【それはkissから始まった】SFPエッセイ050

 ぼくには親友と言えるような人はいなくて、親友というのがどういうものなのかこの歳になってもよくわからない。小学生時代に「親友」ということばを覚えたばかりの頃には、しょっちゅう一緒に遊んでいる友人のことを「彼こそ親友だ」と思っていたこともあるが、今から思えばそれは気の合う遊び友達であって、親友とまでいうような存在ではなかった。中学高校の頃にも親友のように思っていた友人はいたが、それもその後何十年も経ってみればまるでやりとりが絶えてしまっている。その程度のものだ。

 

 友情を感じないわけではない。一緒にいれば愉快で、会話もスリリングで、共通の趣味について情報交換したり、街に繰り出して行ったりすることを楽しんでいて、ある種の競争心もかきたててくれて、そんな友人はいた。それだけ揃っていれば親友といってもいいだろうと思える。けれども例えば『走れメロス』ではないが、相手のために命を投げ出しても惜しくないような熱い友情について読んだり聞いたりしても、そんなのは大げさなフィクションだとしか思えない。少なくとも自分の中にはただの一度たりともそんな感情が芽生えたことはない。

 

 これは何も親友に限った話ではない。両親やきょうだいへの感情においても恋愛においても、あるいは結婚後にできた新しい家族に対する愛情においても同様で、人から聞く愛情や友情と比べると、何かが決定的に抜け落ちているように思えるのだ。ぼくは薄情なのかもしれない。ひときわ淡白な性格なのかもしれない。どこかに欠陥があるのかもしれない。まだ若くて、あれこれ他人の視線や評価が気になっていた時期にはそんな風に悩んだこともあった。

 

 今はなぜ自分がそんな風にしか感じられないのかが分かっているので、もう悩むことはない。少しさびしくは思う。熱い友情や愛情を感じられないからさびしいのではなく、そのせいで多くの人を傷つけてきたことがわかっているので、そのことがさびしいのだ。男女を問わず友達との関係においても、ガールフレンドとの関係においても、いくつか身を置いたことのある職場でさえ、ぼくは相手がぞっとするようなひどいことを何度も口にし平気で傷つけてきた。そして、相手のその反応を見て初めて自分が取り返しのつかない失言をしたことに気づくのだが、後の祭りだ。

 

 そんな風にして家族を傷つけ、何人もの友達を失い、女の子にも愛想をつかされた。そしてよりさびしいことに、おそらくぼくは自分自身の妻や子どもたちにも同じようなひどいことをしたり言ったりしてきただろうし、これからもしてしまうだろうことがわかっているのだ。これは自分で気をつけてどうすることもできない。口にするまでそれがひどいことだとはわからないからだ。言ってしまった後で、相手の反応を見て初めて、それが取り返しのつかないことだとわかるのだ。それがさびしさの理由だ。ぼくは、周りの人間を傷つけずにはいられない。いや。それだけなら誰だってそうだろう。ぼくは、周りの人間をひどく、徹底的に傷つけ、失望させずにはいられない。そう言い直すべきだろう。

 

 さて。

 

 重い話に付き合わせて申し訳ない。なぜこんなことを書き始めたかというと、同じように感じている人が他にもいることを知っているし、とりわけそれが若い人の場合、そのことで悩んだり苦しんだりしているだろうと思い、彼らが少しでも生きていきやすいように伝えたいからだ。同じような思いを抱えて生きている人間は君が想像している以上にたくさんいるし、君が抱えている悩みは世界で初めての悩みってわけじゃないということを伝えておきたいからだ。

 

 想像している以上にたくさんってどのくらいだ? と君は聞くかもしれない。お答えしよう。そういう種族は──種族という言葉を使ってもいいくらい、結構たくさんいるんだ──驚くかもしれないが、この日本に限っても1000万人から1500万人はいる。嘘ではない。ちゃんと一人一人指差し確認で数えたから間違いない(言葉通りに取らないように。これは冗談だ)。もっと言うならば世界では6億人から8億人くらいいる。Facebookの利用者にはちょっと負けてしまうくらいの人数だけど、ちっとも少なくないだろう?

 

 その中には社会的に成功を収めて我が物顔にぶいぶい言わせている人も多くいる。逆に社会的には弱い立場でいじめられたり蔑まれたりして悩みもがいている人も大勢いる。ぼくみたいにぼちぼちの生活をしながら、ひっそりとさびしい思いを抱えている人もいる。世界から注目され尊敬を一身に受けている人もいれば、残念ながら枠組みを外れて法の外にいる人もいるけれど、それはどんな人間のグループでも同程度にはそういう人がいるので、別にぼくらの仲間だからということではない。ただ、共通してぼくと同様な寂しさを抱えている。

 

 君達も社会に出れば気づくだろう。ワンマン社長で、知り合ったばかりの人に向かってやたら親友呼ばわりするような人がいることに。彼はぼくらの仲間だ。でも自分が何者なのかを分かっていない。逆に「自分は人とうまくやっていけない半端者です」と卑下して人と一切関わろうとせずに閉じこもってしまう人もいる。それもやはりぼくらの仲間だ。やたら親友を求めるのも、人との関係を一切断とうとするのも原因は同じだ。ぼくらがそういう種族だからなのだ。

