【分水嶺】SFPエッセイ099

 山に降る雨は「この斜面を流れよう」と決めて降るわけではない。

 

 雨水は、雨雲の位置がたまたま分水嶺のこちら側にあればこちらの斜面を流れ下るし、反対側にあれば反対側の斜面を流れ下る。どちらの斜面が流れていてより爽快だからとか、景色が抜群だからとか吟味して選んで降って流れるわけではない。雨水は何も考えていない。今日、雨がこちらの斜面を多く流れているからといって、それを雨水が望んで選んだわけではない。明日、雨があちらの斜面に移ったからといって、雨水がそのように仕向けるわけではない。

 

   雨雲の位置が全てを決める。

 

 それが今回の、そして恐らく最後となるレポートのテーマだ。そしてもう一つ。

 

   サイレントマジョリティは雨である。

 

 この2つについて解説する。最初はいささか回りくどいが、歴史の話から始める。お付き合いいただきたい。

 

   *   *   *

 

 誰もが大好きな幕末。1850年ごろの日本の人口はちょうど3000万人くらいだった。倒幕を本気で考えていた人たちがどのくらいいたのか確かなところはわからないが、主要な人物はだいたい歴史小説に描き尽くされていると考えていいだろう。だとすると、実際に大政奉還する直前の時点で倒幕を考えていた人間なんてせいぜい100人もいなかったろう。倒幕を唱える主要人物の腰巾着を含めても数百人いればいい方だろう。鳥羽伏見の戦いの時点で新政府軍の人数が5000人というが、これは倒幕思想があったからではなく、たまたま倒幕側の藩士だったからというのが基本だ。譲りに譲って、仮に6000人もの熱心な日本人が倒幕を考えていたとしても、人口の0.02%。幕府を熱心に支えていた日本人が同数としてこれが0.02%。つまりざっくり残りの99.96%の日本人は、幕府の存続とか日本の未来なんか考えちゃいなかった。変わるとも思っていなかっただろうし、変わった方がいいとか、変わらない方がいいとかも考えていなかっただろう。そんなことはどうでもよかった。日々の生活が大変で、うちの近所でドンパチやらなければいいなとか、新政府軍とかいうやつに作物を荒らされたり、若い者を徴兵されたりしなければいいなと思っていたくらいだろう。

 

 そういうものなのだ。

 

 フランス革命もいい例だ。当時のフランスの人口は2500万人程度だったらしい。では王政を倒そうとしていた人たちがどれくらいいただろう? 歴史に名を残している人々とその仲間たちの名前を全部あげても100人に及ばないだろう。幕末と同じだ。バスティーユ監獄の前に押し寄せた民衆の数が数千人から数万人とされている。みんながみんな王政を終わらせるべく襲撃を考えていたわけではなく、単に生活の苦しさを訴えにきただけの者が大部分だっただろうが、大きめに見積もって1万人が王政を倒そうとしいていたとしう。人口の0.04%。王政を支えようとした人数も0.04%いたとして、人口の99.92%は王政の命運など無縁だった。日々飢える家族をどうするか、家計をどう支えるか、厳しい租税をどう切り抜けるかで汲々としていた。フランスの未来とか政治体制のことなんかどうでもよかったのだ。王政がもっと別のものに変わると思っていなかっただろうし、別のものが何かを想像することもできなかっただろう。むしろ、ずっと今のまま変わらないだろうと思い、ただ、王とか政治家がもっとよくしてくれるんじゃないかと希望を持ったり絶望したりを繰り返していただけだ。

 

 そういうものなのだ。

 

 しかし彼らは豹変する。明治政府が出来上がってみるともう江戸幕府がよかったなんて言うものはほとんどいない。いたとしても0.02%くらいしかいない。フランス革命後はなるほどルイ18世の復古王政があったりして揺り戻しはあったものの、これを画策したのも大きく見積もって0.04%程度の人々だったろう。99.9%の人は、決まったものに従うだけだ。いいも悪いもなく直ちに大勢に、駄洒落のようだが体制に従う。

 

 繰り返すが、そういうものなのだ。

 

 サイレントマジョリティという言葉を、「物言わぬ大衆は、口には出さないが実はこんなことを考えている」という文脈で使う例をたまに見かけるが、完全に間違いである。サイレントマジョリティは国の未来のことなど何も考えないし、そんなことを考える暇があったら日々の目の前の仕事をするべきだと、あるいは苦しい生活をなんとかしなければと、もしくは飲んで食べて遊んで楽しければいいやと、思っている。そして体制が変わったら、それで少しは楽になるのか、余計に大変になるのかだけを気にして、やっぱり国だの世界だの地球だのの未来のことなんか考えたってしょうがないと思っている。サイレントマジョリティが未来のあるべき姿について何かを考えているという幻想は捨てなくてはならない。

 

 なぜなら、サイレントマジョリティは雨なのだから。斜面を選びはしない。

 

 では、人口の99.9%が何も考えていないし、何の意見も持っていなかったら変化が起きないかというとこれも違う。明治維新は起きたし、フランス革命も起きた。99.9%の人間が望んでもいないし、想像すらしたことがないことでも、起きる時には起きるのだ。女性が参政権を獲得し、黒人が公民権を獲得し、禁煙が社会のデフォルトになり、プラスチック製品が目に触れなくなる。風が吹いて雨雲が分水嶺の向こうに移ればあちらの斜面を流れ下るのみだ。

 

 あの不幸な複合災害「大災厄」のあと、東西日本の分裂が取りざたされるようになった。何人かの識者が、西日本の独立について「西日本に住んでいる国民の99.9%がそんなことは望んでいない。だから独立などありえない」と発言しているが、笑止である。明治維新やフランス革命のことを考えると、これはまったく意味をなさない発言だということがわかる。

 

 すでに西日本ではへんでろ毒のパンデミック対策として富山岐阜愛知ラインで封鎖が進んでいる。巨大地震と津波の影響が少なかった福岡を中心にアジアの経済圏が再編され、すでに東京の一極集中は過去のものとなっている。来年には福岡新都が制定され、中央政府機能が分都される。西日本では国際標準に合わせた未来エネルギー構想が進み、脱化石・脱原子力が急速に進んでいる。震災後の東日本の復興が遅々として捗らないのと対照的だ。東西分裂どころか、いち早く復旧を果たし、比較的政情が安定している東北以北も、いつ独立しても不思議はない。

 

 福岡で約5万人が集まって独立の声を上げたデモを見て、上記の識者たちは「福岡県の人口500万人のうちのわずか1%程度が何を言っても無駄」と発言した。同様な意見はネットでも主流を占めている。ばかを言ってはいけない。歴史を学べ。99.9%が無関心であろうと世界は変わるのだ。仙台で2万人が集まった時も「宮城県200万人のわずか1%」という指摘があった。これも同じことだ。むしろ、無関心が99%というのは、無関心層の数が0.9%も少ないことを心配したほうがいいくらいだ。

 

 筆者個人の見解として日本の東西分裂を望むわけではない。けれど、こうして定点観測を続けてきた立場としてレポートする義務がある。分裂などするはずがないと高を括る識者のみなさんや、政治家のみなさんに警告を発する義務がある。雨雲は分水嶺の向こう側に移りつつある、と。それをどう判断するかは読む人にお任せするが。

 

(「【分水嶺】」ordered by 中嶋 千恵-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・災害などとは一切関係ありません。

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