第65話_子らが会する大広間

 目測を見誤り、うっかり肘をぶつけてしまった拍子にモカは手に持っていたカップを落として割った。

「あら……」

「モカ、大丈夫? あっ、駄目だって、触んないの、怪我しちゃうよ」

 自室ではなく食堂であったことは、幸いと言うべきだろうか。モカにとっては多くの人に失態を見られたことは不都合であったかもしれない。しかし、レベッカは幸いだと言うのだろう。自分が傍でフォロー出来たこと、そしてモカが無用に怪我をしなかったことを。すぐにレベッカは近くの職員に頼んでほうきとちりとりを持ってきてもらい、割れたカップを片付けた。

「モカさぁ、最近よく、どっかぶつけてる気がするんだけど」

「そう? ぼーっとしちゃっているかもしれないわね、気を付けるわ」

 迷惑を掛けてしまった職員らに謝罪した後、二人は食堂の端のテーブルに向かい合って座る。フラヴィはまだメニューに悩んでいるらしく、カウンター近くに立っていて、此方の騒ぎにも気付いていない様子だ。レベッカは一度その背中を気にするように見て、再びモカをじっと見つめた。

「そんな感じじゃないよ。ねえ、やっぱ前の怪我の時、どっか悪くしてない?」

「検査はして頂いたけど、何も異常なんて出なかったわよ」

「ほんと?」

「本当。そうねぇ、私の言葉じゃ信じられないなら、職員の方にも聞いてみて」

 そう言われてしまうとばつが悪いのか、レベッカは視線をテーブルに落とした。モカは嘘を吐いていない。頭と肩を打った怪我による後遺症は何も無かった。それは事実だ。こととあの時の怪我は、何も関係が無いのだから。

 元々、能力の『限り』によって緩やかに視力が落ち続けていたモカだったが、あの敗戦後、大きく落ちた。怪我との因果関係を医療班も疑い、詳しく検査したのだが、それらの検査では全く異常を見付けられなかった。打撲以外に、彼女の身体には一切の変化が無い。落ちてしまった視力に合わせて当然ゴーグルの度も上げてはいるものの、食事の際や室内では外すことが多く、その時に、レベッカが指摘しているような失敗を繰り返している。今までは緩やかな低下だったから誤魔化せていたものの、今回の変化には流石のモカも少々参っていた。

「……大丈夫って言うなら良いけどさ、困ったことあったら教えてよ」

「勿論。いつも頼りにしてるわ、レベッカ」

 微笑みと共に返る言葉にレベッカは苦笑する。モカはあまり人を頼らない性格だ。こんな言葉を容易く信じることが出来ないにしても、言われてしまえばどうしたって憎めない。そしてフラヴィがカレーライスセットを持ってきたところで、二人のこの話題は完全に終了した。

「今夜の慰労会ってさ、僕ら普通の服で良いんだよね?」

「ええ、そういうお達しだったわよ」

 慰労会。フラヴィの言葉通り、今夜、タワー内でそのような会があるという通達が奇跡の子ら全員に入っていた。先日、デイヴィッドが奇跡の子ら全員に帰還命令を出したことで、今、全ての奇跡の子がタワーに戻っている。WILLウィル発足の初年を除き、このような状態は初めてであることから、慰労会――とは言いつつ、おそらくは奇跡の子ら同士の『交流』の機会として開かれるのだろう。

「いつもの服で良いのは助かったよ~、二人と違ってアタシはあんまり、着飾るの好きじゃないんだよねー」

「何を着ても似合いそうなのに」

「それはモカでしょ~フラヴィも~」

 レベッカはどうやら本気で言っているようだが、フラヴィとモカが目を合わせて苦笑する。華やかな見た目をしているのに、レベッカにはその自覚が全く無い。一方、フラヴィとモカは洋服やアクセサリーを選ぶことが好きだし、互いの髪を色々アレンジして遊ぶようなこともある。いつもレベッカはそれを楽しそうに眺めるだけで、決して仲間には入りたがらない。二人からすればレベッカこそ、服を選ばせてほしいし、髪を触らせてほしい対象なのだろうに。


