第126話_戦場に伏す星、流れを止めた水

 レベッカに向かう三本の矢を、イルムガルドはきちんと捕捉していた。そして皆がそれを視認するよりも早く、対応すべく動いていた。

 一本目、イルムガルドが音速を乗せた剣で叩くことで軌道を逸らす。しかし彼女の持つ最後の剣は砕けてしまった。

 二本目、盾ごとその矢に体当たりすることで同じく軌道を逸らした。最初に盾を破損させてしまった際にコツを得たのか、この時の衝撃では盾は破損しなかった。

 しかし、三本目。――間に合わない。既に最初の二本を処理する為に速度が落ちている。また、イルムガルドは盾を装備することで、出せる最高速度が落ちていたのだ。盾を装備したままでは、矢に届かない。そう判断したイルムガルドは、それを腕から外し、可能な限りの速度で走った。そして彼女自身の身体を矢にぶつけた。

 だがその威力は、軌道を充分に逸らすには足らなかった。既にレベッカに近すぎたのだ。確かに逸らせたというのに、当たらない角度にまでは動かせないまま、イルムガルドは矢に弾かれた。彼女は強靭な肉体をしていて、小柄な身体では考えられない程に体重もある。それでも、『人』の範疇を出ることはない。

 弾かれたイルムガルドが地面に落ちるのと同時に、三本目の矢はレベッカを覆い隠していた盾を容易く貫く。そして、フラヴィを強く突き飛ばしたことで体勢を崩していたレベッカの右脇に被弾した。彼女の身体がその衝撃に後方へと吹き飛び、地面を転がっていく。

 ウーシンの腕の中で、フラヴィは真っ青になっていた。数メートルほど転がった後、レベッカがぴくりとも動かない。同じく地面に落ちたイルムガルドも、盾付近まで転がったようだが、立ち上がる様子は無かった。けれどイルムガルドは体勢を変えて膝を付いている。意識があり、動く意志もあるようだ。しかしレベッカにはその気配がまるで無かった。

 フラヴィを抱えたまま、ウーシンは即座に立ち上がってレベッカへと駆け寄った。動きのあるイルムガルドと、無いレベッカ。状態を確認すべき優先を彼女と判断したのだろう。そして傍に立ち、ウーシンは息を呑んだ。地面には既に、レベッカの血が広がっていた。彼女は戦場にも拘らず静かに目を閉じ、表情にも動きは無い。意識が無いようだ。ウーシンに抱えられているフラヴィが、微かに震えた。

「ふ、ざけ、るなよ」

「フラヴィ」

 腕の中で藻掻もがいた彼女の身体を、ウーシンは両腕で抱え直す。直後、フラヴィはその腕から逃れようとするかのように強く暴れ出した。

「ふざけるなよ! 起きろよ!! お前っ、ずっと一緒に居るって言っただろ!?」

 ウーシンは慎重に彼女の身体を押さえ付ける。怪力の能力を無遠慮に使えば、フラヴィの身体を壊してしまう。痛めることが無いように、しかし、決して離さないように。彼の腕から逃れられるはずもないのに、全く理解しないまま、フラヴィは暴れ、ぼろぼろと涙を零した。彼女はもう冷静さを失っていた。

「モカ姉どうするんだよ! 帰りを待ってるだろ! 起きろよ!!」

 彼女の声は隠しようも無く、泣いていた。レベッカを呼び、泣いているのに、地面に横たわる彼女は動かない。ウーシンも呆然とした。どうするべきかの判断が出てこないまま、立ち尽くしていた。しかし彼は、視界の端に光を見付け、条件反射のように顔を上げて息を呑む。

「イルムガルド! 避けろ!」

 更に一本放たれた矢が、蹲ったままだったイルムガルドを狙っていたのだ。ウーシンは咄嗟にフラヴィを下ろし、彼女の元へ走ろうと数歩踏み出した。その瞬間、イルムガルドの姿が消え、矢は無人の地面に突き刺さる。ウーシンが踏み止まると、その近くへとイルムガルドが着地した。

「ごめん、大丈、夫」

 声が少し乱れて震えている。三本目に身体をぶつける為に速度を出し過ぎたのか、もしくは矢にぶつかった衝撃で身体に影響があるのか。顔色を窺おうとウーシンがやや身体を屈めたと同時に、フラヴィがイルムガルドへと掴み掛かった。イルムガルドは数歩後退する。

「お前もちゃんと守ってよ!! レベッカはお前とは違うんだぞ!!」

「やめろフラヴィ! 今そんな話をしてどうなる!!」

 取り乱している彼女をイルムガルドから引き剥がすと、再びウーシンがその身体を抱えた。イルムガルドの目は一度フラヴィへと向けられ、そしてレベッカを見て、微かに眉を寄せた。

