春の訪れと回復の兆し

 柔らかな日差しが、草原でのんびり草を食む家畜達や騎竜達の上に降り注いでいる。

 明けて三の月に入った途端、日差しが暖かくなり、一気に春の色合いを帯びてきた。



「三の月の始めとは思えぬ程の日差しだな」

「ほんに、眩しいほどだわい。まあ牧草もよく伸びる故、ありがたい話だな」

 牛や羊にブラシをかけながら、ニコスとギードが笑い合う。

 その横では、タキスとレイもラプトル達を拭きながら頷いている。



「はい、これを使ってください」

 タキスが、新しい固く絞った布をレイに渡す。

「ありがとう。はい、これが汚れた方ね」

 使って汚れた布を返して、綺麗な布を手にしてベラの身体を拭き始めた。

 彼の右手親指の傷は、何とか塞がったものの、ちょっとした刺激や乾燥で簡単に傷が開くのだ。

 そのため、親指には常に細い包帯が固く巻かれ。水仕事禁止令が出ている。

 しかし、本人の希望もあって、格闘訓練などは再開している。

 利き腕が怪我している時の対応の仕方や、利き手と反対の手で棒を使うやり方など、怪我の功名で、また新しい事を教えてもらっている。

 お陰で、左腕にも筋肉がかなり付いた。

 食欲は普通にあるし、どこか痛んだり、お腹を壊したりする事もない。

 そして、不思議な事に、怪我をしてから、ぴたりと咳が止まった。

 今の所、ひどい咳も喉の痛みも全く出ていない。

 念の為のど飴は持っているが、この半月ほどの間はおやつとして食べる事はあっても、喉の痛みや咳を止めるために食べた事は一度もない。

「怪我と一緒に咳も治ったみたいだね」

 嬉しそうに笑うと、最後にラプトルの尻尾の先まで拭いてやる。これで今日のお世話は終わりだ。

「はい、お願いします」

 汚れた布をタキスに返して、振り返って寄ってきたポリーを撫でる。

「今日は、久し振りに昼から乗る練習をするからよろしくね」

 ポリーは嬉しそうに一声鳴くと、撫でてくれる手を甘噛みした。

「こらこら、右手は駄目だよ」

 頭を押さえてまた笑った。



 不思議なもので、喉の痛みと咳が止まってしまえば、今までのあの辛さは夢だったのかと思うほどに全く何ともない。

 ご飯は美味しいし、体の柔らかさもすっかり元に戻った。

「元気になってよかった。春になったら畑仕事がいっぱいだって言ってたもんね。楽しみだな。後はこの指が治れば万事解決なんだけどな」

 ポリーに話しかけながら、空を見上げる。見慣れた大きな影がゆっくりと降りて来るところだった。



「おはようブルー、良いお天気だね」

「うむ、怪我の具合はどうだ?」

「もう大丈夫だよ。これはあくまで念の為!」

 包帯の巻かれた右の親指を立てて見せながら、レイは笑う。

「しかし、その傷には、我の治癒の術もあまり効果が無かったのだ。念の為、呪がかけられていないか念入りに調べたが、何ともなかったのだが……やはり心配だ」

 心底心配そうに言うブルーに、レイは笑いかけて大きな額にキスをした。

「もう! 皆、心配し過ぎ! 咳は、ちょっと風邪をこじらせただけ。この傷は、僕が、うっかり寝てて傷口を掻いちゃったから、傷が広がっただけなんだよ」

 首を振りながらおどけて笑うその様子は、元気いっぱいで健康そのものだ。顔色も良く、また背が伸びている。

 もう、完全に三人より大きくなった。

「まあ良い。もう元気になったのだからな。それにしても良く伸びたな。今の身長は、170セルテに少し足りない、といったところか」

 ブルーが、嬉しそうに頬擦りしながら言う。

「そうですね。一度きっちり計ってみても良いかもしれません」

 バケツの水を流したタキスが、戻って来てそう言った。

「どうやって計るの?」

 バケツを受け取って、絞った布を広げながらタキスを見た。

「壁に、まず正確な目盛りを付けて、そこに背中を当てて計るんですよ、今度作ってあげますね。最初から付けておけば良かったですね。そうすれば、ここへ来てからどれくらい伸びたのか分かったのに」