 慰労会はタワー内にある大広間を使い、立食形式で開かれた。最初に総司令デイヴィッドからの挨拶があり、今までの子供達の働きに対する労いや感謝を、落ち着きのない子供達にも耐えられる程度に短く述べた後、「楽しんでほしい」という簡単な言葉で締め括った。

 モカはこのようなパーティ自体には慣れたものだったが、今夜のものは一番街で経験してきたものと全く雰囲気が異なる。服装はラフな普段着で代わり映えせず、社交辞令も何も無い。むしろ、そんなものを子らが好き勝手に歩き回って、話をしている。一番街では学校の中ですら社交辞令が飛び交うものだったので、モカにとっては今夜のパーティはいっそ未経験な空間とも言えた。

 レベッカなどは始まりからずっと彼方此方へと移動して色んな子と話しているが、モカに至っては開始三十分でもうすっかり壁の花をしていた。彼女もそれなりに社交的ではあるが、元々は静かな性格をしている。一通り顔見知りと会話をした後は、休憩をするかのように、子らが賑やかにしているのを遠巻きに見ていた。

「君が飾ると、壁の花がメインになっちまうぜ、モカ」

「アラン君」

 つい先程まで彼は会場の端で女の子と話していたはずだけれど、いつの間にモカを見止め、移動してきたのだろう。最初にそんな疑問が浮かんで、彼の言葉は後から入ってきた。相変わらずの言葉を冗句と受け止め、モカは柔らかく笑っているものの、実際、壁の花をするには彼女は目立つ。話し掛けに行こうかと迷い、視線を送る子らは少なくなかった。

「君も一つどうかな?」

「あら、ありがとう」

 アランから差し出された皿の上には色んな甘いお菓子が乗せられている。こうして他の女の子にも差し出しているのだろう。少し笑って、モカはクッキーを一つ抓んだ。アランは彼女の隣に並ぶようにして立つと、視線だけを一瞬彼女の横顔に向けた。

「……落ちたのか?」

 何の前置きも無く、アランは呟いた。他の誰にも聞かせぬような小さな声だった。一瞬の戸惑いの後、モカは苦笑を漏らす。彼が何を指しているのかなんて、問う必要は無かった。

「少しね」

 否定をすることは諦めても、「少し」と告げているのは嘘だ。アランもそんなことは分かっているのだろう。だが、彼は眉を下げるだけでそれを指摘しようとはしない。

「心配してるぜ」

 アランは、彼ではない『誰か』の気持ちを代弁した。それが誰であるのかも、やはり、モカは問うことなく分かってしまう。視線でその『彼女』を追うことが出来ずに、目を閉じて俯いた。

「もう少しで慣れると思うから」

「……そういうことじゃない、なんて、俺に言わせる君じゃないと思っていたけどね」

 少し呆れたようなアランの声にモカは淡く笑った。心配してくれる心に応えるのではなく、躱す方にばかり考えるモカの不実を、モカ自身も理解はしていた。しかしモカはどうしても、彼女の状況を周りに伝えて気を遣わせたくないのだ。不安が少しも無いわけではない。けれどモカの周りにいる心優しい友人達はきっと、モカ以上に心を痛めてしまうのだろうから。そんな考えをアランは分かっているのか、軽く天井を見上げただけで非難するようなことは無かった。

「そうだな、心が参っているなら、君の望む方法で慰めようか! 何がいいかな?」

 唐突にアランは嬉しそうに笑い、歌うようにしていつもの軽口を零した。途端、モカの肩から力が抜ける。

「もう十分よ、クッキーありがとう」

「おいおい、俺をクッキーたった一枚の男にするのか? せめて旬のフルーツをたっぷり使った今月話題のタルトをご馳走させてくれよ!」

「それは素敵なお誘いね、どうしようかしら」

 軽口だけで二人が会話をしていると、アランが「おっと」と小さく呟く。応じて顔を上げれば、モカはレベッカと目が合った。急ぎ足で、此方へ移動してきている。

「はは、見つかったか。レベッカの愛は激しいからな。いつだって両腕を広げて全身で受け止めたいところだが……今夜は流石に、他の少女らを驚かせちゃまずい。退散するよ」

 まるで逃げるような言葉を呟いてモカの傍を離れておいて、わざわざレベッカが歩いてくる方向へと進むのだからモカは呆れてしまう。まさかこんな料理や飲み物が並ぶ場でレベッカも殴り掛かったりはしないだろうけれど、アランの煽り方次第ではどうなることやら。

