前のエピソード――序　　章　　(慈雨 Ⅰ)

　信長様のご息女徳姫（とくひめ）さまと兄との婚儀が整ったとき、わたしはどんな心持ちでその報（しら）せを受け止めただろうか。

　いまだにはっきりとは思い出せずにいる。

　嫉妬に似た感情が湧（わ）かなかったといえば、嘘になる。けれど、むしろ兄の前途洋々たるさまに称揚（しょうよう）の声を挙（あ）げたことだけは記憶に新しい。

（・・・ようやく兄にも、陽のあたる登り坂を歩む機会が訪れた・・・）

　そのことを我が身のごとく慶（よろこ）び、はしゃいだはずである。

　ちなみに兄は、九歳で元服（げんぷく）し、信長様から〈信〉の一字を与えられていた。父家康の〈康〉字を併せ〈信康〉と名乗るようになっていた。

　どうやらこの新たな名は、兄はそれほど好きにはなれなかったようだ。その心根（こころね）が痛いほど察せられただけに、わたしはずっと〈三郎〉の名を口にしてきた。

『・・・お亀は、いまもおれのことを三郎とよんでくれる。それが、何よりも嬉しいずら。余（よ）の者には判（わか）らないだろうが・・・。ああそう言えば、おまえの〈亀〉という名は、そもそも、父上の初恋の相手だったというぞ！』

　・・・その噂はわたしも耳にしていた。

　母の妹の亀姫さまのほうを父は好（す）いていたという。

　わたしを亀と名付けたのは、妻に対する当てつけだ、という者もいた。

　父と母との間に横たわる越すに越されない大河のようなものだ、と指摘する者もいた。

　名門今川家の血をひく母が、その今川家を滅ぼした父への恨みを捨てきれないために、父が母を叱咤（しった）する気持ちで、あえて亀の字を選んだに違いない、ともっともらしく講釈する侍女（じじょ）さえいる・・・。

　真相というものは誰にも判らないだろう。

　人の興味を引く噂話というものは、当時者の思惑（おもわく）をはずれて、周囲のさまざまな好悪（こうお）の感情が入り混じり、膨（ふく）らんでいくものだから。

『・・・名など無くてもいい。亀であろうが、なかろうが、三郎兄（あに）さまのたった一人の妹というだけで充分・・・』

　そんなことを告げたはずである。菅生川の川面（かわも）から照り返す光を浴びて、兄の双眸（ひとみ）はきらきらと輝いて見えた。

　ふいに兄は羽織を脱ぎ捨てた。

　褌（ふんどし）一枚になって、ドボンと川に飛び込んだ。

『ほどよく冷たいのん。お亀もおいでん。川にはいりん！』

　三河言葉まる出しの兄には、無邪気な一面もある。けれど、はい、と頷（うなづ）けるはずもなかった。無造作に脱ぎ捨てられた衣服を拾い、すばやくたたんだ。

　初夏の蒸（む）せるような若草のにおいを嗅（か）いだような気がした。鼻腔（びこう）を刺激するそれは霞（かすみ）のようにとらえどころがなかった。

『衣を着せておくれん』

　川から這いあがってきた兄の体躯（からだ）を見て、アッと息を呑（の）んだ。背中から右太股にかけて皮膚が縮み膨れたような跡が刻まれていた。

『・・・火傷（やけど）の跡だ。このこと、ここだけの秘密だぞ！』

　あまりの語気の強さに驚かされた。と、すぐに兄は舌を出して、クスッと笑った。いつもの含蓄（がんちく）の笑（え）みだ。

　兄は照れるとそんな表情になる。兄によれば、その火傷を負（お）ったのは、元服前のことであったらしい。

　沸騰した湯釜に向かって、母が突然灰を投げ入れたとき、兄は熱湯を浴びた・・・そうだ。慌てて介抱（かいほう）しようと侍女が水で冷やそうとしたが、あまりの痛さに兄は土間に転げ落ちた。土間の隅（すみ）に積まれていた薪に当たった振動で灰のほこりが舞い上がってからだにかぶさり、膿（う）んで皮膚が爛（ただ）れた痕（あと）らしい。