【まがらないなりにも思うこと】SFPエッセイ052

 新緑の季節は落葉の季節でもある。冬の間もずっと緑の葉をつけていた常緑樹にとって、新芽が出て若葉が開くこの季節はつまり、一冬身にまとっていた去年の緑を脱ぎ捨てる「衣替え」の季節でもあるわけだ。そういうわけで、八重桜の花びらにまじって大量の枯葉が散り敷いて、春なんだか秋なんだか季節感のわからない景色が現出する。

 

 庭先の掃き掃除を年中しているような人にとっては、そんなことは当たり前のことなのだろうけれど、日頃自然との接点が薄いわたしのような根っからの都会人は「なんでこの季節にこんなに落ち葉が?」と驚くことになる。上に書いたような説明を聞けば、ああなるほどとその時は思う。でも長くは覚えていなくてすぐに「落ち葉といえば秋」という思い込みに戻ってしまうので、毎年この時期になると「なんでこの季節にこんなに落ち葉が?」と仰天することになる。

 

 曲がりなりにも理系大学出身なのに、ロジカルに説明がつく当たり前の現象に毎年毎年仰天しているのはいかがなものかと我ながら情けなくもなるが、どうも思い込みというのは厄介なもので、なかなか拭い去ることができない。いったん「落ち葉といえば秋」と刷り込まれてしまうと、ちょっとやそっとのことで切り替えることができない。ましてや半世紀も生きてきた後となるとますます。

 

 突然脱線するが、本日この日まで、それもついさっきパソコンが「曲がりなりにも」と変換するまで、わたしは「まがりなりにも」という言葉は「間借りなりにも」と書くと思い込んでいた。「間借り人という半端者の身分なりに」というような、良くいえば謙虚、悪く言えば卑屈な言い回しだと思っていた。

 

 でも本当は漢字を当てると「曲がり形」と書くのだそうだ。「形」と書いて「なり」と読むのも難度が高いが、これはまあ「そんな汚いナリをして」などと言うところから納得できなくもない。でもそれが「曲がり」と合体して「曲がり形」とは、いったい全体どういう意味なのだろうか。想像がつきますか?

 

 調べてみたところ、「曲がり形」とは文字を見ての通り「曲がった形(かたち)」というところから「(物事の状態が)不完全であること」という意味なのだそうだ。知っていましたか? つまり「曲がり形にも」とは「完全とは言えないが、最低限の条件は満たしている様子、どうにかこうにか」のような意味なのだそうだ。くどいですが知っていましたか?

 

 勘違いはしていたものの、「間借り人」も「曲がり形」も一人前とは言えない不完全な状態ではあるものの、それぞれそれなりに頑張っているという意味で「まがりなりにも」の意味は当たらずといえど遠からずといったところだった。「その間借り人は曲がり形にも家族を養っていた」という例文を辞書に載せたいくらいだ。

 

 さて。こうして思いがけない漢字を見て仰天して、辞書を引いて「ははあ、そういうことでしたか」とその場では得心がいっても、十中八九わたしは忘れる。そしてまた「間借り人」の世界に舞い戻っていく。「曲がり形」のことをどこか隅の暗がりに追いやって「間借り人」がのこのことしゃしゃり出てくる。これが思い込みの恐ろしいところだ。

 

 大火災にあって命からがら逃げ出しても寝煙草をやめられなかったり、終末のような人災事故を引き起こして「今までが間違っていました」と声を揃えて言っていても2、3年もすれば旧態に戻ったりしてしまう。喉元過ぎれば熱さ忘れるとはよく言ったものだ。人間なぞ「知恵がある」「万物の霊長だ」などと威張ったところで高が知れている。思い込みから逃れられない、学ぶことの少ない愚か者の集団だと断じた方がよっぽどわかりがいい。ちっとも偉くなんぞないのだ。

 

 だから、このままではわたしも忘れるだろう。何か印象に残して思い込みを塗り替えるようなことをしない限り、この愚者の呪縛から逃れることはかなわない。そこでふと思いついた。「まがりなり」が不完全ならば、「まがらないなり」は完全ということにはならないか。完全無欠の人間が(つまりわたしたち愚者の群れとは違う人間が)、完全無欠な見地から意見を開陳するならば「まがらないなりにも思うことを述べさせていただく」なんて具合に言えるのではないか。

 

 まがらないなりにも思うことを述べさせていただく。曲がり形は間借り人とは何の関係もないのである。なんて感じだ。まがらないなりにも思うことを述べさせていただく。寝煙草をやめられないのはもちろん、煙草をやめられないこと自体が国家権力への奴隷的服従状態にほかならない。なんて感じだ。まがらないなりにも思うことを述べさせていただく。利権なのか惰性なのか知らないが、変えるべき旧態から離脱できない社会は薬物依存の中毒者と同断である。なんて感じだ。

 

 いかがだろうか。これでわたしはもう間借り人と決別できたであろうか。残念ながらまだ不十分だと感じている。読者はどうお考えだろうか。この上どうすればずぶずぶと旧態に戻るのを止めることができるだろう。思い込みの呪縛から解き放たれるには何をすれば良いのだろうか。妙案があればぜひ教えていただきたい。

 

(「【まがらないなりにも思うこと】」ordered by 阿藤 智恵-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・原子力災害などとは一切関係ありません。

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