「指示を出せ! お前は現場指揮なんだぞ!」

 泣きながら暴れているフラヴィにウーシンが懸命に声を掛けるが、彼女は泣くばかりで何も応えない。

「モカでも良い! どうするんだ!!」

 尚もウーシンが叫ぶ。しかし、通信はずっと沈黙していた。耳を澄ませば小さく職員の声が入っており、「モカ」と、マイクの前に立つはずの彼女を呼び掛ける声も混じっているようだ。しかし、呼ばれている彼女の声は一向に入らない。

 モカは、もう戦場が直視できていなかった。両手で顔を覆い、身体を震わせて俯いている。戦場に伏すレベッカを、見ることが出来ないでいた。その彼女と共に軍用車に入っている職員らは、モカを案じながらも、そちらにばかり手を割けない。イルムガルドらの付近に飛ばしていた小型偵察機からの映像を元に状況を把握し、軍本隊に支援を要請。そしてモカ達の傍で待機してくれている護衛の小隊にも、すぐにイルムガルドらを迎えに行くべく準備を依頼した。特に急務であるのが、状態の分からないレベッカの救護準備だ。

 だが、そんな慌ただしい周りの気配も、おそらくモカの耳には届いていない。

 イルムガルドらは指示を失い、完全に無防備なままで、敵軍の標的となっていた。ウーシンは無意味と知りながらも盾を敵側に構えたままで、フラヴィを腕に抱き、レベッカをその陰に隠している。その隣で、イルムガルドはゆっくりと息を吸った。

「ウーシン、二人を連れて撤退して。わたし一人なら、守りが要らない、全部壊せる」

 新しい攻撃の気配が途絶えても、戦場は静かではない。着実に子らへと迫る戦車の足音が、遠くから唸り声のように響いている。ウーシンはイルムガルドの横顔を驚いたように見つめてから、ぐっと奥歯を噛み締めた。

「またお前を置いて行けと言うのか!?」

 前の敗走を悔やんでいるのはレベッカだけではない。あの時のようにイルムガルドに背を向け、離れてしまってから、また彼女が奪われてしまったら。今度こそ敵は、イルムガルドを攫う為の用意も済ませているかもしれない。前回のように、上手く逃げて来られるとは思えない。しかし、……他の手段が無いのは明らかだった。

「必ず戻るから、今は、レベッカを守って」

 ウーシンは頷けない。けれど、それに強く否と言うことも出来ない。

 ただ、そのイルムガルドの声が、モカに届いた。微かに冷静さを取り戻したのだ。『レベッカ』、『守る』、その二つの単語が、再び彼女に顔を上げさせた。守らなければ。まだ、きっと、生きているのだから。震えたままの身体で、モカは通信用のマイクを引き寄せた。

『――イルムガルド』

 通信に入り込んだモカの声は明らかに震えている。しかしそれでも、気丈であろうとする気配があった。

『深追いはしないで。日が暮れ始めたら、敵がどれだけ残っていても必ず撤退して。そしてあなたが疲労を感じても撤退。それが条件よ』

「従う」

 モカの言葉が途切れると同時にイルムガルドが短く返す。そしてすぐさまイルムガルドはウーシン達から音速で離れ、先程外した盾を拾い上げた。

『ウーシン君、フラヴィとレベッカの二人を連れて撤退して。限界まで軍用車を接近させるわ』

「……分かった」

 低く返したその声には不本意である色が混じる。だが彼の中にあるその感情はおそらくモカやイルムガルドに対する怒りではない。彼はこの状況を打開できる力が自分に無いことが、悔しく、腹立たしいのだ。

 しかし事態は一刻を争う。可能な限り安全な位置で軍用車には乗り込みたい。幸いなのは、ウーシンが作った岩石が所狭しと並んでいる為、撤退用の壁として代用できること。そして二百メートルほど先には大きな岩壁があり、その位置ならばおそらくは安全に車の乗り降りが可能であることだ。

 視線を滑らせてそれを把握し、通信越しにモカと共有しながら、ウーシンは力無く横たわるレベッカを抱き上げる。その腕に確かな体温と、命の気配を感じ、彼は肺一杯に空気を吸い込んだ。

