第66話_ベッドの中で見失う疑問

「アシュリー」

 薄暗い部屋に隠れるみたいな黒髪が、アシュリーの肌に落ちる。呼ぶ声はいつもに増して甘くて、応じようと思うのにアシュリーは上手く声が出ない。そんな少しの遅れの内にまたイルムガルドが身体を触るから、アシュリーは出しかけた声を逆に抑えようと、思わず手の平で口元を押さえる。イルムガルドが何処か楽しそうに笑う声がした。

「大丈夫? アシュリーって、あんまり声出さないよね」

 体勢を変え、耳元まで伸び上がってきたイルムガルドが囁く。声の甘さにばかり反応して、アシュリーは内容を一瞬聞き逃し、ただ目を瞬いた。

「公衆トイレの時とか、前のアパートなら分かるんだけど。それは癖?」

 手の動きを緩めてくれたので、息を一つ吐いてアシュリーはようやく顔を上げる。イルムガルドは不満を訴えるようではなく穏やかに笑っていたので、単純に疑問に思うだけのようだ。アシュリーが眉を下げて苦笑した。

 確かに公衆トイレは場であるとは言えトイレを一歩出れば普通の路地だし、無関係な人も闊歩しているのだからあまり大きな声を出すのはマナー違反だった。時々そういう娼婦も居たけれど、酷く稀だ。迷惑が外部にまで広がってしまえば流石に取り壊される可能性もあったから、それなりに節度が保たれていた。トイレが異様なほど綺麗にされていたのもその一環となる。そして六番街のアパートも、安いアパートだけに壁は薄く、あまり声を漏らすと近所に対してアシュリーが後々気まずい。イルムガルドも何となく察していたから当時は指摘しなかったのだろうが、今、このマンションに住むようになってもアシュリーが変わらないことに、改めて疑問を抱いたということなのだろう。

「私が、声を出すのって、……わざとらしくない?」

「えー?」

 どうしたってアシュリーが娼婦であったことは変えることの出来ない過去だ。それを、伴侶であるイルムガルドが気にしていないと知っていても、アシュリーの中から消えていかない。

「自分自身も、よく分からなくなっちゃって」

 行為の中、演技以外で声を漏らすのはどのような感覚だったのだろうかと、本人はすっかり混乱していた。仕事以外で誰かと身体を重ねることは、イルムガルドと出会うまで全く無かったせいだ。反射的に声を抑え、呼吸を飲み込んでしまってから、今のを我慢しなければ良かったのだろうかと思い返す。その繰り返し。自分でも『よく分からない』感覚をイルムガルドに上手く伝えられるような気がしなくて、アシュリーはそれ以上を説明しないで少し視線を逸らしていた。それを特に不満にするでもなく、イルムガルドはただのんびりと首を傾げている。

「うーん、わたしはアシュリーの声好きだから、もっと聞きたいって思うけど、でも我慢してるのも、顔とか赤くなって可愛いよ」

「……そういうのも、久しぶりねぇ」

「あはは」

 甘い言葉は生活の中で日々浴びているアシュリーだけれど、新しい言葉は久しぶりに浴びた。油断していたところだったので、声を我慢したわけじゃないのに顔に熱が集まる。両手で顔を覆うアシュリーを、イルムガルドは笑いながら見つめた。

「苦しくないならいいよ、あんまり、無理しないでね」

「ええ、ありがとう」

 ねだるようにイルムガルドが手の甲にいくつかキスを落とすから、アシュリーは顔を隠していたそれを取り除く。まだ少し火照ったままの頬を見つめたイルムガルドが嬉しそうに目尻を下げた。そんな表情はまるで甘やかすようでアシュリーを蕩かせるのに、続けた言葉で彼女を脱力させた。

「それにあんまりいっぱい声出しちゃったら、一晩で喉痛めちゃいそうだよね」

「……あなた毎晩長いものね」

 結婚してからも彼女は相変わらず行為が執拗なままで変わらない。年頃なのか性格なのかは分からないけれど、求められる喜びを知るアシュリーには容易く拒めるものでもなかった。指摘にイルムガルドはまた笑みを深め、反省する顔は少しも見せないまま、アシュリーに唇を落とした。