 少し寂しそうに笑って、レイを見上げた。

 正面に立つと、一番背の高かったタキスでも、もう見上げる形になる。

「ここに来た時に着ていた服、ちゃんとおいてあるけど、今見たらびっくりするくらい小さいよ」

「そうですね。本当にあの頃は可愛かった」

 笑って言うタキスに、レイは抱きついた。

「ええ、今はもう可愛くないの?」

「自分より大きな人間は、もう全然可愛くないです」

 笑いながら、腕からするりと逃れて走り出す。

「ええ、待って。それは聞き捨てなりません!」

 レイも、声を上げて笑いながら後を追う。



 身軽さでは断然タキスが有利だ。何度も捕まりかけるが、簡単に逃れて広い草原を逃げ回る。

「何を楽しそうな事をやっとるか」

 ギードが笑いながら立ち上がり、タキスの前に両手を広げで立ち塞がる。

 捕まえたと思ったその瞬間、タキスがギードの肩に手を掛けて、膝に足を乗せると体の上に駆け上がった。そのまま肩を乗り越えて、一気に飛び降りまた走り出す。

「わあ! 危ない!」

 追いかけて突っ込んで来たレイには、同じ事をするのはさすがに無理な芸当だった。

 ギードのお腹に激突して二人揃って見事にひっくり返った。

「タキス凄い! 今、ギードを飛び越えたよ!」

 起き上がって、目を煌めかせながらタキスを呼ぶ。

「何と、今何が起こった?精霊の気配は無かったぞ」

 跳び越されたギードは、驚きのあまりまだ地面に転がっている。

「能ある鷹は爪を隠すんですよ」

 少し離れた大岩の上で、タキスが得意気にこっちを見て笑っている。

 見上げるようなこの大岩も、切り立った正面から一気に駆け登ったのだ。レイには到底出来ない。

「ほう、見事なものだな。黄色の髪の竜人は軽業師の出身か?」

 ブルーも感心したように言った。

「学生時代の、やんちゃの賜物ですよ。門限の有る厳しい寮生活でしたからね。如何に、見張りの門番の目をかい潜って夜遊びするか。というのが、学生達の密かな目標の一つで、皆、それは必死になって工夫していましたからね」

