第60話_病室を去る心、向かう心

 レベッカが廊下を疾走していた。時間はすっかりと遅い。夜が明ける時間の方が近い程だ。人少ない廊下で、レベッカは全速力だった。偶に遭遇しても、誰もが道を空け、彼女の邪魔にならぬようにと避けていく。彼女の機嫌を取るわけではない。ぶつかって怪我をさせたら罪に問われるからでもない。一刻も早く彼女が目的地へ辿り着けるようにと、誰もが願うからだ。戦場で負傷したモカが搬送され、今、タワー内の病室に居る。

 彼女の後ろで、同じくフラヴィも急ぎその病室へと向かっていた。しかし、全力で駆けるレベッカに、身体の小さなフラヴィが付いていけるはずもなく、随分と引き離されている。だが彼女も、病室へと向かう心は一緒だ。懸命に走っていれば、何処かから走ってきた影が目の前に出た。

「うわ! びっくりした、お前も、来たのか」

 肩で息をしながら、フラヴィが呟く。目の前に出てきたのはイルムガルドだった。どうやら連絡を受け、彼女も駆け付けたようだ。イルムガルドに驚いて立ち止まったフラヴィは、少し息を整えてから、再び走る。能力を使わずともその速度はイルムガルドからすれば随分と遅かったのだろうに、それでも彼女は隣を走っていた。フラヴィの速度に合わせているのだろう。遠く小さく見えているレベッカの背に、追い付こうとする様子は無い。

 そして病室の並ぶ一角へと先に辿り着いたレベッカは、近くの職員に勢いよく駆け寄った。

「モカは何処!?」

「ああ、突き当たりの21番の病室だよ、あ、でも今――」

 番号だけを聞き取ると、何かを言い掛けている職員の声を聞かずにレベッカは走り去る。彼女らしくもない。ありがとうの言葉も残さなかった。その背を見送った職員は、レベッカの無礼に憤るようなことは無かったが、ただ、心配そうに首を捻る。

「あー……大丈夫かな?」

「何が!?」

 遅れて到着したフラヴィが、その職員の独り言を拾った。

「あ、うん、えっとね、先客がね……」

 苦笑いを零しながら、職員は、レベッカに言いそびれた言葉をフラヴィとイルムガルドに告げる。フラヴィは内容を聞くと大袈裟に項垂れてから、イルムガルドを促して慌ててレベッカの後を追った。

 病室に辿り着いたレベッカは、スライド式の扉を開く。音も無く動くそれが開かれたことに、横たわるモカは気付かなかっただろう。しかしベッド脇に立っていたアランは一瞬、視線をレベッカへと向けた。予想していなかった姿に、レベッカが息を呑んで静止した。しかし次の瞬間には、頭に血が上っていた。アランの義手が、モカの手を握っていたからだ。今すぐモカから離れろと、レベッカは彼に凄むつもりだったのだろう。けれど吊り上がった眉も、大きく開いた口も、その怒りを発する前に止まった。モカの手がアランの義手を握り返したのを、見付けてしまったから。

「……アラン君の、この手、冷たくて、ほっとする」

「そうかい? そりゃ良かった」

 幾らか無防備なモカの声。そしてそれに応えるアランの優しい声が病室に柔らかく響いた。レベッカはそのまま口を噤み、何も言わずにその場に背を向ける。遅れて到着したフラヴィとイルムガルドにも、レベッカは目を向けることは無かった。そのまま黙って擦れ違い、病室を離れて行く。二人はその背を見つめながら、何も言わない。フラヴィは何かを言おうとしたのか口を動かしたが、躊躇っている内に、レベッカは見えなくなってしまった。

 アランは彼女が立ち去ったことにも、その後にフラヴィとイルムガルドが病室を覗いたことにも気付いていたが、視線を向けることは無かった。彼の視線は一度レベッカを見た以外、ずっと変わらずモカを見つめており、その表情も、いつもの穏やかな笑みのままで少しも崩れない。だから、彼だけが視界にあるモカは、病室の外については何も気付いていなかった。ゆっくりと息を吐き、繋がっていない方の手の平で、自らの目を覆う。

「痛むのか?」

「いいえ。少し、重く感じるだけ。……役に、立たなかったわ、この目。一体私は何の為に、居るのかしらね、彼らを……私が守らなくちゃいけなかったのに。見えなかった……」

 悔しさを滲ませて奥歯を噛み締める様子を見つめながら、アランは少し眉を下げる。彼の手を握り締めるモカの力は強まったのだろうけれど、彼のその手はもう、そんなことを感じる機能を持たない。だからこそ、今モカは彼の手に縋っているのだろうか。少しの沈黙を挟んでから彼が発した言葉は、彼女の言葉に触れなかった。