 そうして今夜もいつもと変わらず長い行為を超え、汗ばんだ身体をイルムガルドが清めてくれるのに甘えた後、アシュリーは暗い天井を見つめてふとイルムガルドを振り返る。

「そういえば、イル」

「んー?」

 行為の後の声は、いつもに増して甘く聞こえる。聞いているアシュリー側の気持ちの問題なのだろうか。それが鼓膜にしっとりと触れるのを待ってから、アシュリーは言葉を続けた。

「慰労会では、奇跡の子全員と会えたんでしょう?」

「あー。そうみたいだね。全員と話したわけじゃないけど。……いや、ほとんど喋ってないかな」

 結局、イルムガルドは多くの子に話し掛けられたが、応じたのはほんの一部だけだ。それ以外は顔を上げる程度で凡そ無視していた。そんな状況を何となく想像できたのか、アシュリーは少し困ったように眉を下げて笑った。

「楽しかった?」

「うーん、まあまあ。でも、わたしを苦手な子が居てね」

「あら」

 意外そうに目を瞬くアシュリーに気付きもしないで、イルムガルドは話を続けながら鼻先をアシュリーの胸に埋めてご機嫌にしている。

「遭遇しないように動くのは、ちょっと気を遣った」

「……そう」

 イルムガルドが慰労会で無意味に歩き回っていたのは、そのせいだ。テレシア自体は消極的な性格をしている為、自ら動き回るようなことは無かったものの、カミラや他のチームメイトが連れ回していたこともあり、イルムガルドは彼女の視界に入らないようふらふらとするしかなかった。

 そんな言葉に、アシュリーは少しの寂しさを覚えるが、胸の柔らかさを楽しんでいる様子に憂いは欠片も見付けられない。WILLウィルの者は、アシュリーの知る限り、皆イルムガルドに優しく、大切にしてくれている。けれど中にはそうではない子も居るらしい。端的過ぎる彼女の言葉からはそれだけしかアシュリーには分からず、どうしても心配な思いがある。しかし、胸に顔を寄せて落ち着いているイルムガルドを見れば、あまり掘り下げる気にもなれなかった。結局アシュリーは、どうでもいい話題へと方向転換した。

「じゃあ、誰か可愛い子は居たの?」

「えー」

 楽しそうにイルムガルドが笑うと、触れている胸が少し揺れる。吐息が掛かった谷間をくすぐったく感じたアシュリーが身を捩るので、イルムガルドは少し顔を上げた。

「アシュリーより可愛い人は、居ないよ」

「そんなこと言って。イルは小さい子が好きだから心配だわ」

「なんかその言い方ちょっとなぁ」

 眉を下げるイルムガルドに、アシュリーがくすくすと笑う。しかし実際のところイルムガルドは年下の子には例外なく好意的な思いを抱いており、フィリップやテレシアに関しては行動にまで表れている。フラヴィに関して一切見受けられないのはタワーに来てから出会っているというのが理由なのだろうけれど、そのようなことを本人は詳しく説明しない為、本当のところは分からない。

「最近は特に若い子が入り易いみたいね、見つかったらすぐだから」

「へー」

 特務機関WILLウィルは五年間ですっかりこの国に定着しており、奇跡の子らが見逃されることはほとんどない。家族であれ、それ以外の誰かであれ、不思議な力を持つ子が居れば誰もがそれを『奇跡の子』かもしれないと考えてWILLウィルへと連絡する。家族にとっては、その子が軍事利用されることになるので躊躇いはあるだろうが、力の制御不能による危険や、世間の目を考えれば報告せざるを得なくなるのは想像に難くない。イルムガルドのように、生きていく中で必要としなかった、または使用する機会の無かった能力を持つ場合にだけ、発見が遅れる。

「赤ちゃんの時に見付かったりしないのかな?」

「ふふ、お仕事できるかしらね」

「んー、職員のお仕事が増えそうだね」

 見つかってすぐということであれば、そのようなケースもあるのではないかとイルムガルドは疑問に思ったらしい。しかし実際そのようなことが起これば職員は今の仕事に加えてベビーシッターまでをこなす必要が出てきて大変そうだ。笑うイルムガルドに釣られて、アシュリーも楽しそうに笑い声を零した。

「噂では、あまりに小さな子は別の施設で管理されるそうよ。でも、ご家族で十分管理できる能力なら仮登録だけをして、正式な配属はもう少し大きくなってからするのですって」

 つまり負担は今タワーで働いている職員ではない誰かが担っているということだ。これが事実であるかどうかはアシュリーには分からないが、少なくとも一般市民の間ではそのような理解となっていた。

