第3話 英語の時間

 ――翌日、早朝。


 朝も早い時間から目が覚める。目覚ましよりも早く目が覚める。


 早起きをする理由として、今日は一限目から授業がある日だから。

 しかしもっと重要なのは、彩加が泊まりに来ているという事だ。

 大学の講義をサボるのは仕方が無いとして、幼稚園に通う彩加を勝手に休ませる訳にはいかないからだ。


「おい起きろ彩加ぁー、さっさと準備して幼稚園のバスに間に合わねーと俺が詩織さんにどやされっからー」


 ぺちぺちと軽く頬を叩いて眠気を飛ばしてやると、間もなく少女は勢いよく飛び起きた。


 目覚めが良いのはありがたい事だが、あまりガバッと目覚められてもびっくりする。


「おはようございます……今日はなっくんのお家です」

 自らの居場所を的確に把握すると、そのままトコトコと洗面所に向かう。


 バチャバチャバチャ!


 豪快にしぶきを上げて洗顔を終わらせた彩加は、すっきりした顔で笑顔を見せる。


「なっくん、おはようございます」


 朝の挨拶はさっきも聞いた。


 それよりもビショビショのまま歩き回る癖をなんとかして欲しい。顔だけでなく、腕や足先までも器用に濡らすのは勘弁してもらいたい。


「おう、それよりそろそろ拭くことを覚えろよな」


 でかいタオルで彩加と床を拭いてやり、それから朝食にする。


 彩加は好き嫌いが少なく、何でも食べるから作る身としてはありがたい。


「驚きです、ウインナーがたこさんではありません」


「いやそれ最初はたこの形してたんだけど、そいつが急に足閉じちまってよー」


「なるほど、ならば仕方がありません」


 他愛も無い会話を交わしてから再び洗面所に行き、今度は歯を磨く。


 着替えを済ませて荷物を持って、裏手にある彩加の家で着替えをさせてしばらく経つと、幼稚園のバスが到着しそれを見送る。


 ブロロロォオオオ。


 慌しい朝の仕事が終わって一息つきたいところだが、これから授業がある為そうもいかない。もう完全に目が覚めてしまったので、今更帰って寝る気にもならない。


「チッ、しょーがね、早めに行くか」


 舌打ちして、気だるそうに歩いて大学へと向かった。



 ――教室。


 一限目は英語だ。グローバル精神の無い日本人なのに英語を学ばなければいけないのは、それが皮肉な事に必修科目だからである。


 少人数でやる上に、担当の教員がやたらと発音やら単語の意味やらを指名して聞いてくるので、出席だけして寝てれば良い楽な講義では無い。


 始業までまだ時間もあり、教室には他に誰も居ない。


 カチャ。


 始まりのチャイムが鳴るまで何をしようかと考えていた時だ。ゆっくりとなるべく音を立てないようにドアを開ける小さな音が聞こえた。


「…………」


 教室の中に入ってくる時も同様に、出来るだけ物音を立てないようにカチャンと律儀にドアレバーをひねりながら入室する。


「んっ?」


 他に誰も来ていない教室。そして遅刻したわけでもないのに慎重に入室する様を見て、ついついその人物を目で追っている内にふと気が付いた。


 背の小さな女の子。髪が長い女の子。どこか気の弱そうな女の子。

昨日会った女の子だ。


 ペコリ。


 目が合った女の子にお辞儀をされる。今はサングラス越しではなく、本当に目が合ったのでこちらも釣られてお辞儀を返す。


 同じ講義を取っていた子だとは知らなかった。いや、この女の子の存在は知っていたのだが、顔までは覚えていなかったというべきだろう。


 スタスタ。


 小さな歩幅でちょこちょこと前方の席へと向かい、着席。


 翔は大抵真ん中の列の端辺りに座る事が多いのだが、この子はいつも教壇寄りの場所に座っているのを思い出す。


 大学の講義なんてものは中学や高校とは違い、基本は席なんてどこでも良いのだから好き好んで前に出て行く必要は無い。少人数の講義なら尚更だ。大抵そういうのは友達が居ないから人が少ない場所に行きたがる奴か、授業に対して妙に意欲的な奴と決まっている。


 だが、この女の子にはそれとは別の理由があった。


 ガララララッ!


