第98話_現実のベッドの上よりも

 半ば廊下を走るように移動しているレベッカを、何か言いたげに見つめる職員の姿はあるが、強く呼び止める様子は無い。彼女がこうして走る場合は大抵、走るに足る理由があり、それを咎めてしまうことにも少々心が痛む。後日きちんと注意はするとしても、今は行かせてやろうと、彼女を知る者ほど思ってしまうのだろう。

 モカの部屋に辿り着くと、レベッカは一度呼吸を整えてから、呼び鈴のボタンを慎重に押した。反応を待つ間に、もう一度端末を確認する。メッセージには、ただ『レベッカ』と、名前だけが書いてあった。来てほしい等とは書いていない。何を求めているのかも分からないが、モカが名を呼ぶから、レベッカは深く考えること無く此処にやって来た。

 しかし、呼び鈴に対して反応が無い。今更ながら、レベッカは考える。モカは寝惚けただけではないだろうか。寝惚けてメッセージを送ってくるような彼女ではないけれど、こんな目的の分からないメッセージを送られたことも無いのだ。

 出直すべきか。もう一度呼び鈴を鳴らすか。でも寝ているならば起こすのは可哀想で。そんな風に思い悩んでいると、扉が開錠される音が聞こえた。聞こえたけれど、三秒待っても、五秒待っても、十秒以上待っても、扉が動かない。

 レベッカは首を傾ける。普段のモカは呼び鈴を鳴らしたら自ら扉を開けて招き入れてくれるけれど、今、その気配が一向に無い。少し迷ってから、レベッカは扉に手を掛ける。ドアノブを回して押せば、やはり扉は開錠されていた。

「モカ? 入るよ?」

 部屋の中は真っ暗だった。開錠したはずの本人の姿が見えない。扉付近にはどうやら居ないらしい。囁くほどに静かにそう告げる言葉にも、返事らしい声が聞こえない。

 開いた扉の隙間から入る廊下の光だけで中を窺うと、モカがベッドに寝そべっていた。おそらく扉はベッドから開錠したのだろう。ベッドには扉の鍵を施錠・開錠できるボタンも付いている。主に緊急時用だ。具合が悪い際に、その状態でも職員や医療班を招き入れることが出来るようにと設置されていた。

 ただし寝惚けて触ってしまうようなことが無いよう、照明のボタンとは違って開錠ボタンにはカバーが付けられていて、そのカバーにはストッパーも付けられていて、寝惚けた状態での開錠は難しい。だから間違いなくモカの意志で開けてくれたのだろうと思うけれど、こんな状態で部屋に招かれたことはレベッカにも経験が無かった。余程、具合が悪いのかもしれない。少し焦りながら、モカの元へと歩く。

「モカ、来たよ」

 寝そべったままのモカの頭を撫でながら、優しく話し掛ける。暗がりでも、微かにモカが身じろいで、薄く目を開いたのが分かった。

「レベッカ……」

「うん、どうしたの。具合悪い?」

「……少し、一緒に、寝てくれる」

 問い掛けに対する回答としては少しずれていたけれど。求められたことは明確だ。レベッカはふっと笑った。

「いいよ、ちょっと待って、着替える」

 一度ベッドの傍を離れ、置きっ放しの寝間着に着替えて、モカのベッドに戻る。レベッカが入り込めば、モカはのんびりとした動作でありながら、はっきりとした意志を持ってレベッカの身体に寄り添う。意外な気持ちでレベッカはそれを抱き止めた。こんな風にモカが甘えてくるのは、珍しい。

 元々、モカは誰に対しても極端に顔を寄せたり、身体を寄せたりしてくるような、スキンシップ過多な方ではある。ただ、それは外での話であって、ベッドの中では少ない。つまり本人や周囲を揶揄う用途では身を寄せるけれど、実際に二人きりになった時にはほとんど無いのだ。あるとすればレベッカを慰める為に触れてくるくらい。今はそれに該当しない。つまり今、甘えているのはモカの方で、それがレベッカには珍しく映る。当然、迷惑などとは少しも思わない。嬉しくて、無性に愛らしかった。

 頬に擦り寄るように押し当てられる額に軽くキスを落として応えていれば、次は上体が密着して、モカの膝がするりとレベッカの脚の間に入り込む。

「お、わ……」

 脚が絡んできただけだったが、レベッカは思わず漏れた自分の戸惑いの声に、少し笑った。驚いた拍子に微かに腰を引いたせいか、引き止めようとするようにモカがレベッカの服を緩く握る。逃げようとしたわけじゃないと示す為に、レベッカは引いてしまった距離を詰め、柔らかくモカの腰を抱き寄せた。

「……レベッカ」

「うん、大丈夫、此処に居るよ」

 やけに弱々しい声だったから、レベッカは極めて優しくそう返してやる。すると徐に顔を上げたモカに唇を塞がれて、レベッカは一層驚いた。モカの方からキスをされることは、唇以外の場所でも、恋人になってからは本当に少ない。「モカの方からして」とレベッカがわざわざ求めた時にようやく、苦笑を浮かべながら軽く触れてくれる程度だ。けれどまた身を引いてしまえば更にモカが不安がるだろうと、驚いた身体にぐっと力を込め、レベッカはその場に留まる。勿論、モカとのキスを嫌と思うわけもないのだから、受け止めながら、モカの背を撫でた。