「戦場だからなぁ、あんまり、小さい子は嫌だなぁ」

 そう呟くイルムガルドは少し悲しそうに目を細める。子供を可愛いと思う彼女だから、傷付く可能性のある場になど行かせたくはないのだろう。しかしアシュリーの隣で横たわる彼女も、まだまだ少女の域を出ない。この国はそれでも、奇跡の子らを頼りにしている。

 そのことに、アシュリーは不意に違和感を抱いた。この国は世界一の工業大国だ。軍事力も圧倒的で、所有する兵器全てが最先端。他国はそれに対抗する力を全く持たない。一般市民はそう聞いている。

 だが、ならばどうして奇跡の子らが居なければならないのか。

 どうして戦いの上で彼らを『必要』とするのだろう。圧倒的な軍事力を誇っているのが真実であれば、そんな必要は無いはずだ。WILLウィルを立ち上げた発端は、上辺がどうであれまず奇跡の子らを『管理したがった』こと。用途の一つとして軍事利用すれば大きな戦果を上げた為、軍はそれを『重宝』していた。

 しかしいつからか彼らは戦場にに変わった。何か、間に入るべき理由が抜けているように思える。

 彼女の抱いた疑問はこの世界の緩やかなパワーバランスの動き、その端を、見つめてしまったのかもしれない。けれど甘えるように再び胸に頬を寄せてきたイルムガルドを抱き止め、体温に安堵して目を閉じる頃には、捕まえた気がした違和感の欠片は、アシュリーの思考から消え失せていた。


 連日慌ただしく動き続けていた司令室は、この日も朝が近くなるような時間まで多くの職員が出入りを繰り返していた。

「全ての項目、問題ありません」

「よし、良く頑張ってくれた」

 総司令デイヴィッドは受け取った資料を丁寧に確認し、承認していく。彼らはずっと、イルムガルド専用として開発を進めていた戦闘服を他の子らにも適用する為の作業に追われていた。

 新しい戦闘服の耐久テストには、あの日イルムガルドが回収してくれた銃から複製された同等の性能を持つ銃が使用されている。そして先程の報告通り、今日全ての項目をクリアしたことで、あの銃では今の戦闘服を貫くことは不可能であると証明されたのだ。

「まだ全員分の生産には至っておりませんが、生産が完了した分について、試着とテストは完了しています」

「シミュレータは使用したのか?」

「はい、全員、訓練室シミュレータでの動作確認をしました。やはり少し重いようですが、大きな問題はありませんでした」

 戦闘服は各人それぞれミリ単位でのサイズ調整が行われていることや、子によっては特殊な加工が施されていることもあり、生産には一つ一つ時間が掛かる。よって優先順位を定め、まずは強引な帰還命令で呼び戻してしまった子、そして近々遠征の予定が立っていた子の分のみが生産された。

「これでようやく動かせるな。あの子らを思えば、もっとタワーで休息させてやりたいが、……国はそれを許してくれそうにない」

 今回は、内外どちらにも誤魔化しようが無い犠牲者が出た為に帰還は容認された。軍も、不満はあるだろうが、上層部の決定に対して異を唱えることは無かった。しかしそれもWILLウィルがこのスピードで対応することを前提とされていた。デイヴィッドは一度椅子に深く腰掛けると、長い息を吐く。他の職員も当然忙しくはしていたが、彼はほとんど休み無く働いていた。安堵と共に疲れが出たのかもしれない。珍しく、顔色が悪かった。

「司令、少し休まれた方が」

「……ああ、分かっている、大丈夫だ、この手続きが済んだら、みんなも休もう」

 心配そうに声を掛けた職員へ、顔を上げたデイヴィッドは笑みを向ける。総司令官という責任は勿論、彼の肩に圧し掛かっていることだろう。だが彼がずっと感じ続けている重みは、話では無い。彼が背負うのはいつだって、奇跡の子ら一人一人の、掛け替えのない命だ。

「明後日の朝には、また、子供達を見送らなければならない」

 職員らは彼の言葉に、黙って頷いた。WILLウィルとしての再始動は、組織としてあるべき姿なのに、子らを思うほど、それを喜ぶことが出来ない。それでも、もう避けようが無い。だから彼らに出来ることはただ一つ、それに万全を期すだけ。気を取り直したように強く膝を叩いて、再びデイヴィッドは椅子から立ち上がった。

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