2. 踵を三回鳴らして
「馬鹿者、早く逃げんか!」
突如聞こえた鋭い声に、万結羅は我に返った。考える前に踵を返し、ぱっと駆け出して来た道を戻りはじめる。ガタガタ、とスーツケースが音を立てて揺れるのも構わず、ただひたすらに走った。
「なるべく人のいないところへ! それでもって、できるだけ相手を引き離せ」
未だ続く、万結羅を急かす低い声。こんなときでなければ耳に心地よいバリトン・ボイスが聴こえる事の奇怪さに、万結羅は思わず足を止めた。
「……ちょっと待って! あなた誰? ……ていうか、何処から……」
きょろきょろと周囲を見回すが、先程と同様誰もいない。それどころか、車道に車一台走っていない。広告用のモニターもない中で、渋い男の声だけがする。
しばらく考えた後、携帯を見た。スマートフォンに着信はない。アプリも動いていないし、音楽も動画も再生されていない。音源となるものがなにもなかった。
なのに、
「なにをしている! 捕まるぞ!」
今なお万結羅を叱咤する声が聴こえてくるのだ。不気味でしかたがない。
しばらくしているうちに、万結羅は携帯にぶら下がったストラップが不自然にもぞもぞ動いていることに気が付いた。
「……まさか、これ?」
携帯を持ち上げて、犬のぬいぐるみを目の前にぶら下げてみる。黒いボサボサな犬の足がわしわしと動いているのを見て、万結羅は携帯ごと落としてしまいそうになった。
「これとは失礼なやつだ。私のことは既にレイシーから聴いているだろうに」
万結羅の驚きもいざ知らず、抗議の声をあげるぬいぐるみ。間違いない。ステキなオジサマボイスはここから発せられている。
「え、ええー!? なんで喋るの!? スピーカー!?」
頭や腹を揉んでみる。ぐえ、だの、ちょ、だの声がするが、万結羅はそれどころではなかった。スピーカーどころか電池ボックスも見当たらない。捏ねても捏ねても綿の感触しかしなかった。
「どうなってるの、これ!」
「馬鹿者! それどころではないだろう!」
びしり、と短い前足で手を叩かれる。痛くない。が、やっぱり驚いた。感心さえした。凄い。よくできてる。なにが、とは言えないが。
なんてことをやっている間に、万結羅は転倒した。歩くこともせず立ったままだったというのに、なにかに足元を取られたのだ。
アスファルトに手をつき、上半身を持ち上げて辺りをきょろきょろと見回す。脚に引っ掛かったものは見つからなかったが、代わりにさっきのパンク女が近づいてくるのが見えた。
「足が速いんだねぇ、お嬢ちゃん」
小馬鹿にしたように女は万結羅を見下ろしながら悠然と近づいてくる。その余裕綽々な態度が気に障った。
万結羅は手をついた状態で振り返ったまま、足元に力を込め、スーツケースの取っ手をしまってベルトを掴む。
「鬼ごっこはもう終わりかい?」
ひゅ、と腕が挙げられる。動作の意味は分からなかったが、無視して万結羅は駆け出した。下らないことに気を取られて足を止めてしまったが、今度こそ逃げる。
「さっきも言ったが、なるべく人のいないところへ行け」
結局正体の判らないイヌが偉そうに指示する。万結羅は今度は足を止めることなく、叫び返した。
「なんで!? 普通こういうときって人のいるところへ行くでしょう!?」
「見られては困るからだ。とにかく、靴を履き替える時間さえできれば良い」
「靴?」
「お前が持つ銀の靴だ」
ぽかん、とする。この短時間で二度目。銀の靴がなんだというのだ。
「これに履き替えてどうするの!」
本当に銀でできていたらそれは高いだろうが、履いたところでなにかが起こるわけでもなし、この窮地でわざわざ踵のないパンプスから踵のある靴に履き替える理由が解らない。
「決まっている。逃げるのだよ」
ますます解せない。頭がおかしいんじゃないか、と万結羅は思った。いや、おかしいのは自分の頭か。ぬいぐるみと話をしているのだから。
「あそこへ行け」
こんな怪しいものはポイしてしまおうか、でもおばあちゃんの贈り物だし……、と悩んでいると、イヌが短い手で前方を指し示した。ビルの谷間に突如として出現した広い空間――公園がそこにあった。
ぬいぐるみの言われるままに、公園の中に飛び込む。子どもが遊ぶのを目的とした、遊具のある公園だ。
入口でいったん足を止め、周囲をきょろきょろと見回して、滑り台に目をつけた。木でできたそれは、階段部分が壁で囲われていて、箱のようになっていた。中はちょっとした高台になっていて、そこから滑り下りる構造になっているのだ。
木の箱に入り込み、屈んで壁に身を隠す。このままやり過ごせないかな、などと思っていたら、イヌが急かし出した。