「大学院で一体何を学んでおったのだ」

 立ち上がったギードも笑っている。

「凄い凄い! ねえ、今の教えてよ」

 興奮のあまりぴょんぴょん跳ねながら、レイがタキスにそう言った。

「いまのをやろうと思ったら、まずは足腰をしっかり鍛えて身体のバランスをしっかり保てるようしないとな。これは体幹を鍛える、と言うんだよ」

 ニコスが、そう言いながら後ろからレイの背中を叩いて落ち着かせる。

「今の出来る?」

 振り返ったレイが、輝くような笑顔でニコスに無茶振りする。

「ギードを飛び越えたあれか?まあ出来ると思うが、やってみようか?」

「うん、やって見せて!」

 拍手しながら、レイはブルーの側に座った。タキスも横に来て座る。

「なんだ、ワシは踏み台か」

 ギードが文句を言って、それでも笑いながら先程のように両手を広げて構える。

「ちょっと、さすがに助走が必要だな」

 そう言うと、ニコスがゆっくりと走り始める。先程のタキスのように、草原を半分ほど回ってギードの前に走って来る。

「今度こそ!」

 ぶち当たるかと思われた瞬間、捕まえにきたギードの腕は、空を掴んだ。

 ニコスが、予備動作無しにいきなり真上に飛んだのだ。そのままギードの肩に手をつき、背中側にくるりと一回転して飛び降りた。



「お主はましらか!」



 振り返ったギードが、思わず叫んだのも無理は無い。

「凄い……絶対、今、2メルトは跳んだよね」

「そうですね。しかも飛び越えた時……完全に直立してましたよ」

 見ていたレイとタキスも、驚きのあまり呆然としている。

「これまた見事なものだな」

 また感心したようにブルーが笑った。

「皆、凄いや。僕も頑張らないと」

 戻ってきたニコスに抱きつきながら、レイがご機嫌でそう言った。

「まあ、逃走術とでも言うのかな。護身術の延長で、色んな障害物を飛び越えながら、ひたすら走る訓練があってな。折角だから楽しみたいだろ。それで、二人で街中を走り回ったんだよ。門柱、ベンチ、柵やアーチ、四阿あずまやだって乗り越えたぞ……」



 楽しそうに笑っていたニコスが、不意に口ごもる。



「……まあ、そんな訳で、これも護衛の訓練の内だったんだよ」

「僕もやりたい! どうすれば出来るようになる?」

 ニコスのためらいに気付かず、目を輝かせてしがみつくレイに、少し考えながらニコスが横の林を見た。

「あそこの木で、ちょっと枝を払って……ギード、午後から、何か予定はあるか?」

 いきなり呼ばれたギードは、驚いたが振り返って頷いた。

「いや、特に無いぞ。レイがラプトルに乗ると言っとったから、見ておるつもりだったんだが、何だ?」

「なら、ちょっと手伝ってくれ。折角だから、ちゃんと教えてやりたい」

 ギードの所へ行って、林を指差して何やら相談を始めた。黙って聞いていたギードが、大きく頷き、林を指差してまた話し始める。

 しばらく顔を寄せ合って相談していたが、まとまったらしく、手を打ち合わせて戻って来た。

「これは楽しみだわい。なんならワシもやってみるかな」

「貴方の場合は、主に重量的な部分で無理があると思いますよ」

 ニコスが笑ってギードの背中を叩く。

「どうせ、ワシは踏み台役なんだろう」

 悔しそうに舌を出して、皆で大笑いになった。




 昼食を挟んで、午後からは騎竜に乗る訓練だ。

 とは言っても、もうほとんど乗りこなせるようになっているので、不意に曲がったり、段差のある岩場の乗り方など、色々な場面を想定した訓練をしている。

 草原の端の小川沿いには、大小の岩が転がっている場所があり、訓練にはうってつけなのだ。

「ラプトルは賢いですから、基本的には真っ直ぐ走るだけなら特に指示を出す必要はありません。鞍上で気をつけるのは、不意に動くラプトルの動きに対応して、しっかりバランスを保ち、邪魔をしない事。そうです。上手ですよ」

 タキスが見本を見せてから、実際にまずはゆっくり歩かせる。

 普段は然程揺れないラプトルの背中だが、足場の悪い場所ではそうはいかない。ラプトルは体を大きく動かして、デコボコの岩の間をバランスを取りながら歩くのだから。

 当然その背に乗っているレイは、振り回されて必死でしがみついている。

「無理に力を入れない。そうです、少し力を抜くぐらいが良いですよ。目は常に前を向く事」

 次々とタキスの指導が飛ぶ。レイも何度も落ちかけたが、必死で頑張った。



「かなり上達しましたね。もう、これなら実際に森で乗れますよ。雪が溶けたら、ラプトルに乗って遠乗りに行きましょう」

 タキスにようやく合格を貰えた。

「やった! いよいよ春から一人乗りだぞ」

 ポリーに抱きついて大喜びするレイを、仕方ないな、と言わんばかりに相手をしているポリーを見て、タキス達は笑いを堪えるのに必死だった。



 暖かな春は、波乱続きだった彼らに、束の間の平穏を連れて来てくれたようだ。

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