芯  奥  Ⅲ

「こら、佐助さすけ!無礼をするでないわっ!徳川様の姫の御前ごぜんであるぞ!」


 いつの間にか来ていた弥右衛門の鋭い叱声しっせいが飛んだ。

 すると、佐助と呼ばれた男は、値踏みをするような一瞥いちべつをわたしに浴びせておいてから、いきなり宙を跳んだ。こちらの頭上高くクルリと回転して、せりだした棚の上に着地すると、ふたたびにやりと笑った。


 佐助は二十四、五歳だと、弥右衛門がわざわざ教えてくれた。

「・・・・体は童のようでも、むちを使いこなしおりましてな。野獣を調教するときに使うものですな・・・・」

 ・・・・鞭の先に尖った針があり、一間いっけん先の物を粉々に砕き、あるいは瞬時に頭蓋ずがいを割ることもできるそうである。数間離れた蝋燭の炎を鞭の先で消したり、木の枝にからめた鞭で木から木へと飛び移るのも自在だと、弥右衛門は説明しながらも、双眸ひとみの奥に宿った鈍い光を見て弥右衛門が佐助を怖れていることまでもがそれとなく伝わってきた。それほどの腕前なのだろう。


「・・・・姫様の護衛にはうってつけの者でございましょう」


 視線をこちらに転じて、弥右衛門は言った。すかさず率直に弥右衛門にいてみた。


「堺では、私はどう振る舞えばいいのでしょう」


 弥右衛門が茶屋衆だとする熊蔵の推論は、ほぼ正しいのではないかとおもえた。なぜなら、このように手際よく大船を手配するなど、やはり茶屋四郎次郎どのの指図さしずと解すれば、おおかたの疑惑が溶ける。彦左は四郎次郎どのの密命を帯びているのだろう。

 すると、四郎次郎どのの上には、誰あろう父家康の指示があったはずである。

 でも、どうして、そんなことをするのか、させたのか。そこからは、こちらの一方的な推測だけれど、わたしに何かの役割というものを担わせようとしているのではないか。そうおもえてきたからこそ、今後の振る舞い方を率直にたずねたのだ。

 驚いた顔を向けて弥右衛門はこちらをじっとうかがった。いつもの哄笑はなく、真顔まがおのまま、うーんと唸った。


「・・・・それは追々お伝え申し上げるとして、まずは、ゆっくり休養なされよ。もう二昼夜ほどで堺につきましょうほどに・・・・」


 弥右衛門の口調は武士のそれに変わっていた。休養せよと言われても、揺れる大船の上では身勝手な言い様としかおもえなかった。



 何日の間、船に乗っていたのかわからない。

 堺の湊で船を降りた。弥右衛門の背負われてしばらく歩き、浜を出ると用意されていた籠に乗せられ、間口の広い商家の前で降ろされた。

 うまやが隣接されていて、その臭いが秋の訪れを告げる風にのって鼻腔に届いた。

 船上ではついぞいだことのない

懐かしいにおいに包まれたとき、思わずわたしは涙ぐんでいた。ふんや尿などのくさいにおいこそ、生きているものが出し、嗅ぐ者もまた生きているという証なのだろう。そんなことまで思念できるようになったおのれに驚いていたのかもしれなかった。


 商家の屋号は〈天満屋〉といった。

 この地で古くから異国との公益で巨万の富を築きあげた豪商の一人であるらしい。浦戸、博多、唐津などのみなとにも拠点を持ち、明国や朝鮮、はては安南、呂宋、交趾などの遠地に赴き、手広く商いをしているそうである。主人は不在で、大番頭が腰を低くして出迎えてくれた。潮焼けした赤ら顔には、商人らしくはない、ふてぶてしいまでの貫禄があった。とはいえ、物腰はあくまでも柔らかい。


「・・・・嘉兵衛かへえと申します。姫様におかれましては、どうぞご懸念なく、いかようなことでも手前どもにお申し付けくださいませ」


「・・・・私は世間というものを知らない未熟者です。そちら様のご迷惑にならなければよろしいのですけれど・・・・」


 すばやく応じると、嘉兵衛はおやっと太い眉を上下させた。それからこちらの眸を覗き込んでから破顔哄笑した。私の返答が気に入られたらしい。


「ひゃあ、なんとも腹がわってございまするな。おのが意思に反し未知の地へいざわれたにもかかわらず、それを丸ごとお受けとめなされようとお決めになられたように察してございます・・・・」


 いや、そうではないと答えた。


「・・・・何も知らないからこそ、近くにられる方々を頼るしかすべはございませぬ。それに・・・・私は阿呆あほうになろうと思います」


 口をあんぐりと開けて嘉兵衛はこちらを見た。また眉が動いた。


「・・・・むしろ、阿呆であったおのれに初めて気づかされたというのが、正直なところでしょうか」


 ふうむと嘉兵衛は吐息混じりに呟いて、優しげな笑みを浮かべてこちらを見た。


「・・・・では、姫様、まだ陽が落ちるまで、がありましょうほどに、近所をご案内いたしましょう」


 そう言うと嘉兵衛は返事を待たずに先に歩き出した。

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