 押し付けてくる身体といい、モカにしては積極的に重ねてくる唇といい、誘われているのではないかとレベッカは考える。腰を抱く腕にも自然と熱が宿っていく。このまま抱いてしまおうか。思考の端にそんな言葉が横切る。だけどモカの身体はきっと疲れていて、そのような行為に興じるほどの体力は無いと思われた。一時の熱で無理をさせるわけにはいかない。けれどもし、モカの方にも、特別な触れ合いを求める意志があるなら――。

 欲と理性でふらふらとしていたレベッカを欲の方へ大きく傾かせたのは、口内に入り込んできたモカの舌先だった。一度はレベッカの方から求め、拒まれているキスだ。侵入してきたそれが控え目にレベッカの舌に触れると同時に、レベッカは思わず強く彼女の腰を抱き、それに応えようと動いた。しかしその瞬間、唇が離された。モカの手の平がレベッカの肩に触れ、密着していた身体を押し返してくる。

「え、えぇ……?」

 突然の拒絶に、レベッカは大きく目を見開いた。

「ちょっと、ごめんなさい、待って」

「え、何、なんか悪かった?」

「違うの、その」

 否定はしてくれるもののモカは口元を押さえて小さく唸っている。やはり何か応じ方が悪かったのだろうか。不安になったレベッカに対し、モカは声を微かに震わせながら、小さく「ごめんなさい」と言った。

「あの……寝惚け、た、わ」

「えっ嘘でしょ何処から?」

 離れようとしているモカを引き止めていたレベッカの腕が、一気に脱力した。

 確かに彼女らしくない行動は多かったが、寝惚けていると判断するには行動がはっきりし過ぎていたし、長かった。何処からだろうとレベッカが思考を巡らせ、着替える為に離れた時かもしれないと当たりを付けた瞬間、モカはその予想を根底から崩してしまう。

「私、あなたを呼んだ?」

「え……そこから?」

 つまりメッセージを送って今までの間にモカは一度も覚醒していないということだ。尚更、レベッカには信じることが出来ない。一番信じられないのが、扉の開錠だ。

「モカ、扉どうやって開けたの? 開けたの覚えてる?」

「……いえ、覚えて、ないわね」

「危なすぎるから本当にやめて。至急このボタン塞いでもらおう!」

 レベッカがメッセージ直後に来たから良かったものの、先程の話ではないが、アランなどが先に訪ねていればモカは誰とも知らず開錠していたかもしれないのだ。改めて考え、レベッカは頭を抱える。

「っていうか、それだけじゃないよ、本当、危なかった……全然分かんなかったよ、どうやって見分けたらいいの」

 このままモカが覚醒しなければ、熱を上げていたレベッカは危うく彼女を抱いてしまうところだった。確かにいつものモカにしては積極的だったし、モカにしては甘えてきていた。けれどこれから先そのような行動全てを「寝惚けている」と判別するのもどうかと思う。問題は、寝惚けていた時間が長すぎることだ。多少レベッカが我慢して様子を窺ったとして、「寝惚けていない」と判断するまでにどれだけ待てば良いのかが全く分からない。時間を掛けさえすれば本当に覚醒してくれるのかも分からないのだから。

「あの、聞いてくれたら、多分」

「聞くって……『寝惚けてるの?』って?」

 そんな問いをしたところで本当に寝惚けている人間が正しい答えを返すのだろうか。疑う気持ちでレベッカは問い返すが、モカはその試みを効果的だと信じているらしく、何度か頷く。

「そう、そしたら、夢だと思ったりは……」

「へぇ?」

 レベッカの反応に、モカが静止した。失言に気付いたのだ。少しの沈黙の後、小さくモカが唸る。

「……ごめんなさい、今のも、寝惚けたから、わ、忘れて」

「いや無理。夢の中だったらモカはアタシにあんなに甘えてるんだなぁって記憶に焼き付いちゃった」

 要するに、モカはずっと意識が無かったわけではなく、ぼんやりと夢の中だと思い込んで行動していたのだ。だから「寝惚けているのか」を明確に聞けば、夢じゃないのかもしれないと考える切っ掛けになるとモカは考えた。その事実はレベッカを複雑な気持ちにさせた。モカにもこのような意志があることは確認できたとは言え、レベッカがどれだけ求めても、夢の中でなければ応えてくれはしないのだから。

