虚  実  Ⅰ

 早くんで欲しいと周りから望まれている大久保彦左衛門は、おそらくそのことを肌身に察して、居心地の悪さを感じていたはずにちがいない。

 けれどそんなことは、おくびにもださず、城のなかを我が物顔で歩き回っては、

・・・・」

と、声をかけ回っていた。

 おそらく〈御殊勝〉と言っているのだろう。侍女じじょがしらささは、

「きっと城の見取り図をかこうと、探っているのでございましょうよ」

と、舌打ちをする。笹は彦左に面と向かって、早く立ち去れとさとしてやったそうだけれど、そのときも彦左は憎たらしくも『御殊勝!』と、応じたそうである。

 

「・・・・あの態度は、姫さまへの面当つらあてのようなものでございますよ」

 

 そんなふうに笹は言うけれど、彦左は小太郎を警戒し、ことさらに挑んでいるようにも思われてくる。笹や侍女らにしてみれば、あたかも青年二人がわたしを巡って競いあっている情況を想像し、そういった複雑な関係の構図そのものを面白がっているようにみえた。


「・・・・姫さまが一度だけ、彦左衛門の想いを遂げさせてやりさえすれば、相手は気がすみましょうに・・・・」


 あろうことか、笹は淫靡いんびな光を瞳にたたえて、そんなことまで言い出すしまつで、後家の笹が対手あいてをしたかっただけなのかもしれない。

 いずれにせよ、彦左と小太郎が喧嘩沙汰にならないことだけを案じていた。けれどその杞憂は、ついに現実になってしまった。

 その日、ザヤザヤと梢のざわめきに似た風が舞っていた。

 いつもとは異なる騒がしい気配というものが、人馬が発する音や声が風に乗って漂ってきたからだった。何事かと侍女を呼ぼうとする前に、血相を変えた笹が、

「ご老公はいずれにおわしますのか!」

と、叫びながら走り回っている姿を見た。休賀斎の老公は、前夜から城を出ている。半蔵さまも居ない。

 駆け寄って笹に伝えると、ついに小太郎と彦左が死闘をはじめたとわめくように言った。


「・・・・熱き血がまっているのですよ。こうならない前に、姫さまがしてさしあげてさえいれば、互いの血もしずまったはずなのに・・・・」


 気が動転しているのか、笹はそんなことまで言い出した。すべての原因が、こちらにあるかのように睨み付けるのだ。


「・・・・いまからでも遅くはございませんよ。順繰りにお相手して・・・・」


「笹、気を確かに持つのです!どこなのです、争っているのは?」


 わたしは動揺している笹の手を引っ張った。ハッとして笹が先導した。きざはしを伝い、転びそうになりながらも中庭へ抜ける隠し道を駆けた。

 人だかりが見えた。

 小太郎と彦左を取り囲むように円陣を作って、固唾かたずをのんで二人を見守っていた。そのほとんどが、傷を追った足軽や老兵だった。菅笠すげがさをかぶり、半身を横たえている者もいた。賄いに従事する里人も混ざっていた。奥平衆の主力部隊は、夫が率いて戦場を駆け巡っているはずなのに、まだこれほどの人の姿がみられるとは意外だった。

 小太郎と彦左の名を呼ぼうとして、ふいに声が止まった。

 その場に満ちていたのは、厳粛なまでの気の揺らぎがもたらす静寂というものであった。それを壊すのは、なにか神聖な場を汚すことになるような心持ちにさせられていた。



 彦左と小太郎は、向き合っていた。

 彦左は得手えての長い槍をしごきながら、小太郎を挑発しているようにみえた。

 小太郎は右手を刀の鍔頭つばがしらにあてたまま、抜こうとはしない。

 微動だにしない。いや、そのようにみえて、おそらく二人はそれぞれに勝機のつかみどころをさぐっていたのだろう。

 小太郎は動かない。

 すると、突然、彦左が槍を投げ捨てて、刀を抜いた。脚をのばしたまま、腰を落とした。彦左の体躯からだから、見えない湯気のようなものが、めらめらと立ちのぼっているようにみえた。そんな技を彦左はどこで習得したのだろう。

 後日、休賀斎の老公は、『おそらく、それは、胎中剣たいちゅうけんであったろう』と、教えてくれた。太中たいちゅう、と呼ぶこともあるのだそうである。おのが体を太い幹と化し、その幹の中にみずからを封じ込めることで、まもり、かつ対手あいての動きに応じて迅速なる一撃を与える必殺剣だそうである。

 一方、向き合った小太郎は、素人目にも、ただ普段のように佇んでいるだけのようにみえた。

 彦左も動かない。小太郎のすきを探しているのか、誘っているのか、わからない。

「でぇやあぁ」

 彦左の一撃が、小太郎を袈裟けさ斬りにした、ようにみえたとおもった刹那せつな、小太郎は二歩半、真後ろに跳び、身を屈めつつ刀を抜いた。

 膝をやや曲げ、ひじを彦左に突き出すように太刀先を地につけるように構えた。

 わたしからは小太郎の刀がどの位置にあるのかは見えない。ただ、小太郎のひじが、彦左を圧しているように思えたのは、錯覚というものであったのか。それとも・・・・。

 そのとき、彦左が叫んだ。

「ふん、しゃの構えとみた。それがしには通じないぞ!」

 わたしの耳には、しゃとも聴こえた。なんとれったいことか。

 と、彦左が跳んだ。

「しゃあぁっ!」

 どちらが発した叫びであっただろうか。

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