あまりの柔らかさに声を上げる。
「ほれ、その櫛で梳いてあげるんじゃ。待っておるぞ」
ギードが、金櫛を指で突いて教えてくれた。
「そう、上手いぞ」
言われた通り、背中を軽く梳いてみたが、何より驚いたのは一度でものすごい量の毛が抜けた事だ。
「うわっ、何これ」
ごっそり抜けた塊を見て絶句していると、横からギードが手を伸ばして、さっさと抜け毛の塊を掴んで手にしていた袋に放り込んだ。
「ほれ、どんどんやらねば、いつまでたっても終わりませぬぞ」
膝の上の綿兎も、もっとやれとばかりに小さな尻尾を振っている。
「背中からお腹の横側、それが終わったらひっくり返ってくれるので、腹側も取ってやってくだされ。ただし、腹側はそっと優しくな。背中は少々きつくしても大丈夫ですぞ。抜けた毛はワシが横から取ります故、どんどん取ってくだされ」
「分かった。よろしくお願いします」
金櫛を握り直すと、膝の上の綿兎の背中にせっせと櫛をかけ始めた。
コツを掴んだレイは、あっという間に、手早く取れるようになった。
膝の上の綿兎も、気持ち良さそうに脱力している。
「はい終わったよ。降りてください」
脱力の余り、膝から落ちそうになりながらも綿兎は上手に踏ん張っている。
「駄目、君はもう終わり」
綿兎の体をそっと持って足元に下ろしてやる。その直後に、もう次の一匹が飛び上がって来た。
「次は君だね。いらっしゃいませ」
笑って頭を撫でて、また毛を梳いていく。
それからは、延々とひたすら梳き続けた。一体何匹いるのかが、さっぱり分からない。
もう、かなりの数の綿兎を梳いてやったと思うのだが、集まった子達に減った気配は全く無い。
「ほれ、どんどんやらないと、昼飯も食えませぬぞ」
「やだそれ! 分かった! どんどんいきます!」
ギードの重大な脅しに、叫んで返事すると、膝の上の綿兎に集中した。
一面真っ白でもふもふの海の中で、ひたすら無心で毛を梳き続けた。
荷馬車に座ったシルフが、楽しそうにその様子を見つめていたのだった。
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