序  章 (慈雨 Ⅲ)

 わたしの婚儀が整いかけたとき、兄は猛反対した。

 とつぎ先は、三河作手の城主、奥平おくだいら貞能さまのご嫡男貞昌さだまさどのであった。

 東三河の奥平一族は、もともと今川氏に属していたが、義元公が桶狭間で倒れてのちは、武田信玄しんげん公に服従していたようである。情勢をすばやく見抜いて態度を決めるしたたかな一族であったようだ。


 自らの生き残りをけて、そのときどきの強者にすり寄ることで、安泰の道を探ってきたらしい。しかも、奥平氏は、他者に先駆けて信玄公の急死を突き止め、ついには父家康と手を結ぶ決断を下したのだ。

 驚いたことに、このとき、貞昌どのにはすでに妻がいたというではないか!武田家の人質になっていたらしい。武田家から離反することは妻の生命いのちを棄てることにほかならない。かつて同じように父から棄てられたことがあるわたしには、なにかしら数奇な運命のようなものを感じさせられずにはいられなかった。

 さらに驚かされたことには、殺されるにちがいない妻女の代わりに、


『・・・味方するならば、わが娘、亀を、貞昌にとらせる!』


と、父が約定やくじょうしたことだ。

 この一言が、奥平一族の闘志をかきたたせたというではないか。なんということだろう、わたしの存在が、奥平家の〈欲〉に火をつけたのだ。そのことを考えるだけで、ゾクゾクッと体躯からだの震えが止まらなかった。


 長篠ながしの城に立てこもった奥平衆は、一万五千の武田勢に攻め囲まれてもなお徹底抗戦を続けた。このことが織田・徳川連合軍の戦いを有利に導いたそうである。

 かの信長様も大いによろこび、満足されたらしかった。褒美ほうびとして、貞昌どのに〈信〉字を与えられたほどである。自分の家臣ではない陪臣ばいしんの武将に、信長様が一字贈与することは異例のことであった。

 それ以降、貞昌どのは信昌のぶまさと名乗られることとなった。



 ・・・この奥平信昌どのとの婚儀を伝え聴いた兄は、真っ向から反対の声をげたのだ。


『わが妹を、お亀を、目先の合従連衡がっしょうれんこうの犠牲にしてはなるまいぞ!日和見ひよりみの奥平なんぞ信じるに足らん。いずれ、再び敵に寝返るにちがいない!』


 このようなことを父家康に申し入れた兄は、らちがあかないと知ると、義父にあたる信長様にまで直訴したという。

 けれど信長様は、『・・・身をして戦った奥平父子に対し、きずなを強くするために、われらの同族に列することこそが、人の道であるぞ!』と、一蹴いっしゅうされたそうである。

 われらの同族とは、親戚関係に基づく絆のことだろう。けれども要するに政略結婚を繰り返すというだけにすぎない。そのように兄も感じたのか、憤慨はおさまらなかったようだ。


『なにが人の道か!人質として、敵地にある妻や家来を見殺しにすることが、人の道ではあるまいぞ!』


 このときの兄のいきどおりは、かつて父がわたしたちにした所業に向かっていたのかもしれない。あるいは、まだしばらくの間、わたしを目の届く岡崎の地にとどめておきたかっただけかもしれない。

 いずれにせよ、このような兄の気持ちは嬉しかったけれど、長篠のいくさで岡崎衆を率い側面から父をたすけた兄の武勇が四方よもに響き渡りつつあった時期ということもあり、そろそろわたしも自分の道を歩きはじめる頃かもしれないと思うようになっていた。

 それに、遠く離れたところで、兄の活躍ぶりを見守り続けたいと考えるようになった。かりに奥平一族がこれからの兄の支えになるというのなら、このわたしが奥平の家に根付くことがなによりの兄孝行になるのではないか。そう決心すると、わたしに迷いはなかった。


 奥平信昌どののもとへとついでいったのは、長篠のいくさの翌年、天正四年四月のことで、わたしは十七歳になっていた。

 その日は、朝から雨がぱらついていた。激しくはないが、長く、細く、いつまでも降り続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る