銀の靴を打ち鳴らせ!

森陰五十鈴

1. 今日から貴女がこの靴の主

「マユに入学祝いをあげなくてはね」


 たった二人だけのダイニングルーム。チューリップ型のガラスカバーに覆われた白熱電球の照明の下で、アメリカ人の祖母はそう言って、白木のテーブルの下から箱を取り出した。赤いリボンが結ばれただけの、白い厚紙の箱をそっと差し出すと、祖母はヘーゼルの瞳を細めて微笑んだ。


「開けてみて」


 促されて、浮き立ちながら万結羅まゆらはリボンに手をかける。

 蓋の下から姿を現したそれに、万結羅は息を飲んだ。


「これは……」


 まじまじと箱の中身を見つめる。靴だった。高校生になる少女にはまだ早いような気がするハイヒール。しかも、布や革製のものなんかじゃない。暖色の光を受けてなお銀色に輝くそれは、金属でできていた。


「銀の靴よ」

「銀の靴?」


 言葉通りのそれに、万結羅は一度眉を顰めるが、すぐに思い至って、


「あの、〝オズの魔法使い〟の?」

「ええ、その銀の靴。本物よ」


 ドキッとした。浮世離れした雰囲気を持つ祖母は、たまにこうした夢でも見ているような発言をする。


「お話の中では、銀の靴は砂漠に落ちてしまっていることになっているけれど、実際はこうしてこの世界に持ち込まれていたの。私の祖母から母に、そして母から私にと密かに受け継がれてきたのよ」

「へぇ」


 まことしやかに語る祖母に相槌をうちながら、万結羅はその銀の靴を観察した。少女漫画――それも魔法少女ものが好きだった万結羅に合わせて、祖母は昔からこうして『魔女ごっこ』をしてくれた。祖母もこういった話が好きなのか、成長した今でもこのごっこ遊びは続いているのだが、祖母の語る設定は良くできていて、真実味があって面白いので、万結羅も特に止めることなくこうして話を合わせている。


「本当は私も子供に受け継ぐことができれば良かったのだけれど、私が産んだのは貴女のお父さんだけだったから」


 そうして祖母は眉の端を下げて寂しそうに笑った。


「私の家の魔女の力は男の子には継げないもの。危ない物だし、私の代でこの銀の靴を隠してしまうのも良いかと思っていたけれど、マユが産まれたのを見て、それもまた勿体なく感じてね。だから、マユが大きくなったらこれをあげようと、ずっと心に決めていたの」

「危ない物なの?」

「ええ、すごく強い力を秘めているもの。マユも知っているでしょう? これを履いたドロシーは、魔女を倒したばかりか、オズの国を救い、カンザスへと戻ってきた――」


 祖母の笑みが色を変えた。寂しげなものから、悪戯めいたものへ。西洋風な家具を背景にしていることもあって、本当に魔女めいて見えてくるのだから、不思議である。


「もちろん、それだけではないわ。他にもいろいろな力を秘めているの。とても便利だけれども、危ないことにも使えるわ。それに、この靴の力に魅了された魔術師が、狙ってくることもあるのよ」


 おお、と内心感嘆して、万結羅は靴に目を向けた。たしかに珍しい品である。狙ってくるというのも、まことしやかな話に聴こえてくる。


「そんなもの、私が持っていて大丈夫かな?」

「そうね。もしかしたら何かしらのトラブルに巻き込まれるかもしれない。けれど、マユも魔女を継ぐのだもの、自分でどうにかできるようにしなくてはね」


 それから祖母は万結羅の手を取り、自分の両手で包み込むようにして握った。思わず顔を上げた万結羅の褐色の瞳を、ヘーゼルの瞳が覗き込む。


「良い? 心して聴いて。今日から貴女がこの靴の主。貴女は靴の持ち主にふさわしく在らねばならない一方で、他の魔術師からこれを守っていかなくてはならないの。それは、きっとマユが想像している以上に大変なこと。きっと苦難に満ちていることでしょう……」


 なにやら壮大な話だな、と思いながらも万結羅は笑って祖母の話を聴いていた。


「でも、貴女はこのレイシーの孫娘。きっと成し遂げられるわ。どうか心を強く持っていてね」

「はい。わかりました、おばあさま」


 架空の物語の主人公になりきって万結羅も返事をする。

 このときの万結羅は、話を聴かなかったことを後悔する日が来るとは、夢にも思っていなかった。



  ☆ ★ ☆



 帰る際になって、祖母はもう一つ万結羅に贈り物を渡した。シュナウザーのような黒い犬のぬいぐるみがついた携帯ストラップだ。なんだか毛がボサボサしていてみすぼらしい感じがあるが、そこがまた可愛い。