「おい、モカに話し掛けてんなよ」

 一歩分の距離まで近付くと、レベッカはアランを睨み付けて吐き捨てるようにそう言った。当然、アランは目尻を緩めて楽しそうに笑っている。

「困ったな、女性が一人寂しそうに立っていると構わずに居られないよ、俺の使命としてね。しかもそれが特上の美人なんだから!」

 その言葉に苛立った様子を見せたレベッカが何かを言い掛けるが、アランは分かった上で遮るように、ほとんど間を空けずに言葉を続けた。

「だからモカを構われたくないのなら、君が一人にしなければいいんだぜ、レベッカ」

「そんなこと、お前に言われなくても――」

「アラン君」

「おっと、モカにまで咎められちゃ敵わない、またな~」

 少し呆れた色をした声が彼を呼べば、言わんとしていることをすぐに理解してアランはレベッカから離れた。その様子に、レベッカも続けようとした言葉を飲み込む。モカが止めようとしたのは、アランだけではない。レベッカは怒りの中でもきちんとそれを察したらしい。彼女こそ、モカを困らせることは本意ではないのだ。

「お? イルムガルドじゃないか、人気者なのに一人で歩いているのかい?」

 数歩後ろで聞こえたアランの声に、レベッカは再び振り返る。いつの間にか、イルムガルドも近くに来ていたらしい。声を掛けられた彼女は、素直にアランを見上げている。先程モカにしたのと同じようにアランはイルムガルドにも皿を差し出してお菓子を選ばせていたが、レベッカが後ろから睨んでいることに気付いているせいか、軽口を一つ二つ零した程度で、足早に立ち去って行った。その背をぼんやり見送っているイルムガルドを、レベッカが引き寄せる。

「あんなの気にしないで良いから。イル、あんまりアランに近付いちゃだめだよ」

 連れてこられたイルムガルドは貰ったマフィンを齧りながら、無表情でレベッカを見上げている。二人の様子に、モカは少し笑った。

「悪い人ではないのよ、レベッカ」

「モカはそう言うけどさ……」

 レベッカの機嫌は中々直らない。眉間の皺はアランと遭遇してからずっと深いままで、引き寄せたイルムガルドの肩も離そうとしない。一方、巻き込まれた形となったイルムガルドはそれを気にしているのかいないのか、ぼんやりレベッカとモカを見上げながら、無言でマフィンを食べていた。

「ところでイルムガルド、さっきまで色んな人に囲まれたり、フィリップ君に引っ付かれていたりしたと思ったけど……彼は何処に?」

 話題を変えるように、モカは穏やかな笑みを浮かべてイルムガルドに問い掛ける。目が合ったイルムガルドは二つ瞬きをした後で、ふい、と視線を遠くに向けた。その視線の先を辿れば、モカ達が立つ場所から遥か遠くの位置で、フィリップが数名と話をしているのが見える。彼の表情に笑みは無かったが、周りの子らが笑っている様子を見る限り、喧嘩をしているわけではないようだ。彼なりに、他の奇跡の子らとも上手くやっているらしい。

「チームメイトと話してるから離れてきた」

「あらあら」

「後で泣きながら探しに来るよ、多分」

 レベッカの言葉に、イルムガルドはよく分からないとでも言いたげに首を傾ける。フィリップからすれば、タワーに住まないイルムガルドは食堂でも会うことは出来ず、このような機会にはひと時でも長くイルムガルドと一緒に居たいと思っているのだろうに。おそらく、言葉で伝えてもイルムガルドはその心情を理解しない。もうすっかり彼の方には興味を失った様子で、会場全体を眺めていた。