「早く銀の靴を履け」
「もーわけわかんない!」
「四の五の言わずに、急げ! 追い付かれるぞ」
独り嘆きながら、ぬいぐるみの言われるままにスーツケースを開けて、銀の靴を引っ張り出す。綺麗に畳んだはずの服がぐしゃぐしゃになって、悲しくなった。けれど直す余裕はないので、乱暴に中に押し込めてスーツケースを閉める。それから靴を履き替える。パンプスは手に持つことにした。鞄の中に入れると服が汚れるし、いざってときは、相手に投げつけてしまえばいい。
新しく履き替えた銀の靴は、本当に金属でできているかのようにひんやりとしていた。中は当然硬い。しかも三センチ程度とはいえ、踵もある。こんな靴を履いたところで、逃走の役には立たない――いや、むしろ逆効果。すぐに足が痛くなって、転んでしまうに違いないのに。
半ばべそを掻きながら立ち上がり、履き替えた、と投げやりに言う。
「よし。そうしたら、お前の家を念じながら、踵を三回鳴らして歩け」
「踵?」
「童話でやっていただろう!」
よくわからないのだが、従わなければうるさそうなので、渋々立ち上がり、滑り台の陰から出た。
ガ、と公園の砂利を踵で掘って、自分の家の姿を思い浮かべながら一歩目。
ジャリ、と小石の音を立て、早く家に帰りたい、と思って二歩目。
「跳べ!」
――もう、なにをやっているんだろう。
ヤケクソな気分で自嘲しながら、声に従って、三歩目に跳躍。思いっきりではない。軽く、だ。スーツケースを持っていたし、ちょっと飛び跳ねた程度だったはずなのに。
競技用のトランポリンを跳ねたかのように、万結羅の身体は凄い勢いで宙に投げ出された。隠れていた滑り台がみるみる遠くへ。それどころか公園も小さくなって。驚いたこちらを見上げるあの女の人が見えたと思ったら、地図でも見ているかのように町の区画が判るようになって。
空を、飛んでいた。
「なにこれえぇぇ!?」
思わず悲鳴。ぎゅっと身体が縮こまる。思わず重いスーツケースを手離しそうになって、慌てて手に力を込めた。こんなものが空から降ってきたら、下にいる人たちはひとたまりもない。
「意識を集中しろ。着地に失敗するぞ」
「失敗って!」
スーツケースのように真っ逆さまに墜ちていく自分の姿を想像してしまった。
そんなのは絶対に嫌だ、と首を振った瞬間に、浮き上がっていたはずの自分の身体が落ちていくのを感じて、万結羅の顔は青ざめる。気分は上に放り投げられた球。一度頂点に達して停止した球は、重力に引っ張られてみるみる加速していって――
地面に近づいていくにつれて速度を増していく自分の身体に、万結羅は涙を溢しながら必死で両足を地面に向ける。スーツケースは抱きかかえ、身体を丸めて頭を庇い、できるだけ衝撃を流そうと試みる。
最後の方は目を瞑ってしまった。グッと瞼を閉じた暗い視界の中で、足に強い衝撃を感じる。痺れる脚。だけど銀の靴は、その踵を折ることなくしっかりと地面を踏みしめていた。
着地した。なんかよく分からないけど、無事に着地できた。
生きている事実にへなへなと目を開けて真っ先に見えたのは〝月島〟の表札。確かにそこは自分の家。郊外に建てられた見慣れた一軒家がそこにある。
「ふん。まずまずだな」
振り回すだけ振り回しておいて偉そうに言うイヌのストラップに腹が立ち、万結羅はスマホを力強く握り締めた。
おばあちゃんのプレゼントとか知るか。この犬、今すぐ引きちぎってぶん投げてやる――と、ストラップの紐に手を伸ばしたそのとき、家の玄関が開いた。
顔を出したのは、万結羅と同じく小柄な女性――万結羅の母だ。
「あら、万結羅。早かったわね」
玄関掃除でもしようというのか、箒とちりとりを持った母は、玄関を開けた格好のまま、不審そうに万結羅を見下ろした。
「た、ただいま。お母さん……」
片手に携帯を掴み、まさに紐を引きちぎろうとしていた万結羅は、イヌのぬいぐるみを鷲掴みにしていた左手を放し、ひらひらと手を振った。
「おかえり。どうしたの、そんなところに座り込んで。早く上がりなさい」
呆れた表情で言い放ち、掃除を中断して先に家に入る母。なにやってるのこの子は、と言外にそう言っていた。
家の前の道路に尻餅ついて座り込む十五の娘を見たら、誰でもそう思うことだろう。
「はーい……」
力なく返事して、万結羅は立って尻を払った。
いったいなにをしているんだろう。虚脱した身体でスーツケースを引き摺って、開け放しの玄関の中に入った。
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