「お守りになるわ。名前はマーレイ。どうかいつも傍に置いてね」

「わかったよ、おばあちゃん。ありがとう」


 せっかくの祖母のプレゼントだし、万結羅も是非そうしたい。掌に収まるサイズだから、少し邪魔かもしれないけれど携帯にでも下げることにしよう、なんて考えていると。


「貴女のはじめての使い魔よ。何か困ったことがあれば、このマーレイを頼りなさい」


 まさかここでも魔女設定が活かされていたので、少しどきりとした。


 別れの挨拶と再会の約束をして、森の中にあるような停留所から路線バスに乗る。お年寄りしかいない乗客に紛れて三十分ほど揺られて、ターミナルの駅へ。そこからは電車。一時間掛けて辿り着いた駅でまた乗り換える。特急と鈍行とあったけれど、お財布事情を考えてここは鈍行。さらに一時間掛ければ、ようやく自宅最寄りの駅へと着く。

 乗り換え時間を含めて考えると、移動だけで半日が終わる。タイミングが悪いともっと掛かる。隣の県なのに、実に遠い祖母の家だ。

 自動車でいけば、一時間と少しなのに。田舎の公共交通機関の不便さに不満が出る一方で、都会と違う車窓の風景は新鮮なので、実はそれなりに楽しんでいたりする。……荷物もあることだし、とても疲れてはしまうけれど。


「それにしても、おばあちゃんの設定もいよいよ手がこんできたなぁ」


 ようやく最後の電車に乗り込んだところで、万結羅はストラップの犬を見ながら呟いた。魔女の家系の背景、女子相伝の銀の靴、犬の使い魔。〝オズの魔法使い〟をベースにした魔女の設定。本当に自分が主人公ドロシーになったのではないかと思ってしまうくらいに、しっかりしていた。


「お話にすると面白いかも」


 だとしたらどんな話になるか――なんてことを、昔からの魔法少女好きで鍛えられた妄想力で想像しながら、移動最後の一時間が過ぎていく。


 数日ぶりに味わう都会の空気。いつでも人で溢れている駅の改札を通りすぎ、エスカレーターを降りずに歩道橋を渡って通りの向こうへ。飲み屋やら会社の事務所やら診療所やらが入るビルの横を歩いていて、ふと万結羅は周囲の異常に気付いた。

 お昼過ぎで路地裏というわけでもないのに、通りを歩いている人が不自然にいない。


「なんか、怖いな……」


 万結羅が住むのは、東京の片隅といえど、天気予報で名前が挙げられるくらいには有名な都市だ。その駅の周辺で、繁華街から外れているとは言っても、まだお昼過ぎ。人っ子一人歩いていないなんていうのは、いくらなんでもおかしすぎる。


「こういう時に、おばあちゃんのいう敵ってやつが襲ってきたりし、て……」


 歩みが止まる。少し先、ビルとビルの合間の小道。万結羅が交差点に出るのを妨げるように、誰かが立っていたからだ。

 ――まさか、変質者。


 こちらを向いて仁王立ちする人影を見て、万結羅は後退る。

 自意識過剰と言われるかもしれないが、小柄で童顔な万結羅は、少なくともクラスの女の子にお世辞で言われる程度には、可愛らしい見た目をしているのだ。まして、今日はお出掛け――祖母の家から自分の家に帰るだけだが――していたから、少し気合いを入れていつもよりも可愛い格好をしている。万が一のことも、ないとは言い切れないんじゃないだろうか。

 思わず身構えた万結羅だったが、その人物が女の人であることに気づいて、警戒を解いていく。しかも相手はパンクロックの格好。ショッキングピンクに髪を染め、上も下も革の服を着て、唇を紫にした女の人が、凡庸な格好をした自分に用事があるとはとても思えない。

 やっぱり自意識過剰だったか、と胸を撫で下ろしたとき。


「ちょいと」


 まさかまさか、向こうからこちらにやって来て、万結羅を呼び止めたのだった。

 偏見だとは思うのだが、あまりに毛色の違う人に声を掛けられて、少々ビビる。でも、道を尋ねるとかそんなんだろうな、なんて思っていたら。


「あんたがドロシーの末裔かい?」

「………………はい?」


 聞き覚えのある予想外な問い掛けに、声が裏返った。空耳? それとも祖母の家にいた余韻が抜けきれていないのだろうか。

 むむむ、と考え込んでいた万結羅を見て、パンクな女性は小馬鹿にしたように鼻で笑った。


「ふん、またずいぶんと間抜けそうなお嬢ちゃんだね」


 ――いや、間抜けなことを訊いてるのはそっちなんだけど……。

 とは、口が裂けても言えなかった。万結羅を襲う変態でなくても、危ない変人であることに間違いない。だったら、いたずらに刺激はしない方が吉。なんとか適当にやり過ごそうとして。


「まあ、いいさ。銀の靴をお寄越し」


 いよいよ決定的な言葉に、万結羅は目を瞠った。


「なんで」


 思わず声が漏れる。

 万結羅が銀の靴を持っていることを知ってるのだろうか。スーツケースの取っ手を握り締める。祖母にもらった入学祝は、箱と一緒にその中にしまってあった。

 万結羅の動揺を見てとったのだろう。女性の紫色の唇の端が持ち上げられる。


「なんでもいいさ。痛い目を見たくなかったら、さあ」


 カツ、カツ、カツ、とリベットの打たれたサンダルのヒールを鳴らして、女は万結羅の元へ来る。彼女の浮かべる酷薄な笑みに、言い様の知れない恐怖を覚えて、万結羅はその場から動けずにいた。

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