「モカ、あまり考え過ぎると眠れなくなるぜ? 君の目は間違いなく疲れているよ。少し眠った方が良いな」

「……そうね」

 容易に慰めを口にしないことは、彼の優しさだ。モカはそれに気付いているから、応えた声が少し柔らかさを取り戻した。

「君が眠るまで、こうして手を握っておいてやるよ。そして目覚めた時には、君の愛しいレベッカが隣に座っているようにしておくからな」

 モカが少し笑う。手は目を覆ったままで、その下の目蓋も下ろされたままだったけれど、口元は僅かに弧を描いた。

「それは、嬉しいわね」

「だから安心して眠ったらいい」

「……ありがとう」

 最後の言葉は小さかった。アランの指摘通り、モカはもう疲れていたのかもしれない。目だけではなく、身体も、そして心も。静かに力を抜いた彼女は、そのまま穏やかに眠り落ちた。アランはしばらくその様子を見守り、彼女が完全に眠ってしまうまで、十数分間じっとそこへ留まる。そして繋がっていた手を解いても彼女が目を覚まさないことを確認すると、静かに部屋を出た。

 部屋の外には、フラヴィとイルムガルドが控えていた。アランは二人に柔らかく微笑む。

「眠ったから、そっとしといてやろうぜ」

 極めて静かに囁かれた言葉に、二人は素直に頷き、三人で病室の前を離れた。辺りからはすっかり人の気配が消えている。先程まで廊下に居た職員も、姿が無くなっていた。

「さて、俺は約束を守る為にレベッカを連れて来なくっちゃな。レベッカは、俺の話を聞いてくれると思うかい?」

「普段の行いが悪いからそういう悩みが出るんだよ……」

 フラヴィの呆れたような指摘に、彼は大袈裟に肩を竦めて楽しそうな笑みを浮かべた。

「いやいや、俺は使命のままに生きているんだ、悪さなんてとんでもないな!」

 明るい声でそう言うと、彼は足取り軽く二人の傍を離れて行った。レベッカの行方など二人には少しも分からない。もう朝も近く、この街ですら人が少なくなっていく時間。流石に部屋に居るのではないかと思うけれど、アランは奇跡の子らの居住域へと向かっていない。二人は、アランの後は追わなかった。

 病室から離れた後、黙々と、会話も無く並んで歩いていたフラヴィとイルムガルドだったが、ふと、フラヴィが足を止める。

「いや、お前どこまで来んの? 家帰るんじゃないのかよ。お前の部屋、もうこっちに無いだろ」

 フラヴィは当然、自室に向かっていた。イルムガルドは帰るのであれば、一階に降りて、タワーから出なければならない。病室のある階よりも上に向かうエレベーターに共に乗った辺りから、おかしいとは思っていたが、他に用があるのかもしれないとフラヴィは特に指摘しなかった。しかし、流石に居住域まで至ると、他に用のある場所が彼女には思い付かない。だが、イルムガルドはフラヴィの言葉に返事をせず、ただのんびりと首を傾けている。

「……もしかして、僕を送ってるつもりなの?」

 重ねて問うも、イルムガルドに反応は無い。フラヴィを見つめること無く、何処か廊下の奥をぼんやりと見つめている。痺れを切らして「何か言えよ」と言えば、ようやく肩を竦めるように動かしてから、イルムガルドが口を開いた。

「あー、後で、レベッカとかに、怒られるから」

 要領を得ない回答ではあるが、フラヴィを送っていることは否定せず、その理由を答えているつもりらしい。レベッカがそんなことで怒るかと言えば否だろうから、今考えた理由なのだろう。フラヴィは長い溜息を廊下に響かせた。

「あ、そう。っていうか、じゃあそう言えよ。何で居るんだと思うだろ」

 そんな文句もイルムガルドには通用しない。聞こえていないような顔で、また何も応えようとはしなかった。結局、フラヴィはそのまま歩き、拒絶すること無く部屋の前までイルムガルドを連れて歩いた。

「僕の部屋ここだから、もういいよ。ありがと」

 折角フラヴィが素直に礼を述べたのに、イルムガルドはうんともすんとも返さずそのまま踵を返して、来た道を戻っていく。何度目となるか分からない溜息を吐き、フラヴィは呆れた目をその背に向けた。