「よし、レベッカはまだ脈がある! 生きろよ! 撤退するぞ!!」

 通信越しに聞くには少々毒なほどに大きな声だったことだろう。だがモカも、職員もその耳を塞ぐことは無い。それは戦場に立つ者達を奮い立たせるものだった。

 イルムガルドを狙った後から、攻撃を止めていた敵軍は、ウーシンが撤退の為に動き始めたところで再度、矢を放ってきた。装填に時間が掛かっていると思われたが、ウーシン達が全く動かなかった為、盾の陰になっている状態では生死を確認できなかったのだろう。これだけ特殊な金属だ。使用数も渋っている可能性はある。無駄撃ちをしない為に、子らの動きを待ちつつ、接近して確実に仕留めようとしていたのかもしれない。

 だが、再開された射撃に対して、イルムガルドは一本たりとも取り零すことは無かった。ウーシンら三名を狙う矢を悉く落とし、逸らした。一度目の射撃の結果を見る限り、この対応は敵も予想していなかったことだろう。イルムガルドが最初に処理しきれなかった理由は、あの矢が未知の金属であったこと以上に、『配置に就く前』だったせいだ。見えている戦車の射程まで十分な距離があるという考えから、それよりも伏兵などを警戒していたイルムガルドは、まだレベッカらの近くに立っていた。その為、矢を逸らすのに十分な距離が無かった。矢の速度も、威力も、軌道を逸らす為に必要な距離も把握した今、撤退するウーシン達を守ることは難しいことでは無かった。先程、レベッカを狙った二本目の矢を逸らした要領で、降り注ぐ全ての矢をいなしていく。

 そうして無事に三名を軍用車に拾わせて撤退させたところで、イルムガルドは逆に敵軍に向かって前進した。

 彼女が普段使う剣はもう二本を砕かれ、戦車などを破壊できる武器は手元に無い。そしてイルムガルドの身体や盾は、そのようなことが出来る強度が無い。

 しかし、彼女らを狙った矢が、そこら中に落ちている。デルカトルムの最強度の金属を砕くほどの、特殊な金属。イルムガルドはその大きな矢を一本、腕に抱えた。それほどの強度を誇るものだ。当然イルムガルドがどれだけの戦車を攻撃してもひしゃげることは無いまま、敵にとっては不幸にも自軍を滅ぼす武器と化した。

 陣形の中に入り込まれてしまえばイルムガルドへと電撃砲を打ち込むことも出来ず、イルムガルドによって敵軍は殲滅された。一両すら残すことなく、全てを、イルムガルドは破壊した。

『……消耗はどうかしら。戻って来られる? イルムガルド』

 生きた者も無く、あちこちで黒煙を上げている敵軍の残骸の中に独りで立つイルムガルドへ、モカが優しく問い掛ける。イルムガルドは腕に抱いていた矢を落とし、小さな相槌を打つ。通信越しには「うん」とも「ああ」とも判別の付かない音だ。そして静かに、のんびりと歩きながら、イルムガルドも撤退した。

 イルムガルドが駐屯地に戻ると、レベッカは既にタワーへと搬送されていた。

 同じ便で、フラヴィも帰されたようだ。彼女は酷く取り乱して、憔悴していた。もしも第二戦が必要となったところで、戦力にはならないと判断されたらしい。

「……無事だな」

「うん」

 ウーシンの問いに、いつになく素直にイルムガルドが答える。回答に、彼女の帰還を待っていた面々がそれぞれほっと息を吐く。映像や、モカの目で無事は見ていたものの、直に姿を見て、声を聞くに勝る安堵は無かった。

「おかえりなさい。今回も、随分あなたに負担を掛けてしまったわね」

 傍に立ち、そう声を掛けたモカを、イルムガルドは見上げなかった。何とも返すことなく、少しだけ首を傾けている。その様子に、モカはただ優しく目尻を下げ、そっとイルムガルドの肩を撫でた。

「レベッカは、大丈夫よ。出血は酷かったけれど急所には当たっていないし、一命を取り止めたわ。本当にありがとう、イルムガルド」

 それでも、モカの声は震えていた。本当ならば彼女こそ、レベッカに付き添って帰りたかったのだろう。けれど彼女の能力を思えば、離脱することは出来ない。前回のようにイルムガルドに万が一のことがあれば、モカの目でそれを確認しなければ情報が得られなくなってしまうのだから。

 結局イルムガルドは、何も応えなかった。体調を問う言葉だけにはきちんと回答するものの、それ以外のことには応じない。そして職員らにどれだけ促されてようとも、アシュリーの携帯食すら半分程度しか取ることは無かった。

 レベッカの搬送に飛行機を使用してしまったこともあり、駐屯地に残った三人が帰還できたのは、それから十八時間が経過してから。その間、職員らに仮眠するようにと言われ、身体を横たえていた三人は、一度も寝息を立てることは無かった。

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