「うおぉおおっとぉ! 何だ何だぁあ、今日はやけに人数少ないじゃないかぁあ!」


 ガッハッハと大笑いしながら入室してくる声も身の丈も大きな男性。一限目の朝っぱらから高いテンションの英語担当教員である。


まだチャイムも鳴っていないのだから人数が少ないのは当然だ。多くの学生は駆け込みで教室に入ってくる傾向がある。さらに一限目なら遅刻してくる者も珍しくは無い。


 タタッ。


 教員が来たのを確認してから、女の子がそちらに駆け寄って行く。


「どうしたぁあああ鎮目ぇ?」


 無駄に活力のある声を出す教員に対し、ちょっとビクッとする女の子。鎮目である。


 鎮目はどこか申し訳無さそうに、半分に折りたたまれたプリントを教員に渡す。


「おぉおっとぉお何だぁあ?」


 渡されたプリントをフンフンと拝見する教員。


 読み終えた後に「おぉおけぇえい!」と英語担当の教員らしく(?)受け答えてから、出席簿に何やら書き込んでいく。


 それを書き終えた直後、顔を上げると同時にビシッとこちらを指差した。


「一人じゃ何かと大変だろう、今日は佐藤の隣で授業を受けろぉおおい!」


 迫力のある動作にまたもやビクッとしつつも、鎮目は小さく頷いてからカバンを取りに行き、ちょこんと翔の隣に着席する。


『きょう中村さん休みなの ごめんね』


 座って早々に、プリントの隅っこに書いた文字をこちらに見せてきた。


 まるっとした文字。きれいで読みやすい字。


 おそらく中村さんとやらは、いつも鎮目の隣で授業を受けている女子の事だろう。


 それに対し、翔も同じく文字を書いて返答する。


『べつにあやまんなくていーって』


 スッとそれを見せると、鎮目は若干焦りながらすぐさま返事を返してきた。


『私 耳は聞こえるからふつうに話していいよ』


そうだったのか。


 翔は鎮目の事をあまりよく知らなかった。


 小さな女の子。髪の長い女の子。気の弱そうな女の子。声が出せない女の子。


 何度か隣に座っていた中村と手話で会話しているのを見かけた事があるので、てっきり耳も聞こえないものだと勝手に決め付けていた。


「お……おぅ」


 力無く返答する翔は、何だかとても悪い事をしてしまったような気持ちになった。


 本人は気にしていないのかも知れないが、それでも翔は負い目を感じた。


 そして鎮目と目を合わさぬよう、取り出した携帯電話の画面を見つめる。


 待ち受け画面の端に表示された時刻は、授業開始の十分前だった。


 そろそろ教科書くらいは出しておこうかと、携帯電話を机に置いてからバッグを漁る。


「……!」


 バッグをガサゴソしている時だ、鎮目はハッと口に手を当てて驚いていた。


 どうした?


 その言葉をわざわざ口に出さずとも、何に驚いたかすぐに分かった。


 鎮目の視線の先には翔のバッグ。正確にはそれに付いているキーホルダーを、食い入るように見つめていた。


「ああ、これか?」


 迷彩色のロボット。確か名前はエワンゲルオン。ロボットが登山するという良く分からない内容のアニメで、彩加が夢中になっているやつだ。この前ゲーセンでキーホルダーを見かけたので、それ以来なんとなく付けている。


 鎮目はエワンゲルオンのキーホルダーを凝視しながら、ブンブン頷いた。


 よほどこのアニメが好きなのだろう。


 例え言葉に出来なくとも、それを伝えたいのが感じられた。


 自分の好きな物を見て、とても真っ直ぐに嬉しさを表現していた。


 たったそれだけで、先ほどの罪悪感はどこかへ消え去っていた。


「親戚の子がハマってっから、俺もたまに観てるぜ」


 ハハッ。


 軽く笑いながらそう言うと、鎮目は僅かに首を傾げてから、手をポンと叩いて『あっ』と口を開いた。


 ああ、昨日一緒に居た女の子の事か。


 筆談を使わずとも、ちょっとした動きだけで鎮目の伝えたい事は大体分かった。


 不思議だ。


 相手は一言も発していないのに、極々自然に会話が成立していた。


 キーンコーンカーンコーン。


 そうこう話をしている内に始業チャイムが鳴り、わらわらと遅刻寸前の学生たちが数名、教室に入ってきた。


「よぉおおし、授業業始めるぞぉおああああ!」


 気合の入った声で、教員が教科書のページを説明しつつ出席カードを配る。


 今日は長文を訳す内容だった。


 テスト形式で書くだけならば何の問題も無いが、訳した文を朗読させる面倒な形式を取るため、声の出せない鎮目の代わりにいつもは中村が訳していた。


 その他にも声を出せないという事は何かと不便なので、今日は翔がそれを代弁する。


「――であるから、日本とアメリカでは文化が異なるのです」


 教科書の英文。鎮目が訳した箇所を読み終える。


『ありがとー』


 ペコリとお辞儀をしながら、ノートの端に書かれた文字を翔に見せる。


 それを見た翔は、ぽりぽりと照れくさそうに頬をかきながら軽く頷いた。



「――いよぉおおおおし! 今日はこれまでぇえええいい!」


 終わりの時間までまだ少しあったが、キリの良い所でお開きとなった。


『今日はありがとね♪』


 ご丁寧に八分音符まで入れて礼をする鎮目。


 翔は「そんな大した事してねーって」と手を横に振った。


「じゃーな」


 手を上げ教室を出て行く。


 今日は四限目まで講義が続くとても面倒な日だったが、翔にとってそれは大した苦にならなかった。

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