「なあ、イルムガルド」

 数歩彼女が離れたところで、名前を呟く。そう大きな声ではなかったが、完全に無人となった廊下にはよく響いた。イルムガルドが足を止め、振り返る。目が合うと、呼び止めたはずなのにフラヴィは視線を少し下に落とした。

「お前さ、モカ姉の……」

 沈黙が落ちる。フラヴィはその言葉の先を、続けられない。しかし何も言わないままでも、イルムガルドは彼女を咎めようとはしなかった。ただ静かに、フラヴィの言葉を待っている。待たせていると分かるから、言葉を続けようとフラヴィは何度か口を動かした。だが、静かに首を振ったフラヴィは、結局、その先を諦める。

「いや、何でもない。おやすみ」

 一瞬だけ訝しげに目を細めたイルムガルドは、立ち去る時にはやはり何も憂いを残さない。おやすみの挨拶一つも返すこと無く、無感動にその場から離れて行った。

「本当、何考えてんだろ。あれが『可愛い』って言うレベッカの趣味を疑うよ。普通に不気味なんだよな……」

 口を尖らせながらそう言って、フラヴィは部屋へと入り込む。扉が閉ざされ、無人となった廊下を、一度だけイルムガルドが振り返っていたことを、誰も知らない。


 その頃アランは、病室から三つ下の階にある休憩所の一角に辿り着いていた。

「ああ。ようやく捕まえたよ、レベッカ」

「……何か用?」

 彼の姿を睨み付ける目はいつも通りであるようにも見えるし、いつもより鋭さを増しているようにも見える。だがアランがそれを見て対応を変える様子は、当然少しも無い。

「もう朝が近いぜ、女性が一人で歩く時間じゃないだろう? まあ、タワーの中だから、早々危険があるわけじゃないが――」

「うるさいな! 何か用かって聞いてんだろ!」

 呑気な彼の言葉に苛立ちを募らせ、レベッカが声を張る。アランは肩を竦めて、本題を口にした。

「どうして病室から立ち去るんだよ。今のモカに必要なのは君だぜ?」

 その問いに、レベッカは一瞬、回答を惑うように視線を彷徨さまよわせ、沈黙を挟んだ。一度、何かを耐えるように呼吸を飲み込んだ様子に気付いていても、アランが表情を変えることは無い。

「アランに甘えてたじゃん。何でお前みたいなのが良いのかアタシには全く分からない。けど、それでもモカは必要にしてるだろ。逆にどうしてお前が離れて来てんだよ、こんな時でも『一人は選べないから』って手を振り解いて来たのかよ!」

 言い終えると同時に、レベッカは目の前のテーブルを力任せに手の平で叩いた。大きな音が辺りに響き、廊下の遠くまで走り抜けていく。普段通りの彼女であれば、こんな時間に騒ぎを起こすような浅慮はしない。余程、感情が昂って周りが見えなくなっているらしい。アランはそんな彼女に驚くでも、同情するでもなく、ただ眺めているように無感動に見つめていた。

「そんなこと、何でもいいさ」

「あ!?」

 大きな音を聞き付けて、職員が集まり始める。心配そうに二人を窺っている彼らを気にするように、アランは一瞬、視線を向けた。

「俺がどんな理由で離れてこようとも、何だっていい。事実だけを言おう。今、モカの傍には。彼女は病室で一人きりだ。……それで、レベッカは傍に付いていなくていいのかい?」

 レベッカの瞳には怒りの色が濃く表れた。真っ直ぐにアランへと歩み寄り、身体を突き飛ばすように手の平で叩く。その力は先程テーブルを叩いたよりもずっと強いものだ。レベッカよりも上背があり、他の奇跡の子よりも身体をよく作っているアランだったが、彼女のその勢いに負けて数歩下がった。胸を叩かれた衝撃は女性の力といえども強かっただろうに、それでも、アランは表情を崩さない。そんな彼を目にして、レベッカの怒りは増すばかりで、収まるはずもない。

「本当にクズだなお前は!!」

 吐き捨てるようにそう言うと、レベッカは足早に休憩所を離れ、見えなくなると同時に廊下を駆ける足音を響かせた。アランは集まってしまった職員らに「大丈夫だ」「起こしてしまったな、悪い」と柔らかな笑みを浮かべて丁寧に伝え、同じくその場を離れる。

「ちゃんと向かうかを見届ける必要も無いな。素直だね、全く」

 きっとモカが目を覚ます時には、手を大事に握ったレベッカが、一睡もすること無く傍に付いているのだろう。アランはじんじんと痛む胸を手の平で撫でながら満足そうに笑みを浮かべて、自室の方へと足を向けた。

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