 イルムガルドはアシュリーの手料理以外にほとんど興味を示さない。それ以外は、『取らなければならない』と思うから取るだけだ。その為か、慰労会にはアシュリーの作った夕飯を食べた上で参加していた。並ぶ食事に目をやっても食べることはあまりなく、時々、周りに勧められて口にするだけ。彼女にはこの会場内に何の楽しみも無さそうに思えるが、不思議と逃げ出さずに会場内をふら付いている。

「そういえばイルは今日、なんか服、可愛いね」

「本当に。いつもとは雰囲気が違うのね」

 ようやくマフィンを食べ終えたイルムガルドが顔を上げる。いつもはイルムガルドの身体には大き過ぎるのではと思うようなジャケットに身を包み、そのデザインが男性物に近いこともあって性別すらも誤魔化してしまっているけれど、今日は丈も短く、薄手のジャケットになっていた。その色も淡いものであるせいか、普段と比べて雰囲気が随分と優しい。

「んー、アシュリーが、そういう会なら、これにしろって」

「あはは」

「いい奥様ね」

 今日初めてNo.103を見る奇跡の子らは、イルムガルドのことを『史上最強』と聞いているだけで、他のことはほとんど何も知らないのだろう。せめて見た目の印象だけでも武骨さを失くしてしまいたいとアシュリーは思ったのかもしれない。勿論イルムガルドにはそんな気持ちは伝わっていないのだろうけれど。

「あ、イル、何処行くのー?」

 不意に、イルムガルドは二人の傍を離れてふらふらと歩いて行ってしまう。レベッカが声を掛けても反応は無かった。目的があるとも思えない動きを見つめながら、レベッカは目尻を下げる。

「やっぱりアタシには仔猫に見えるんだよねー。可愛いなあ、何考えてんだろ?」

「ふふ、何かしらね」

 歩く先々で周りからは声を掛けられている様子だが、イルムガルドは顔を上げる程度でどうやらほとんど対応していない。お陰であまり長く囲まれたりはしていなかったらしい。眺めているレベッカの柔らかな横顔を見たモカは、彼女のもう一人のチームメイトを視線で探した。近くには見えない。

「フラヴィは?」

「ん、さあ、どっかで仲良い子と喋ってるんじゃない? アランにさえ絡まれてなきゃいいよ、ああ、アランはまた違う女の子に声掛けてんな……さっき殴って眠らせときゃよかった」

 イルムガルドのお陰で機嫌が直っていたはずだったが、再びレベッカの眉間に皺が入る。とは言え、フラヴィを見付けなくともアランを素早く見付けるその目は何だか面白い。理由は敵意と嫌悪なのかもしれないが、レベッカはアランを見付けるのが誰よりも早いのではないだろうか。勿論、そんな指摘をすれば機嫌を損ねるのだろうから、モカは沈黙してただ横顔を見つめる。モカの視線に気付いて振り向いたレベッカは、不機嫌な表情をすぐに消して、優しく微笑んだ。

「ん?」

「……ううん、何も。私のことは良いから、あなたも皆と話して来たら?」

「あー、いや別に、良いよ。もういっぱい話したし」

「嘘ばっかり」

 アラン以外であれば誰とでも仲の良いレベッカは、慰労会が終わる頃には「全然時間が足りない」と嘆くだろうとモカは予想していた。だからレベッカの今の言葉は少しも信じられない。指摘を受けたレベッカは図星だったのか、子供のように口を尖らせる。

「だって、モカ一人にすると危ないから」

「危なくないわよ、彼は別に、」

「モカが一緒だったら話しに行こうかなー」

 アランのフォローをしようとしたモカの言葉は、レベッカの言葉に飲み込まれて消えて行った。レベッカらしくない我儘に、モカは降参するように肩を竦める。

「分かったわ、じゃあ、次は誰とお話しに行くの?」

 そう言うとレベッカは嬉しそうに笑って、モカの手を引いた。一回り大きな手に包まれた自分の手を見下ろして、誰にも届かぬよう、モカは小さく息を吐く。慰労会が終わるまであと二時間余り。きっとレベッカは最後まで、この手を離してくれないのだろう。

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