「夢だったらあんなやらしい触り方とかキスまでするんだね~」

「もう、本当に、許してレベッカ、お願いだから」

 いつの間にかモカは両手で顔を覆っている。指先で触れてみれば頬は酷く熱く、耳の先まで熱を持っていた。

「はー、まあ、いいや。この話は今度にしよ。いじめに来たわけじゃないし。モカが盛大に寝惚けるくらい疲れてるんだもんね、もう一回寝よ。もう騙されないから大丈夫だよ」

 やれやれと溜息を吐いてから、レベッカはモカを抱き直して、シーツを引き上げる。そして少し離れていた身体を引き寄せた時、モカが条件反射で身体を強張らせた。

「あ、呼んだのも寝惚けてたんだっけ、アタシ、邪魔かな」

 少し慌てて腰から手を離せば、ひと呼吸を挟んでから、モカは控え目にレベッカの肩へと額を寄せる。

「……そんなこと、思うわけがないわ。少し、驚いただけ」

 先程のように甘えてくれないことを寂しく思いながらも、レベッカは彼女らしい甘え方に笑い、小さな子供にするようにその背をとんとんと優しく叩く。モカが力を抜いてくれるまで、そう長くは掛からなかった。


 一方、アランが検査室に戻る頃には、イルムガルドは検査室の外にあるベッドに寝かされ、点滴を受けながら、隣に座るアシュリーと穏やかに会話をしていた。ただ不釣り合いなのは、彼女の腕には相変わらず、武骨な金属の腕が大事に抱えられていることだ。

「まだ俺と左腕が必要かい、イルムガルド」

 アランが残っている右手を伸ばして取り返そうと試みるも、イルムガルドは眉を顰めて一層強くそれを抱き締め、返そうとしない。苦笑いを浮かべ、アランは仕方なく右手を引っ込める。丁度その時デイヴィッドも司令室から戻り、彼らの様子に同じく苦笑を見せた。

「俺はいつだってレディの心に寄り添っているつもりだが、少し話してくれないと君は難解だよ。どうしたんだ?」

 その問いにもやや不満そうな顔をするだけで黙り込むので、見兼ねたアシュリーがイルムガルドの頭を撫でる。

「イル、アラン君が困っているでしょう?」

「……まもってくれるって言った」

 アシュリーに促されてようやく、イルムガルドはぽつりとそんな言葉を呟いた。

 駐屯地まで逃げ延びてきた彼女を保護した時、アランが言った『俺が守ってやるからな』という言葉を指しているのだと気付いて、アランは目尻を下げる。

「ああ。君のことは俺が守ってやるさ、君だけじゃない、俺は全ての女性の味方だぞ?」

 イルムガルドはじっとアランを見つめている。言葉は返らないものの、普段のつまらなそうな顔とは違って、彼の言葉をちゃんと聞いているのだ。優しい微笑みを浮かべたままで、アランはその視線を受け止めていた。

「だからこそ俺に戦わせてくれ。君たちを脅かした新型兵器、俺がぶっ潰してきてやるよ」

 アランの強気な言葉と対照的に、イルムガルドが小さく眉を下げる。

「帰ってくる?」

「当たり前だろ。お茶をする約束も、まだ果たせていないんだからな」

 彼の左腕を抱く手は、先程よりも力が込められているように見えた。イルムガルドは不安なのかもしれない。自分が対抗できなかった新型兵器の前に、アランを向かわせるということが。いつになく素直にそれを表現している様に、アランは何処か嬉しそうに笑う。

「必ず帰るよ、約束だ」

 そう言ってイルムガルドの前に小指を差し出す。イルムガルドは指切りという、約束を交わす際の風習を知っているだろうか。何かフォローをすべきかと考え、一瞬アシュリーは口を開きかけたが、イルムガルドはすんなりとアランの小指に自分の小指を掛けた。二人が指切りをしている様子が可愛らしかったのだろう、アシュリーは隣で笑っていた。

 そうしてようやく左腕を取り戻したアランは、いつの間にか傍に来ていたデイヴィッドを振り返る。

「司令、何度も申し訳ないとは思っているが、戻らせてくれ。俺に新型兵器を壊させてほしい」

 真剣な眼差しが見上げてくる。戦場にどれだけ執着をしていても、アランは軽薄な様子を必ず外側に纏わせ、それを隠そうとしていた。このように真っ直ぐに向けてきたのは、これが初めてだったのではないかと、デイヴィッドは数拍の沈黙の間に思い返す。

「……お前は熱くなったのか丸くなったのか如何いかんともしがたいが、お前の力が必要であることに変わりはない。すぐに手配をするから、着替えてこい」

「ああ、ありがとう」

 再び戦闘服に着替える為に、アランが検査室を後にする。デイヴィッドも手配の為か急ぎ足でその場を立ち去って、ベッド傍にはアシュリーだけが残された。

「イル、あまり動くと点滴が外れてしまうわよ」

「んー」

 腕の中が空になったことが寂しいのか、イルムガルドはシーツをかき集めて腕に抱いていた。

 きっと、イルムガルドは今まで誰かに「守る」等と言われたことは無かっただろう。声に出す、出さないに関わらず、そのように扱われたことも無かったのだろう。彼女を守ってきたのはいつだって彼女自身だ。そして『史上最強』の奇跡の子としてこの場所に迎え入れられてからは、むしろずっと、誰かを守ろうとしてばかりだ。だから、少なくとも今回に関しては、そんな彼女がアランを『頼った』こと、アシュリーは理由がよく分かると思った。

 一度、イルムガルド不在の時にはっきりと彼女を『守る』と口にしていたレベッカがそんなことを知れば、相手がアランであることも相まって、面白くないと思うかもしれないけれど。

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