 

 正直なことを言うと、ぼくが初めて「引きこもり」という現象を知った時には感心してしまった。「なんだ、そうすれば良かったんだ」と思ってしまったくらいだ。それくらいぼくにとって人生は生きづらく、他人と関係を築くことは煩わしいものだったからだ。「引きこもり」は社会問題のように言われているけれど、ぼくらの種族の側からすれば大いなる解決策だと呼びたいくらいだ。

 

 もちろん、そういう生活が許されるような環境──経済的にも、社会的にも許されるような環境──にいるかどうかという問題はあるんだけれど、引きこもりが一つの解決策であることは間違いない。「引きこもってネットばかりしている」という状態を悪しきものとして否定的に語る人もいるが、ぼくらの種族にとってはそれこそが最も精神的に安定して過ごせる状態なのだから、むしろ積極的にそういうスタイルをサポートすべきだとすら、ぼくは考えている。

 

 でも、と君は言うだろう。本当は引きこもりたくない。あちこちに出かけたい。友達も作りたいし恋人だって欲しい。結婚して家族も欲しい。人付き合いは面倒だけれど、それでも周りの他の人と同じようにいろいろな経験もしたいし、そうやって社会の中に自分の居場所を作りたい。オーケー。だとすればすることは一つだけだ。外に出て、人と会って、今までしたことがないことをしてみよう。それもできれば他の誰かが設定した出来合いの場所(出会い系サイトとかなんちゃら交流会とか)に参加するのではなく、君自身が興味を持つ世界に自分一人で飛び込んでみよう。

 

 人を傷つけるのがこわいって? もちろんだ。人を傷つけてしまったらそれを反省するのはいいことだし、同じ失敗を繰り返さないよう努めるのは成長だ。でも自分では意図せずに傷つけてしまったことを自分の欠陥のせいだと考えるのはやめよう。ぼくらはそういう種族なのだ。それは欠陥ではなく、他に振る舞いようがないのだ。幸いぼくらは薄情にできている(これは自虐的なジョークだ)。人を傷つけたり自分が傷ついたりすることを避けようのないこととして受け入れよう。

 

 人は生きていれば必ず人を傷つけてしまうものだ(ぼくらの種族であってもなくても)。もちろん喜ばせたり癒したりもしているんだけど、傷つけ合うのも避けられない。それはもう、あらかじめ仕込まれたプログラムだとでも思うしかない。相手に理解があるようなら「申し訳ない。自分はそういう種族なんです。努力はするけれどしくじることもあります」とカミングアウトするといい。何人かはうまく付き合える相手が見つかるだろう(気がつけば相手も同じ種族ということもある)。それはほとんど親友や恋人といってもいい存在になるかもしれない。そんな大げさでなくていい。安定した関係を築ける相手がたった一人見つかれば、君はもう引きこもることなく生きていけるだろう。

 

 古いスタンダードナンバーに「それはkissから始まった」という曲がある。1933年に流行ったスイートなジャズの佳曲だ。ミリアム・マッケイというハスキーな女性ヴォーカルのヒットソングだ。「わたしの心はいつもクールで、冬にウールを着ていても変わらない。言い寄ってくる男の子たちはいたけれど、みんなプールに突き落としちゃった」という歌い出しからそれはラブソングのように思えるけれど、中盤に意外な展開を見せる。ヒロインはボーイフレンドと結婚し、赤ちゃんが生まれる。そしてサビの部分。「わたしたちのベイビーが、全てを変えてくれた。彼女がkissしてくれて、魔法の瞬間がやってきた。世界がわたしにkissしてる! それはkissから始まった」

 

 ぼくも全く同じ経験をした。それほどの結婚願望もなく結婚し、それほど望んだわけでなく赤ん坊を得てしばらくたったある日、赤ん坊がぼくの顔をじっと見てからいきなり弾けるように笑った。その笑い声を聞いた瞬間、ぼくの中で何かがカチリと音を立てて、世界がぼくに笑いかけるのを感じた。「それは笑い声から始まった」のだ。

 

 もっとも、それ以降はやっぱりそれまでと同じように、家族にも子どもにもそれほどの深い気持ちは持てないままだ。それでもあの一瞬の感覚がその後のぼくを支えている。運が良ければ、ということかもしれないけれど、君にもそういう瞬間がきっと訪れるはずだ。相手は子どもかもしれないし、恋人かもしれないし、友人かもしれない。若いうちに体験するかもしれないし、ずいぶん年を取ってから体験するかもしれない(ぼくの場合は後者だった)。そういう魔法のような瞬間が、外で君を待っている。傷つけたり傷ついたりするのはその一瞬のための代償だ。そしてその代償には十分にお釣りがくるようにできている。

 

(「【それはkissから始まった】」ordered by 冨澤 誠-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・高階家などとは一切関係ありません。

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